無知は恥
次に俺が目を覚ますと目の前には『淫魔の間マークⅡ』と書かれた張り紙が貼ってあるドアがあった。
…………全く記憶がない。正確に言えばあの扉の向こうに入ってからの記憶が丸々抜け落ちているのだ。
一体あの間で何が起こってのか。お題はなんだったのか。記憶を辿ろうにも頭の奥から鈍い痛みが響いてきて思い出すことが出来なかった。
俺は床から起き上がり現状を確認する。まずは所持品を確認するためにポケットを漁る。家の鍵に携帯、財布。持ち物はどうやら無事らしい。
そしてポケットの奥から出てきた一枚の謎の紙、紫色のキスマークが付けられていて気色が悪い紙だ。
俺は常に必要最低限の物しか持ち歩かないしこんな物持っていない。貰ったとしてもすぐ捨てるだろう。
となると俺が記憶を無い時に手に入れたというのが妥当だ。
「なぁミカ、この紙って……」
恐らく事の事情を知っているであろうミカに尋ねてみる。
がしかし。
「…………っ」
ミカは俯き加減で唇を軽く噛み、黙っている。
濡れた瞳、紅潮した頬、そして白装束から少しばかり見えている白肌が何処か色っぽさを演出している。
なんでそんな気まずそうにしているのだろうか。そしてその妙な色気はなんなのだろうか。
「ミカ? どうしたの? 気分でも悪い?」
もしや記憶がない期間、俺はミカにとんでもないことをしでかしたのではないだろうかと言う不安がよぎる。しかし俺に限ってまさかそんなことは起きないという願いを込めてミカに聞く。
「いえ。その、色々と『大人の世界』を教えていただいて少し驚いているだけです」
おい。ほんと何してんの俺。
俺は一旦落ち着く為に深呼吸をして脳みそを研ぎ澄ます。これはあれだ。大人の世界というのは卑猥な比喩なんかではなくそのままの意味で使われているパターンだ。煙草とか酒とか未成年が経験できないことを指している表現だろう。
半ば自己暗示に近い方法で自分を納得させているとミカは何かを握っている手をこちらに向けてきて。
「多田さんが気を失った後アスモデウスさんに『ホテル』の概要をお尋ねしたのですが……まさかあんな所に誘われるなんて思っていなくて。そして『大人の玩具』の使い方も私が想像していたものと違って凄くて……」
そう言って手を開いたミカが握っていたのは『ピンク色の小型振動機』だった。
いや、待て待て。これは絶対におかしい。
まず『ホテル』ってなんだ。どうして『大人の玩具』が出てくる。そしてなんで俺は気絶しているんだ?
とりあえず後でクソオカマを徹底的に問い詰めるとしてだな。俺にはどうしても確認しなくてはいけないことがある。この問いかけの答えによっては俺は俺の人生において大きな失態を犯したことになる。
「……念のため一応聞くけどさ。俺ミカに何もしてないよね?」
悪い意味で高鳴る心臓に手をやり押さえながら言う。ミカは即答せず、ただ『ピンク色の小型振動機』を握り直すだけだ。
嫌な沈黙が俺の耳を包みこみ、もう逃げ出したい気持ちで一杯だ。
そして。
「どうやら多田さんは忘れてしまっている様子ですが私はちゃんと覚えています。貴方と交わした約束も、抱いて頂いたときの温もりも……」
「よし分かった。じゃあ次の間に行こうか」
俺はまだ何か言いたげなミカを背に闇の中に逃げ込んだ。
知らぬが仏という言葉がある通り、世の中には知らない方がいいことが沢山ある。サンタクロースの正体が親だったり好きな女の子が先輩と付き合っていたり、バイト先の店長が金髪幼女の悪魔だったり。
無知は恥だがその分人生を無事に送ることが出来るのだ。俺は俺の哲学を信じて次の間へと進むのであった。
そのまま階段を上りようやくたどり着いた第三の間。そこで待ち受けている語り部とは一体誰なのか。どんな強敵なのか……。
まぁ大方の予想はついているし扉の前にある張り紙からしてあいつしかいないのだが。
俺が張り紙をまじまじと見ているとミカが俺に追いついたようで息を切らしながら手を両膝についている。先程の会話もあってか息遣いと白肌に滴る汗が妙に色っぽく見え目のやり場に困んですけど。
そんなミカの呼吸が整うのを待ってから俺は張り紙についての疑問を聞くことにした。
「この間の名前、本当に合ってるの?」
「はい。これで合っています。語り部様にも了承を得ていますし」
ミカがそう言うのなら正しいのだろうが俺はどうにも腑に落ちなかった。
淫魔の間は分かる。語り部がムウマだったからだ。淫魔の間マークⅡもまぁ語り部がアスモデウスだったのでかなり妥協して分かったことにしよう。
だけどこれはなぁ……。
何とも言いがたい思いを抱きながら張り紙を見ているとミカが咳払いを一つしてから畏まった態度をとる。
そして。
「こちらが第三の間『阿呆の娘の間』となります」
チューニングのずれたベース音のような重くて間抜けな空気が立ちこんできた。
確かに、この間の語り部であろう人物は生粋のアホなのは間違いない。だけれどもこれはちょっと可哀想だよなぁ。
「多田さん。勘違いをされないよう事前に言っておきますが『阿呆』とは地獄の覇者、つまり覇王が訛った表現でして語り部本人も偉く気に入っているのですよ」
前言撤回、あいつは可哀想な程生粋の馬鹿だった。
俺はドアの向こうで自信満々の表情で待っているに違いないあいつに同情の眼差しを向けながらドアノブに手をかけた。
「あの、語り部の説明がまだですがよろしいのですか?」
ミカの問いかけに俺は一言「いいよ」と返事をする。無知は恥の件で言うのなら今完全に恥をかいているあいつを早く帰らせてあげるのがせめてもの情けという奴だろう。後ここは所謂ボーナスステージだと思うのでとっととクリアしたいのもある。
ドアノブを捻り、中に入る。俺を待ち受けていた語り部。そいつは……。
「がおーっ!! トリックオアトリートっ!!!」
開口一番、恐らく狼であろう着ぐるみを身にまとったアイニィが大声で威嚇してきたので俺はそっと扉を閉めた。
――ああ、アイニィってほんと不憫な子……。




