マスターと添い寝
海の家に最初の客が来てから一時間が経過した。
あんなにガランとしていたのが嘘のようで、若い男女カップル、チャラい見た目をした男に女、そして冴えない顔で周りをキョロキョロしている男達に家族連れなど沢山の悪魔達で賑わっている。
ここ、海の家もその恩恵を受けてか中々の繁盛振りだ。
「お待たせしました。生一つです」
俺はプラスチックのコップを両手で持って店内でくつろぐ客にビールを渡す。
「おう、あんがとよ」
その客は俺からコップを受け取り、一気に飲み干す。どっぷりと肥えた腹が揺れ、プハーっと声を漏らす。
「兄ちゃんお代わりを頼むよ」
「はい、分かりました」
俺はコップを受け取り再びビールを注ぎに戻る。
くそ、昼間から酒飲んで良いご身分だこと。俺がこんなに汗水垂らして働いているというのに。
愚痴の一つでも呟きたいところだが、口を動かす暇があれば手を動かさなくてはならないわけで。俺は歯を食いしばりながらも接客をこなしていった。
それから数時間後。
禍々しい太陽が海に浸かり始め、辺りは赤色から紫色のグラデーションに染まっている。
もう悪魔共は皆帰ったようで、またこの海には波の音が聞こえるだけになっていた。
俺は外に設置してあるパラソルと椅子、テーブルを回収して、日が沈んでいく海を眺めていた。
海というのはなんとなく人間をノスタルジーにさせるものだ。
そういえば俺が海に来るなんて何時振りだろうか。確か、小学校振りか?
あの時は幼馴染のたま子も一緒に行って、あいつに散々振り回されたんだっけ。
あいつが砂に埋もれたり、沖まで流されたりして大変だった思い出がある。
今思えば普通の人生を歩んでいるつもりだったけど結構苦労している気がしてきた。まぁ今が正に苦労の最中でもあるのだが。
なんで人生というものはこう思い通りにいかないのだろうか。いや、恐らく思い通りにいかないことこそ、神様の思惑通りなのだろう。
だったら俺は神様なんか一生信じない。
「多田君。お疲れ様。どうした?そんな哀愁漂う悲劇の主人公気取りなんかして」
ノスタルジーな思い出から神様への愚痴に変わったところで隣にマスターがやってきた。
「いや、別に。ただ、今日も働いたなと思っていただけですよ」
「ふふっそうか。今日も良く働いてくれたな。どうだ?海の家も楽しいだろ?」
「まぁ、そうですね。はい」
俺がやっている仕事は普段バーで働いているときと然程変わりがないがな。
「取りあえず今日の仕事は終わりだ。……ほら」
マスターからコップが手渡された。中に入っているのはビールだ。
「えっとこれは?」
「今日一日の仕事の疲れを癒しだよ」
「そうですか……」
正直ビールは好きではないのだが。貰ったものは素直に受け取っておくか。
「では、仕事終わりに乾杯といこうじゃないか」
マスターが自分のコップをこちらに向けてくる。
俺も腕を伸ばし、そっと彼女のコップにくっつけ、そしてビールに口をつけた。
うん、やっぱり苦いな。
日が完全に落ちて辺りは暗くなり、月明かりが申し分程度に光るころ。俺とマスターは寝ることにした。
今日の宿はこのオンボロ小屋。朝起きたら潰れていないか心配だ。
まぁそれよりも心配なのが。
「ふむ、思っていたより随分狭い寝床になってしまったな」
そう寝床。家の内部にある座敷タイプのシートに布団を敷いてみたのはいいのだが如何せん狭い。これでは布団一枚しか敷くことが出来ないためマスターと添い寝するしかないのだ。
「多田君。先に言っておくが私の寝込みを襲うだなんて下賤で浅はかな考えは止めておいた方が身のためだぞ」
マスターがスク水から以前着ていた熊さんパジャマに着替えてからポツリ。
「分かってますって。大体俺が襲う訳ないじゃないですか」
誰が好き好んで幼女なんか襲うか。
「そうか。まぁ平穏な生活だなんてくだらないことに執着しているようなヘタレには無理な話か」
このクソガキ。ぶん殴ってやろうか。
「では灯りを消そうか。明日も早いからしっかり寝るように」
そう言ってマスターは家の明かりを消して布団に潜った。
俺も布団に入り、瞼を閉じる。が、どうにも落ち着かない。
他人と寝るなんて何年ぶりだろうか。思い返せば幼稚園とかそれくらい前の話だ。
なんか寝ずらいなぁ。自然と意識してしまって。
マスターもきっと同じ気持ちなんだろう。
そう思い、マスターの顔を覗いてみると。
「…………すぅ…………すぅ…………」
全然そんなことはなく、もう既に意識は夢の中のようだ。
目を閉じているからかその長い睫毛が映え、幼女ならではのプニプニの頬と潤った艶のある唇が寝息を立てる。
……こうしてみると可愛いんだけどなぁ。普段の行いの所為で台無しだ。
そのままマスターの顔を眺めるのもなんだか変な気がしてきたので俺も寝ようとしたその時。一匹の蚊が何処からかふらりと飛んできた。
そしてその蚊はゆらゆらと飛びながらマスターの白い頬に止まる。
このまま無視にてもいいのだが(虫だけに)しかしマスターが蚊に刺されるのも見過ごしていいのだろうか。
マスターは自分の顔に対して過度な自信を持っている。そんな彼女の顔に赤い腫れ物でも出来ればきっと不機嫌になるに決まっている。
そしてその不機嫌さと苛立ちが俺に降りかかってくるに違いない。火種はしっかり絶たねばならない。
俺はそっと手を伸ばし蚊を手で払いのける。しかし、この蚊は中々根性があるやつで離れようとはしない。
ならば直接摘んでやろうと思い、俺は指を伸ばした。
その時。
ぷーん。
先ほどの度胸は何処へやら、蚊はマスターの頬を刺すこともなく、暗闇へと消えていった。
これで、一安心。とはいかない。俺の行く手のない指がそのままマスターの頬へと向かっていく。
結果。見事頬に着地。ぷにっという柔らかい感触が指先から伝わり、俺の指は柔肌に包まれていく。
これはやってしまったか……?
「ん……んぅ……」
マスターがむにゃむにゃと何かを呟いたが起きる気配はない。
どうやら問題なく、終わったようだな。
何故か額から垂れてきた汗を拭い、俺も寝に入ることにした。これで今日も安心して寝れるな。
と、その時。
「んみゅ……ただくぅん…………」
コロンとマスターが寝返りをうち俺の方を向く。
そして小さい手できゅっと俺の服の袖を掴むのだ。
…………素数でも数えて朝を待つか。




