ウリエルは宣言する
薄暗い酒場の中、突然現れたミカ様。あまりの衝撃的な出来事に私は言葉を失った。
たかだか袖を引かれただけでオーバー過ぎると思われるかもしれないが、それでも衝撃的な出来事なのだ。もう二度とお目にかかる事が出来ないと思っていた人物が目の前に居ると言うのは。
「どうしました? 私の顔に何か付いてますか?」
中々返答を返さない私に、ミカ様は上目遣いで、キョトンと小首を傾げながら言った。何も付いていないどころか非のうち所がない端正なお顔……。ああ、やはりミカ様はお美しい。
「いえ、少々驚いてしまっただけです。どうぞ、私の隣で宜しければ……」
彼女の顔を拝むことで正気が戻ってきた私は、日頃行っている様にそっと優しく椅子を引く。
そして。
「……ありがとう。いつも助かってるわ、本当に」
そう言ってミカ様はいつも通り穏やかに微笑みかけ、椅子に座った。
本当にいつも通りだ。いつも通り椅子を引き、いつも通り微笑んで貰い、いつも通りの言葉を頂いた。
そんなもう戻れない『いつも通り』を噛み締めながら私も席に座る。隣でミカ様が何か注文している中、私はぶどうジュースの水面を見つめる。
少し放置していたせいで生じた結露か、それとも緊張のせいで滲んだ手汗かは分からないが、グラスを持つ手の感触がやけに気持ち悪く感じた。
「……ミカ様は何故こんな場所に来たんですか?」
そんな様子を悟られるよう、平然を装って言った。一瞬グラスの水面が揺れ動いたが恐らく気づかれない筈だ。
これが一つの物語であるのならエンディングの後のオマケ、つまり蛇足である。
多田 崇暗殺計画から始まり、様々な悪魔達の魔の手を振り払い、ドラゴンの試練を乗り越えた多田 崇とミカ様。二人の愛情は物語が進むにつれて深まり、二人は末永く幸せに過ごす……。これが今回の筋書きだ。
では何故途中で退場した悪役である私の隣にヒロインが座っているのか。理由は簡単、罰を下すためである。
調子づいた悪役に作者が天罰を下そうとしているのだ。物語が終わる際にまだ悪役が生き残っているのは締りが悪い。悪は滅ぼしてこそ役目を全うするのだ。
そして神が私を悪者に配役したのだから、それを受け入れらなくてはならない。天使である以上神には逆らえない。悪役である以上作者からは抗えない。
仕方がない。これは全て仕方がないことなのだ……。
「……何故って決まっているでしょう? 貴方のことが心配で、ずっと探していたんですもの」
「え?」
抗えない蛇足だった数ページ。それが今ビリビリと破り捨てられた気がした。
「あの後皆さんに協力してもらって園内を探していたのだけれど、全然見つからなくて。そしたらラグエルから連絡があったの。貴方がここで酔い潰れてるって」
ミカ様がそう言い終えると店主がやって来て、物凄い形相で私を睨みつけた後、そっと彼女のテーブルにグラスを差し出す。中身は私が持っている物と同じ深紅色をしたぶどうジュースであった。
ラグエルさんに居場所をリークされ、クソ馬鹿店主に睨まれ、まさかミカ様に泥酔した姿まで見られていたとは……! 恥ずかしいことこの上ない。今すぐ消えて無くなりたい気分だ。
しかしそれ以上に彼女が私のことを心配して探していたという事実が、腹立たしいだとか恥ずかしいという感情全てを吹き飛ばし、ただ呆けることしか出来ない。
そんな私の間抜け面が面白かったのか。ミカ様はこちらを見てクスりと笑ってから。
「……ねぇ、知ってる? 人間界のライオンっていう生き物はね、欠伸をするとすっごく口が開くのよ」
「…………ライオン、ですか?」
「ええ、そうよ。他にも人間界には電車っていう便利な乗り物があるし、舌が焼けそうになる程辛い料理だってあるの、今日一日だけでも色々な事が知られたわ……。勿論、貴方のことだってね」
呆けることしか出来ない私に追い討ちをかけるように語るミカ様。一体何が言いたいのか、私は無言を貫いて彼女の言葉の続きを待つ。
「貴方があんなに慕ってくれていただなんて、今日初めて知ったわ。結構長い付き合いの部下の気持ちも把握出来ていない。私ったら、上司失格ね」
「ミカ様……」
「私達、もっとお話する必要があったのよ。こうしてお酒を交えながらでもお互いの事を知り合って……。そうしたら今回起こった事よりもっと素敵な答えが出せた筈だから」
そう言ってミカ様はグラスを口に運び、その中身を一口嗜む。すぐ中身の正体に気が付いたようで、少し驚いた顔をした後、私の方を向いてから。
「貴方、これを飲んであそこまでベロベロになってたの? ふふっこれじゃあお酒の席でお話は難しいわね」
クスクスと、容姿相応の可憐な笑顔を浮かべるミカ様。可愛らしく、美しく、そして誰よりも何よりも優しい。そんな笑顔だった。
「…………ミカ様。これ以上情けの言葉は不要です。どうか私に然るべき罰を与えて下さいッ!」
私は彼女の前で跪き、そう懇願した。
確かに、ミカ様の仰る通り我々はもっと会話をするべきだったのかもしれない。彼女への内なる思いを全て曝け出す程とは言えないが、ちょっとした日常会話の積み重ねが今日私が犯した大罪を回避するきっかけになったのだろう。
だがもう起こってしまった以上取り返しが付かない。『正しい選択』や『もっと素敵な答え』だなんてのは悪く言ってしまえば言い訳に過ぎないのだ。
私は天使。この世を創生した神の使い。神が創りし正義の体現者として、その正義に反したのなら潔く罰を受けるのみだ。
「……分かりました。貴方がそこまで言うのなら罰を与えましょう。ウリエル、顔を上げなさい」
天使としての誇りが伝わったのか、真剣な声音でミカ様が言う。破り捨てられた様な気がした蛇足のページはしっかりと残っており、正真正銘、本当の最後、エピローグへと向かおうとしている。
この顔を上げた時、私は死ぬのだ。結局母との約束した立派な天使なんかにはなれなかったが、仕方が無い。結果として駄目天使で終わってしまうが受け入れるしかない。
ただ最期に、敬愛するミカ様の笑顔が見られた。それだけで十分。それだけで『幸せな人生』だったのだ……!
そして。
「ふがッ!? えッ!?」
突然生じる鈍い痛みと息が詰まる感覚。一瞬何が起こったのか分からなかったが、鼻頭がジンジンと熱を帯びていき、私はまだ生きているのだと教えてくれた。
ミカ様が私の鼻をチョコンと摘んだのだ。鼻水を垂らした子供の鼻をティッシュで拭き取る親の様に、優しく摘んだのだ……!
「罰として鼻摘みの刑……だなんて、ちょっと子供っぽかったかしら?」
そう言ってミカ様は再び笑った。冷徹でサディズム的な笑みではなく、私が最も愛して止まない優しい笑顔だった。
「何故、何故なのですかッ!? 私は貴方に弓を引いた、貴方の大切な方を葬ろうとした! そんな大罪人に何故貴方はこうも優しく出来るのですかッ!?」
堪え切れなかった感情がどんどんと湧き出し、それが言葉になって噴出していく。
だってそうだろう? 可笑しいだろう? 正義として赦される筈がないだろう?
それなのに何故ミカ様は優しくする? 私に微笑みかけて下さる?
何故、何故なのだ……。
「――だって貴方に言ったじゃない。私は、私の中の正義を貫くって」
蛇足だった数ページが、今度こそ本当に破り捨てられた。その破片は風と共に窓辺を抜け出して、何処までも青く広い空へと飛び立っていく。
何かに一生懸命で、誰かの為に奔走し続ける人の助けになりたい。これがミカ様の正義だ。
それ例え悪魔でも、人間でも関係が無いとハッキリと宣言していた。まさかこの対象に天使失格の大罪人まで入っているだなんて……!
「ぐ、うぐぅ……! ミカ様ッ!! 申し訳ありませんでしたッ!!! 今回の件、私が全て間違っておりました!!」
他の客のことなど忘れ去り、私は泣いた。子供のように嗚咽を交え、泣きながら謝った。
「もう、何も泣かなくたっていいのに……。せっかちでジュースが好きで沢山泣いちゃうウリエル君。ほんと、子供みたいね」
泣き止まない私の頭にポンっと彼女の小さな手のひらが乗り、優しく私の髪を撫でる。
するとどうだろう、荒々しく蠢く感情が次第に朗らかになっていく。不思議と涙は止まっていき、安心感、充実感で満たされていく。
「沢山泣いて、沢山間違えなさい。貴方の正義が見つかるまで、私が傍に居てあげるから」
涙の雨は止まり、空を見上げると、そこには優しく私を照らす太陽。ミカ様の笑顔があった。
良い意味でも悪い意味でも天使、ラグエルさんが言った言葉の真意が今分かった気がする。神が絶対であると、その正義こそが正しいのだと何の疑いもなく盲目的に信じきっていたのだ。
正義と言うのは千差万別存在し、ラグエルさんや多田 崇、原罪のベリルにだって各々に正義に従って生涯を全うしようとしているのだ。
ならば私は、私の正義とは……!
「……大変ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。お陰で目が覚めました」
名残惜しいが、ミカ様の手をそっと払い退け立ち上がる。
「私なりの正義、絶対に見つけてみせます! そして必ず貫いてみせます。貴方のように……!」
私は目の前に居る天使に、神をも凌駕する聖母のような優しさを持つ彼女にそう宣言したのだ。
蛇足のページは破れ散った。私の新章が今ここから始まる。
母との約束、どうでも良い。神だなんてクソくらえ。目の前に居る小さな優しい聖母を見つめながら、心の中で今一度宣言するのだ。
――天使失格の碌でもない私だが、それでもミカ様だけは絶対に守り抜いてやる、と。