反逆のベリルとホールディング
人間、脳みその容量を超えた情報量を得ようとすると思考が止まる。コンピュータの処理落ちなんかと同じだ。
それだけ禁断の果実の味は衝撃的で、まるで時が止まったような錯覚さえ覚えた。
「多田さん、あの……」
俺がよほど変な顔をしていたのかミカが心配そうに尋ねて来る。それを手で制して、大丈夫だと一言付け加えた。
「謀反ってことはつまり神を殺そうとしたってこと?」
俺が聞くと彼女は驚いた表情からまた暗い顔に戻って。
「はい、そうです。行方が分からなくなってから三ヵ月後のことでした。」
「マスターに仲間はいないの? ほら、謀反を起こすんだったらそれだけ戦力が必要なわけだし」
「いえ、姉はたった一人で神の首を取ろうとしたんです。それで……」
ミカはそれ以上は何も言わず、再び俯いてしまった。
俺は顳顬を押さえ、イカれかけた脳みそをフル稼働させながら、これまでの話をまとめる。
マスターはたった一人で、この世で絶対的な存在の神に反旗を翻した。しかし、その結果はミカの表情からでも容易に分かる。この騒動が『革命』ではなく『謀反』だと伝えられているように、マスターは敗れてしまったのだ。
けれど解せない点がある。
「……マスターはなんで生きてるんだ?」
神に仇をなす大罪を犯したマスターには当然一番重い罰則、つまりは死こそが相応しいという言い方も変だが、妥当だと思う。
それなのに今も飄々と人間界でバーなんか開いているのはおかしな話だ。
「本来罪を犯した天使は魂になって地獄に堕とされるのですが、姉は二度と何も出来ないように魂にされた後、他の熾天使達に監視される形で幽閉されていました。ですが……」
「ですが?」
「ですが、ある日熾天使の目を欺いて逃げ出したんです。そして悪魔に堕天してしまったんです」
ミカはそう話すが俺は正直納得はいかない。
マスターがいかに優秀だからと言って、天使の中で最上級の位である熾天使達から逃げることなど出来るのだろうか。
何か裏があるとしか思えないのだが。
しかしこれはきっとミカにも分からないことだと思うのでこれ以上追求することはしない。
俺は視線を落として、空のコップを見つめる。
マスターはいつも余裕そうな笑みを浮かべている。しかしその笑みの裏にはこんな悲壮な過去があったとは想像も出来なかった。
一体彼女はどんな思いで神に反乱を起こしたのだろうか。どんな思いで魂になってから幽閉されていたのだろうか。
そしてどんな思いで俺を見ていたのだろうか。
普通で平凡な、それでいて平穏平和な人生を送りたい。これが俺の目標だ。誰が馬鹿にしようとも貶されてもこれだけは譲ることが出来ない。
しかしマスターからしてみれば俺の考えなんてちっぽけで惨めなものなのかもしれない。
他人の目など普段は気にしないが、そこだけ何処か引っかかった。
「さて多田さん。お話も終わったことですし、そろそろ行きましょうか」
俺がそんなことを考えているとミカがおもむろに席を立つ。
「え? 行くってどこに行くんだ?」
尋ねてみると彼女はいつものような仏頂面で。
「決まっています。姉の所です」
「はぁっ!?」
俺は思わず席から立ち上がった。
今の話の流れからどうしてマスターの所に行くのか分からない。それにこの話を踏まえて実の妹と言えどマスターが天使に会うのはまずいだろう。
「ほら、多田さん。行きますよ」
ミカが俺の服の袖を引っ張る。だが、俺は動かない。動くわけにはいかない。俺は絶対に動かないぞ。動かざること多田の如しだ。
もう今日は疲れた。あんな重たい話を聞いた上にさっき天使に殺されかけたんだぞ。これ以上面倒な展開は勘弁だ。
動かない俺に見かねたミカは一度手を離し、息を一つ吐いてから。
「多田さん。分かっていないようなので言っておきますけど貴方は今私に拘束されているんですよ。つまり……」
そう言うとミカは不意に俺の腰に腕を絡めてくる。
「ちょっ! ちょっと……っ!」
俺は彼女の肩を持ち引き剥がそうとするが岩盤に引っ付くタコのように離れない。
そしてミカは俺の上半身に顔を埋めたまま視線だけを此方に向けて。
「……今だけは、多田さんは私の物なんですから」
上目使いで、先程引き剥がそうとした際に抵抗したものだから呼吸を乱しながら、そして軽く頬を赤くしながらミカはそう言った。
俺の心臓が先程、マスターの過去を知る時とは別の意味で加速していく。
窓のない密室の部屋。俺の胸に抱きつく白髪の幼女、しかも頬を赤くしながら。これはやばいでしょ、社会的に。
なので俺は。
「分かった。行くよ。行けばいいんだろ」
降参とばかりに両手を挙げ、俺は言った。
「そうです。多田さんは素直に従っていればいいんです」
ミカは何処か嬉しそうに笑ってから身体を離し、今度は俺の右腕に引っ付いた。
「それじゃあ行きましょうか」
そのまま俺はミカに腕を引かれて部屋を後にする。そういえばカツ丼の皿を片付けて忘れているのに気がついたのでミカに声をかけようとしたが、彼女が楽しそうに笑っていたので止めておいた。
さて、マスターになんて言い訳しようかなぁ。




