暗闇の理想郷の中で
なるほど、俺の家か。確かにBAR『DEVIL』よりは安全だし、人間界の知り合いなんて俺しかいないだろうから、俺の家で一週間過ごすというのは理にかなっている。
いるのだが。
「いや、おかしいでしょ! なんでこんな奴家に住まわせなきゃいけないんですか!?」
全く持っておかしな提案に、思わず声を荒げてツッコんでしまった。
「そ、そうですよお師匠ッ! 幾らお師匠の頼みでも多田と一週間暮らすなんて絶対嫌ッ! 豚箱で豚と仲良くしてる方が百万倍マシよッ!!」
珍しくアイニィと意見が合ったようで、彼女もそう反論する。まぁ、豚箱より俺の家のほうが百億倍マシだし、そこに収容ってる豚とは絶対に仲良くしてはいけないとは思うのだが……。概ね意見は合っている。
「そうワーキャー騒ぐんじゃない、発情期の獣でもあるまいし……。いや、その方が何かと都合が良いのか? お互いの身体を弄りあっていれば一週間なんてあっという間だろう?」
「何下品なこと言ってんだアンタは。アスモデウスさんじゃあるまいし……」
「えっ!? 生意気無愛想男子大学生~生イキ! ア○メ発情一週間調教ッ!?」
「誰もそんなこと言ってねぇわ! あーもうッ! くそッ!!」
マスターらしからぬ下品な発言と、クソオカマらし過ぎるしょうもない下ネタに俺は思わず天を仰ぐ。ったく何処から湧いてきたんだよこいつは。害獣とか害虫とかそういう類の奴なの? 少しでも餌があると直ぐ住み着いちゃう系の奴なのか?
「…………マスター。ちょっとこっち来て下さいよ」
最早収集がつかなくなった所で俺はマスターをカウンターの方へ呼び戻す。
「悪いけど、今回ばかりは付き合いきれませんよ。あんなアホと一週間生活するだなんて碌でもない事が起きるに決まってるでしょ……!」
「碌でもない事が起こって何がいけない? 言っただろう? 悪魔的エンターテインメントだと。君がどんな事に巻き込まれようが面白ければソレで良いんだよ」
「だから良くないんだってその考え方! とにかく、俺は泊めないですからね。例え脅されようが何されようが絶対に!」
しっかり意思を持って、きっぱりハッキリと俺は断った。この断るというスキルがこれから社会人になるにあたって、普通に幸せな人生を過ごす上での必須スキルなのだ。
例えばこんなパワハラくそカス幼女程まではいかないが世の中理不尽な上司や先輩は存在する。明らかな仕事の無茶振り、別に自分が担当しなくても良い仕事等が昔のクイズ番組でやってたモヤモヤっとボール並みに降り注いでくるだなんて仕事をやっていく上では当たり前のことだろう。
そんな仕事に埋め尽くされてしまっては、当然自分のやらなくてはいけない事さえ手が追いつかなくなっていく。上司からの意味不明な叱責と失望の声に呪われながら、何とか必死で仕事をこなすも翅をもがれたトンボは二度と空を飛べないのと同じように、もう二度と、自由な人生を謳歌することは出来ないだろう。
もがき苦しんだその果てにあるのは自暴自棄になった自分か、はたまた腹を括り首を括った自分の亡骸なのか……。
俺はそんな人生まっぴら御免だ。だから断る。無理な物は無理、出来ない事は出来ないとハッキリ意思表示するのだ……!
「ふむ、多田君も少しは言うようになったじゃあないか。可愛い愛犬に手を焼くのも主人の特権とは言うが、困ったものだな」
まぁそんな所も含めて可愛いのだが、なんて言って微笑んで終わりそうな台詞だが勿論そうはいかない。マスターの表情は愛犬家なんかではなく、突然新入社員に辞表を提出された上司の様な、面倒くさいと怒りが合わさった嫌悪に満ちていた。
「私は知っての通り従順な犬が好きなんだよ。私の命令には絶対服従で死ねと言えばすぐさま命を投げ捨てるような、調教し尽した犬がな」
そう言ってポケットから何時もの黒いガラゲーを取り出し弄り始める。正直倫理観が腐り果てていて何を言っているのか全く理解出来なかったし、何がしたいのかも分からないが俺の答えはノーだと決まっている。
これから先の展開に鬼が出ようが悪魔が出ようが俺は絶対に断る。心に強い決意の炎を灯し、マスターが仕掛けるのを待つ。
「まぁ、それだけだと流石に可愛そうだろう? 折角犬に生まれてきたんだ、主人に尽くすだけじゃなく甘えるのも犬の仕事というものだ…………。例えばこんな風にな」
マスターがおもむろにガラゲーの画面を俺に差し向ける。今となっては古臭く画質の悪い画面だったが、俺を黙らせるのには十分過ぎた。
そこに映し出されていたのは件の動物園。スウィートベリーと名づけられた触れ合いコーナーでの一部始終だ。事詳しく説明したいのだが下唇を噛み締めるので精一杯なので、その辺については省略させて頂く。
「ほら、見たまえこの甘えきった表情を。自分より小さい女を無我夢中で抱きしめる姿を。全く、どれだけご主人様のことが好きなんだろうなぁ、このロリコン変態屑男は」
「…………」
「近頃の人間はペットの動画なんかをインターネットで自慢するのだろう? ここは一つ、私も流行りに乗ってみるとしよう。日本中、世界中の人間に君の愛くるしい様を見て頂こうじゃあないか」
まるで親戚同士の集まりで暇つぶしにレースゲームなんかをしている時、幼い俺を年の差関係なくボコボコにしたおじさんのような、そんな憎たらしい勝ち誇った顔をするマスター。
これまで様々な脅迫を受けてきたが、今までで一番情け容赦ない手を使ってきやがった。こんな物がネットに晒されてしまえば、普通に幸せな人生なんか絶対に送れないし下手をすればアイニィが言ってた豚箱で後生ブヒブヒ過ごして終わってしまう可能性だってある。
しかし、俺は先程決意の炎を灯したばかりである。断る、絶対に断る! 駄犬が主の喉元に噛み付くが如く、断固拒否の姿勢を示してこのパワハラクソ幼女に反撃してやるのだ……!
「…………反抗的な態度をとってほんと、すいませんでした。一週間、精一杯努めさせて頂きます」
頭の片隅ではそんなことを考えながらも、俺の身体はしっかり深々と頭を下げていた。断固拒否する新年も大切だがカチコチに思想が固まった時代遅れ頑固親父や何が何でも絶対定時で帰るマンといった自分を貫き過ぎる輩は嫌われやすい。世の中という歯車から外れたくないのであれば時として自分を押し殺すのも大事なのだ。
「ふん、初めから素直にそう言えば良いものを……。どいつもこいつも全く世話の焼ける駄犬共だよ」
ガラゲーの折り畳まれる音と、マスターのため息が同時に聞こえてくる。行儀が良い駄犬の俺は文句なんか言わずに綺麗な姿勢を保ってお辞儀をしており、チラリと視線を向ければ、もう一方のアイニィがアスモデウスさんに介抱されながらわんわんと泣きじゃくっていた。
「まぁ、やる気になったのならそれで結構。今日は早いところもう帰りたまえ。今後一週間どうやって過ごすのかじっくり二人きりで思う存分話し合えばいいさ」
俺もこの場で大号泣をしてひたすら謝り倒せば何とかなるのではないかと思ったが当然そんなことは無く、俺の返事を待たずしてマスターは自室へと姿を消してしまったのであった。
× × ×
一人暮らし……。それは下の毛とニキビが気になり始める思春期学生にとって理想郷の一つと言えるだろう。
口うるさい両親から解放され、好きな物を食べ好きなタイミングで風呂に入り好きな時間に寝る。エッチなコンテンツだって親の目を盗みつつバレないようにこっそりと勤しむのでなく、堂々と大音量で楽しむ事だってできるのだ。まさに自由と欲望を解放出来る夢の場所……それが一人暮らしなのだ。
まぁ俺はエッチな事に対して興味が無いので性欲の塊猿共の気持ちは良く分からないが、一人暮らしに期待を膨らませていた少年だった。『学生 一人暮らし 普通』なんかで物件を調べ尽くしたどり着いたのがこのアパートである。
インテリアだって全部どの部屋にもありそうなごく一般的な物で買い揃えた……。テレビだけは少し大きめな物を選んでしまったがそこは普通の範囲内である。
部屋全体も普通、部屋自体も一般的、そして俺自身、何の変哲も無い大学生。この部屋は普通な人生を過ごしたいという俺の夢を体現したような正に理想郷だったのだ。
そう、理想郷“だった”のだ……!!
「…………何よ、何か変な所でもある?」
俺のベットに女の子座りしながら、アイニィが上目遣いで睨んでくる。取り敢えずご主人様の言う通り部屋に連れて来て、風呂と寝巻きのグレーのスウェットを貸して今に至る。因みに彼女ご自慢のアホ毛は風呂入っても健在である。なんでだよ。
「先に言っておけどねぇ! お師匠の頼みだから仕方無く泊まってあげるだけだからね? もし変な事しようとしたらぶっ飛ばしちゃうんだから!!」
少し丈の長い袖をブンブンと振り回し威嚇するアイニィ。おい、止めろ。服が伸びるだろ。
「あー、はいはい。気をつけますよ」
「あー!! 何よその空返事は!! こっちはオカマさんから貰った物凄い御守りがあるんだから! コレさえ使えば多田なんて一瞬で消し炭よ!!!」
「あー、はいはい。御守りね……。御守り?」
面倒くさいし疲れたのでとっとと寝ようと思っていたが、思わず彼女の話に食いついてしまった。御守り如きでどうやって俺を消し炭にするのかではなく、その贈り主の方だ。
「ふふーん、そうよ。『この御守りを預けておくわ。あたしの大切な宝物よ』ってね……。そしてコレがその御守りよ!!」
そう言って枕元から何かを取り出し、印籠の如く俺に突き付ける。
赤い箱に謎のOKマークのロゴ。そして極め付きは箱にどデカく書かれた0.01という数字……。このアホがドヤ顔で突き付ける物はそう、間違いなくアレであった。
「知ってる? コレ、こんどーむって言うらしいわよ! マンピースする時には絶対に使うんだって……! まんぴーす? てのは良く分からないけど、とにかくとっても凄いんだから!!」
「…………じゃあもう電気消すから、お休み」
身も心も疲れた俺に、ボケの大盤振る舞いを対応する元気は無く電気のスイッチを切った。もう何も見たくないという気持ちが体現されたように辺りは暗い闇に侵食されていく。
「ちょっ!? なんで消しちゃうのよ! まだこんどーむの凄さを説明してる最中じゃない!」
「……そんな説明入らねぇよ。俺の方が詳しいし、分かってるから」
ベット代わりのソファーに寝転び、闇の中でも十二分聞こえる甲高い声に適当な相槌を打つ。コンドームは御守りじゃない事も分かってるし、その用途や装着の仕方も分かってる。なんならマンピースの意味も分かってる……。分かっちゃうのがなんか凄げぇ癪に障るけど。
俺は理想郷に住む普通の大学生だ。このアホ女よりずっと沢山のことを知ってるし、理解もしている。それこそ当たり前に、普通にな。
ただ、普通の教養しか身に付けてこなかったからか、何故アイニィが不機嫌なのかはさっぱり分からない。何が原因なのか、俺に落ち度があったのか……。まぁ今日は疲れたし、ゆっくり寝て明日考えるか。クソ固いソファーの上だけどな。
「……なによもう、なんも分かってない癖に…………馬鹿っ」
そんな時、ふと聞こえてくる声。今度の声は先程より弱々しく、静寂な闇の中にすぐ消え入ってしまった。
しかし、俺の頭の中にはハッキリと残っており、それが煩わしくて布団を頭まで被って眠ることにした。