消える。
ドロドロと俺の口から流れるマグマは綺麗に掃除が行き届いている床に垂れ落ち、辺り一面に溜まっていく。そしてそのマグマは俺の心が虚しく、冷めていくのと同時に黒く歪な形に冷え固まっていった。
これは以前にも思ったことだが自分の感情を露わにするということは普通に生きていく中で最も無駄な行為であり避けなくてはいけないことでもある。そのことは重々承知であるはずなのにまた同じ過ちを繰り返してしまった俺はなんて愚かだろう。
人間誰しも一つは個性、アイデンティティなるものを持っている。これは偉人や有名人が持っているような才能という訳ではなく、周りの人間より少しだけユニークである。気配りが上手い、思いやりがあるなど小学校の通信簿に書かれるような小さな物だ。
俺に当てはめられるものは『普通』だと思っていた。普通に物事を捉えられ普通に行動出来る。だって考えてもみてくれ、俺はそれを目標に今日まで生きてきたのだ。出来ない筈がないだろう。
それを今この瞬間失った気がした。俺のアイデンティティは足元から崩れ落ち、多田 崇はどこにでもいるなんの個性のないただの『人間』になってしまったのだ。
喉から手が出るほどなりたかった普通の『人間』に今こうしてなれたのに心は冷え切っている。凍てつくほどの静寂が耳に響き凍傷したようなズキズキと鈍い痛みさえ起きてきた。こんな無様な俺を誰か笑って馬鹿にするか皮肉の一つでも言って笑いものにしてくれとまで考えている自分が心底嫌になり自分で自分を殺したくなる。
「――大丈夫だよ。僕はちゃあんと分かってるから」
そんなどこまでも無様で愚かな俺の耳元には確かに聞こえてくる声が一つあった。
その声は俺が聞いてきた中で一番か細く弱弱しいがそれでもしっかりはっきりと届いた。
「同志は普通に良い人で優しくて、そして幸せ者なんだよ……どうして僕が分かると思う?」
「……分からない」
幽霊の問いかけに俺は素直に答えた。普段の俺なら無言を貫くのだろうが静寂の痛みを今一番知ってしまっているからこそ、返答したのだ。
そんな俺に対して幽霊は顔こそ見えないが微笑んであろう笑い声を出してから。
「それはね、僕が幸せから遠ざかっているからなんだ。『普通』の幸せから一番遠い僕だからこそ、周りの皆がどれだけ幸せなのかが分かっちゃうんだよ……だから羨ましいんだ」
「羨ましくて、それで自分がどれだけ恵まれているのか分かっていない君が妬ましくて。だから憑りついたんだけどさ、そんな僕を君は渋々だったけど結局は受け入れてくれて嬉しかった。死んで初めて僕は幸せを手にしちゃった。でもね、やっぱり君が羨ましいから僕は決めた。成仏して生まれ変わって今度は自分が普通に幸せになれるよう頑張ろうって、そう思ったんだ」
幽霊はそう言いきり、自らが作ったバリアのせいで見えない瞳を俺に向けた。その瞳が、声が、思いが俺の身体に温もりを与えてくれて、内側から先ほどとは別の何かがじんわりと染み出てくるのを感じる。
この何かについてもきっと名称があるのだろうが生憎普通人間の俺の辞書には載っていないし、別に知っていた所で何の得にもならない。ただ浸っている分には損にはならないので俺は黙ってこの心地よさを噛み締めることにした。
しかし、そんな時間は決まって長くは続かない。
「……さて、幽霊君。もう何か言い残すことはないか?」
カラン、と乾いた音が現実へと思考を戻し、俺と幽霊のやり取りを長い間静観していた一匹の悪魔が口を開いた。
「……はい。大丈夫です」
それに対し幽霊は二言返して、俺から見えない視線を確かに逸らす。
「そうか、では始めるとしよう……出会って間もないが君は中々面白い奴だった。来世では幸せがあらんことを」
グラスを置いたマスターの右手がゆっくりと幽霊に向けられ何故か別れでもするかのような言葉が送られる。
そこで俺は思い出した。今からこのクソオタク幽霊は成仏させられるのだ。
気がついてしまった俺に、不安と焦りが一気に生じる。今ここで成仏してしまえばもう二度とこいつには会えなくなる。
初めは確かにウザかった。しかし取り憑かれていたとはいえ一緒にゲームをしていた時は楽しかったのも事実だ。
そしてこんな俺に対して真正面から向き合ってくれた、それも嬉しかった。
だからこそ、こんな別れなんて納得出来るはずがなく俺の身体は今度は自分の意思で動き行動に出た。
「ちょっと待ってくれっ――」
――パチンっ。
マスターが右指を擦り合わせて一つの音を作り、まるでマジシャンのように全てを消してしまった。
周りの音も、俺の言葉も思いも、そしてたった今まで隣にいた幽霊さえも、全部全部消してしまったのだ。




