黄昏る。
夕日が更に傾き、空に紫苑色のグラデーションが広がる。
別名『黄昏時』だなんて言われる時間帯。俺はそんな少し寂しい空を、ゴツゴツとした二の腕と毛むくじゃらな胸板に包まれながら眺めていた。
「おやおや、呆れるほどの間抜け面だな。ビビり散らして小便でも漏らしたか?」
「あらぁ、可哀想な崇ちゃん。ママがキレイにお掃除してあげるからズボン脱ぎ脱ぎしましょうねぇ」
「…………まったく、誰のお陰でこんな気持ちになってると思ってるんですか? つか、漏らしてないし。第一俺はアンタの息子じゃないでしょ」
「え? なに? 俺のムスコ?」
「やかましいわ! 一言もそんな事言ってねぇわ!」
隠語母親気取りアスモデウスから離れ、よろめきながらも立ち上がる。
そんな無様な姿が滑稽に見えたであろう。眼前に立つ二匹の悪魔は、アメリカンコメディの様に肩を透かし俺を嘲るように笑っていた。
「ふむ、最近の若者は愚直と言うか滑稽と言うか……。とにかく扱いやすい連中ばかりだな。実に良い気分だよ」
そう言って動物園の制服と同色のポーチから何かを取り出し、俺の足元に投げ捨てた。バサリと音を立てたソレは件の破廉恥本であった。
「自分の妹に良く似たエロ本って、随分良い趣味してるんですね」
「それは君や何処ぞの天使君の間違いだろ? ロリコン糞野郎同士、何やら仲良く話していたじゃあないか」
俺の皮肉に対して、図に乗るなこのゴミ屑カス男がと言わんばかりの悪態で返してくるマスター。
ここで言い返すと色々酷い目に遭いそうなので、俺はそのまま黙って破廉恥本の表紙を見つめることにした。
マスターの口振りから察するにミカ大好き天使のあいつも俺を虐める為に巻き込まれた被害者だったらしい。殺されかけた身ではあるが、今では同情する気持ちすら湧いてくる。
結局の所、今日起こった出来事全てはマスターが描いた台本通り事が運んだ訳だ。
俺、ウリエル、そしてミカで語った正義論も、俺達が示して行動した正義でさえも全部仕組まれてあった。オンボロ観覧車よりもずっと小さな手の平で回り続けていたのだ。終着点など何処にも無いのに。
俺が天使達に放った言葉は、ドラゴンと対峙した時に取った行動は、ミカに思ったこの気持ちは、果たして正しい行いだったのだろうか? 人として正しい道、道義を歩んでいるのだろうか?
――『普通に幸せな人生』、このまま胸張って夢追い続けることが出来るのか?
「――多田さんッ!!!」
再度同じ疑問が頭の中に浮かんだ時、それを掻き消すほどの大きな声が空から聞こえてきた。正真正銘天使あるミカが俺の元へ舞い降りたのだ。
「ご無事で良かった……! 本当に、本当に良かったです……!」
俺の腰に手を回し、ギュっと強く抱きしめる。彼女から伝わってくる体温はどんな物より暖かくて優しい。
「……確かに無事だったけどさ。これで本当に良かったのかな? 俺、正しい道選べたのかな?」
彼女の優しさに甘えてしまったのか、俺の口から勝手に漏れた弱音。
しかしそんな粗末な物を受けても尚、ミカは平素通りに、平然とした面持ちでをこちらに上げて。
「残念ながらその質問にはお答え出来ません。私と多田さんの正義は別の道に分かれてるんですもの」
「ミカ……」
「ですが自分の正義を貫こうとする多田さんは、私の目には素敵に見えて……格好良かったです。とっても」
そう言い終えるとミカは俺から離れ、穏やかな眼差しを浮かべる。それは俺の全てを肯定してくれるような、芽吹き始めた新芽を照らす太陽のような、そんな大らかな物だった。
傍から見れば今日の俺は単なるクソダサい男だと言われてしまうだろう。
デートもろくに進行出来ず、正義が何だとか偉そうに豪語した癖に、ドラゴンに対して自分一人では何も解決出来なかった。
だが、そんな俺にミカは優しくしてくれた。誰かの助けになりたいと言うミカの正義に救われたのだ。
ならば、俺は頑張らなくてはいけない。
今はクソダサい男でも、ロリコン糞野郎と罵られても、結果が最低でも人生がクソでも、しっかり背筋を伸ばして歩かなくてはいけないのだ。
俺を救った彼女の正義を肯定する為に、『普通に幸せな人生』を最後に笑って過ごせる為に……!
「――まさか天使と意見が被るとはねぇ。癪だが今回ばかりは良しとしようか。格好良い、天晴れだったよ崇」
また決意を新たにした所で、今度はミカの正義でも擁護出来なさそうな馬鹿な台詞が聞こえてきた。
「邪龍に物怖じせず立ち向かうその姿はまるで勇者……いや、龍を狩る者と言った所かな? ぴったりなんじゃあないかい? 天使殺しの相方としては」
建物の物陰からひょっこりと姿を現した泪はパチパチとシケた拍手を俺に送りながら此方に近づいて来る。その後ろには何故だか不機嫌そうな顔をしているアイニィが続いた。
「…………何しにきたんだよ、お前」
「そんな野暮なこと聞くもんじゃあないよ。良いエンディングには最高のヒロインが傍にいるものなのさ」
俺が眉を思い切り顰めているのに対して、決まったと言わんばかりにジャケットをバサリと羽織り直す泪。ヒロインだったり何ちゃらスレイヤーだったり忙しいなこいつ、こんな所で油売ってないで早くどっか行けばいいのに。
「なぁ、アホ娘、君もそう思うだろう…………アホ娘?」
後ろをチラッと振り向き、同意を求めるが返答が帰ってこない。アホ娘もといアイニィは何か不機嫌そうで言いたいことがあるような、そんな目で俺を睨んでいた。
「……別に、アンタ達で好きにやればいいんじゃないの」
「やれやれ、全く君も素直じゃないな。まぁただ、それもヒロインの条件なのかも知れないね。恋する乙女の嫉妬と言った所か、ふふっ」
「はぁ? アスパラガスゼリー? 訳分かんないし! アンタ本当に頭おかしいんじゃないの!?」
「おかしいのは君だろ!? 何をどう聞けばアスパラになるんだ!?」
「うっさいわね! バーカバーカ!! アスパラバーカっ!!!」
「随分と好き放題言ってくれるじゃあないか! このアホ耳! アホ頭ッ!! アホ毛女ッ!!!」
ぐぬぬぬと両者唸りを上げ、バチバチと視線の火花を散らし合う。
もし、ヒロインの条件という項目が本当にあるのであればアスパラ如きで喧嘩し合う輩なんて絶対論外なんだが……まぁ、そんなの無くたってこんな連中は論外なんだけど。何で不機嫌なのかも何とか何々ジェラシーとかも全く訳分かんねぇし。
「ふむ。多田君の周りも随分賑やかになってきたな。楽しそうで何よりだ」
隣にやってきたマスターが、喧嘩真っ只中のアホ馬鹿コンビを愉快そうに見ながら言う。
「……賑やかっていうか、ただ騒がしいだけなんですけど。マスターにはコレが楽しく見えるんですか?」
「ああ、見えるとも。尤も、この前まで平凡でクソつまらんドラマを見ていたせいもあるが」
そう言ってマスターは何時もの不敵な笑みを俺に向ける。その笑みや台詞にどんな意味が込められているのか、心当たりはあるが深くは考えず。俺は彼女から目を逸らし辺りを見渡す。
夕日はすっかり姿を消して、夜空には星柄のカーテンが引かれる。
人気の居なくなった園内にはドラゴンの肉塊が転がり、馬鹿泪とアホアイニィがそんな物お構いなしに喧嘩を始めている。
そんな様をレオタード姿の歩く十八禁、アスモデウスが遠巻きに腕組をしながら眺め、顎に手を添えながらマスターが佇む。
これが今の俺の日常だ。普通に幸せな人生とは到底思えない。
ただ、平穏で平凡な、何も望んでいなかった頃と比べれば、まぁ、悪い気はしないかな。
「…………なぁ、ミカ。俺の今の人生ってこんなのだけどさ。それでもまだ一緒に居てくれるのか?」
一通り辺りを見渡して、一番最後に目がついたミカに俺はそう言った。
残念ながら俺とミカが目指す物は違う。彼女が目標としているゴールは俺の何かより理想的で立派であり、その身に灯る正義の炎は大きく美しい。寄り添い歩くには俺が足手まとい過ぎるのだ。
だから仲間として、俺の日常を彩る一人として居て欲しいと思った。なのでそんな言葉をかけたのだ。
それを受けてミカは一瞬考える素振りを取って、そして、それから――。
「――はい、こちらこそ是非、宜しくお願いします!」
容姿よりも大人びた笑みで、白髪の天使が俺に微笑んだ。
特別な休日と銘打った今日、ミカにとってそんな日になったのかは分からない。
だがミカという特別な存在は、俺の日常へと変わっていき、俺の日常への思いは特別な物になったのだ。
今はまだマスターの手の平で踊らされ、クソみたいな人生を過ごしていようとも、普通に幸せな人生をいつか必ず掴んでみせる。そう思えた点を踏まえれば俺にとってはちょっとした特別な一日だった。
「…………あの、多田さん」
俺なりに正義の炎を心中に宿していると、ミカが申し訳なさそうに俺の名前を言う。その表情は先程の笑みから一転、少しばかり困惑している様子だ。
「すいません、少し前から気になってはいたのですが……その足元にある本は一体なんでしょうか?」
「え? 本?」
ミカの視線を辿るように、ゆっくりと俺の顔も足元へ下がっていく。一体何だと聞かれても俺は本なんて持ってきた覚えは無いのだが…………。
「…………げ、げぇ……!」
足元にあるソレを確認した後、灯した正義の炎は一瞬で吹き消され、意識が遠のくような目眩が襲ってきた。
ソレと言うのは正しくそう、眼前に居る幼い天使をモチーフにした大変ドスケベでえっちな本だったのだ……!!!
「何って、見れば分かるだろう妹よ。これが多田君の性癖、この男は幼い女なら誰彼構わず欲情するような悪魔顔負けの下衆野郎なんだよ」
俺が横で気を失いそうになっている中、隣のマスターが畳み掛けるように罵詈雑言を並べる。
「……悪魔顔負けの、下衆野郎。ですか?」
「ああ、そうだ。特に私の様な気高き麗しい金髪の女が好みらしくてな……見たまえ、あの目の充血振りを。今にも襲い掛かってきそうな獣そっくりだな」
「マスター!! アンタ、また仕組みやがったな!!! このド畜生!! クソ悪魔ッ!!!」
あの時エロ本を投げ捨てた時から嵌められていたのだ! ミカが此処に来ることを予想して、良い話の雰囲気になるよう舵を切って、隣に並んだり楽しく見える見えないの件でエロ本から意識を逸らさせて。
あの時の不敵な笑みの正体はコレだったのだ!! それを考えなかった俺って奴は! クソ! クソクソッ!!!
「ふん、弱い犬ほど何とやら……私に勝とうだなんて数百年早いんだよ、クソ人間君」
「ちっくしょー!!!!!!!」
やり場の無い怒りは夜空へ響き渡り、ビリビリに破いたエロ本の紙切れがヒラヒラと儚く舞い散る。
俺はそんな様を見ながら、今一度再び宣言するのだ。正義とは格好つけた物ではなく、もっと具体的で俺が今一番思っていることを。
――バイト先で金髪クソ悪魔幼女とかを相手しているが、それでも普通に幸せな人生を過ごしてやる、と。