劣情
「多田さんっ!? 大丈夫ですか?」
カウンターに伏せて起き上がれない頭の中でミカが俺を呼ぶ声が聞こえる。俺はすぐさま体勢を整えようとカウンターに両手を置いて立ち上がろうとするが上手く力が入らない。それどころか俺が今本当にカウンターに手を置いたのか、両手に力を入れたのかすら分からなかった。
そんな俺が唯一分かったのは俺の背中を擦ってくれる一枚の小さな紅葉の葉の感触だ。
異性に惹かれる。好きになるタイミングは人それぞれだが、その中でも『自分が弱っているときに助けてくれる人』なんかが現れると大小あるが少なからず好意を抱いてしまうものだ。勿論俺だってそうで今こうして俺の背中を擦ってくれているミカがほんと天使のように思えてきて惚れちゃいそう。
因みにこれは蛇足だがSNS上で女の子が悩んだり愚痴を零したりする投稿、所謂『病みツイート』等と呼ばれる書き込みに対して『なしたん? 悩み事?』だったり『大丈夫? 俺で良かったら相談のるよ^^』みたいな返信を送る輩がいる。
これは先ほども言った法則を悪用し女の子とイチャコラしようだなんてミジンコも鼻で笑うレベルの安直な発想だ。しかしこの病みツイートはある特定の人物に慰めて欲しいから発言する要は『餌』であってそれ以外の奴らが釣れてもキャッチ&リリースされるのがオチだろう。もっと言ってしまえばそんな下心丸見えな返信をしたって受け手に気持ち悪がられたり返信内容のスクリーンショットを撮られて周りの笑い者になるだけだからな。
大分話が逸れたので本題に戻すとこの状況、口説くにはまずいのだ。
普通に考えてみてほしいのだが、酒に酔っ払って介抱している人間に口説かれても何にもときめかないし嬉しくもない。
ここはだな、酔ってない振りを……っというのはもう既に手遅れなのでせめてまだほろ酔い程度の振りをしなくてはいけない。まずは起き上がってっと。
俺はもう一度腕に力を入れて起き上がろうとするが案の定無理だった。産まれ立ての小鹿のようにプルプルと震えた両腕は力及ばずゆっくりと前のめりになる。
「多田さん……」
ミカが心配そうな小声で俺の名前を呟き背中を擦ってくれた手が俺の右手に添えられた。
まずい、非常にまずい。これで益々口説きづらくなってしまった。それ以前に俺は彼女に迷惑もかけているだろう。ひとまず謝らなくては。
ふわふわと水中に浮かんでいるような感覚に陥っている脳みそをフル稼働させ謝罪の言葉を考えた後、今出せる力の全てを使い頭をミカに向けた。
相変わらず周りの視界はぼやけている。そしてピントが合った彼女の姿も、相変わらず美しかった。
ミカは不思議そうに俺の顔を見ながら小首を傾げる。その仕草一つも愛おしく感じた。
「……ミカ」
俺は彼女の名前を呟き、添えられている小さな手を握り返す。酔っ払っているため力の加減が分からず強く握ってしまったようで、彼女が小さくビクついたの感触が伝わってくる。
……なんだろうか。この胸のざわめきは。沸騰寸前の鍋のように、文字通り煮え切らないこの感情は。
いや、俺は知っている。これらの感情を呼ぶ総称を俺は分かっている。しかし認めてしまえば俺のアイデンティティや今までの人生計画が崩れ、俺が俺でなくなる気がして怖い。
しかし、よくよく考えてみればこれが普通なのではないだろうか?
この気持ちを仮に『劣情』と格好付けて呼ぶとしよう。そして俺は普通の人間であり普通の男だ。ミカは天使だけれども性別で言えば女の子だ。男が女に劣情を抱くなんてことは普通で当たり前なのではなだろうか?
「多田さんどうしました……きゃっ!」
俺は握ったミカの手を引いて、彼女を強引に抱き寄せた。
きっとこの考えは俺が抱いている劣情に対する後付のような最悪な考えなのだろう。そして俺はこの後『酔っているから仕方がなかった』なんて最低な言い訳でそれを肯定してしまうのだろう。
けれど仕方がなかった。しょうがなかった。この気持ちを解消するには、これしかなかったのだ。
無音のBARには鼓動の音が二つだけ鳴り響く。世話しなく馬鹿らしい速度で動いているのが俺の心臓。静かに一定のリズムで。優雅ながらそれでもはっきりと主張してるのがミカの心臓だ。
先ほどまで抱いていた劣情はミカを抱きしめることで身体の内側から全身に浸透するように広がっていき充満していった。この感覚が酷く心地よかった。
これが満足感というやつなのだろうか。幸せというものなのだろうか。これも俺には分からない。しかし今はこの気持ちに浸っていたい。それだけだ。
胸の奥まで抱き寄せたミカをもう一度強く抱きしめる。そして彼女の首元に自分の顔を埋めた。密着している面積が増えてこれでより彼女の体温に触れることが出来る。
俺は満足感と幸せで満たされているがミカはどうなのだろうか。きっと彼女も同じ気持ちなんだろうな。同じ気持ちだといいな。
そう思い、俺はミカを抱きしめ続ける。俺と同じ気持ちになって欲しいから。この気持ちを共有して欲しいからそんな理由だ。
抱きしめる度に伝わってくる温もり。心臓の鼓動の音。どれも愛おしい。全部俺だけの物になって欲しい。
そして。そして……。
「――ッ!」
またしても俺の思考は一瞬だけ止まった。これは先ほどのようにミカの美しさに見惚れていた訳ではない。
俺は気がついてしまったのだ。そして気づいた途端、満足感と幸せは酷い後悔へと変わってしまった。
――ミカが震えていることに、俺は全く気がつかなかったのだ。




