正義論
ウリエルの手から放たれた傲慢な一射。一直線に文字通り光の速さで向かってくる矢に対して俺に何かが出来る筈も無く、祈りを捧げるかのように、ギュッと瞼を固く閉じた。
「…………痛ってぇ」
目を閉じた瞬間、俺の身体は仰け反る形で後ろに倒れこむ。しかし生じた痛みというのは射抜かれた鋭いものではなく、後頭部を引っ叩かれたようなそんな鈍い痛みだった。
「何故……何故そこまで多田を庇うのですか!? ミカ様!!!」
ウリエルが悲痛な思いを顔に浮かばせてそう叫ぶ。矢を放った張本人がこれ程までに苦しそうにしているのは、愛するミカが咄嗟に俺を押し倒し守ってくれたからなのである。
「……そんなもの当たり前じゃない。罪の無い人が殺されるのを黙って見過ごすわけにはいかないもの」
ミカが起き上がり、苦痛で顔が歪んでいるウリエルと対面する。彼女の表情は怒りを露わにしているのでも、悲しみで涙を流しているのでも無く、ただただ何時も通りの平然としたソレだった。
「この男は悪魔と交流があるのですよ? しかもただの悪魔なんかじゃあない、我々天使が最も忌むべき『原罪のベリル』となんかだ! それだけで大罪、殺さなくてはいけないッ!!」
「それの何が罪なの? 私にはさっぱり分かりませんが?」
「何を馬鹿な事を言っているんだ貴方は!? 今ここで多田を始末しなければ悲劇が再び繰り返されるかもしれない! 例え小さな種火でもしっかり消し去るのが我々の仕事で、正義の行いの筈だ! 違いますか!?」
「違います。貴方は何から何まで間違えています。その行いに正義の欠片もありません」
恐らく普段は従順であろうウリエルが吼え続けるが、ミカは淡々と否定を繰り返す。ここまで鮮明に聞こえてくる歯軋りの音と共に彼の顔がより一層歪んで見えた。
事の発端を知っている俺からすれば、ウリエルが言っている理由というのは単なる建前にしか聞こえない。だが神殺しを企てたマスターと交流があるのは事実であり、そんな大悪魔と関係がある俺を殺そうという流れになるのもまぁ分かる話だ。
では何故ミカは頑なに否定をしているのであろうか? 思考を張り巡らせるにもこの場の緊張感や先程殺されかけたこともあり上手く考えがまとまらないので、俺はミカの言葉をただひたすら待つことにする。
そして。
「確かに多田さんは原罪のベリル……私の姉さんの元で働いています。勿論客も全員悪魔、人間の身である多田さんにとってはさぞ辛いお仕事でしょうね」
そう言ってミカは俺の方を一瞥する。一瞬のことだったので良く見えなかったのだが、その顔にはほんの僅かながらな笑みが含まれているようにも見えた。
「ですがそんな状況下でも多田さんは毎日一生懸命に働いています。ある時は客の悪魔の相談に乗ることもありますし、そのお返しに助けられることだってあったでしょう…………そうやって様々な経験を積みながら自分の目標に向かって行こうとしているこの人を、私は悪だとは思えません」
きっちりと、ハッキリとミカはウリエルに言った。それを受けたウリエルも、話を聞いていただけの俺もだんまりを決めている訳だが、きっとこの優しい暖かさを感じているのは俺だけに違いないだろう。まぁ相談に乗ったつもりも、助けられた覚えも更々無いんだけど……。
「これは多田さんだけに限った話ではありません。何かに一生懸命取り組んでいる方々、誰かの為に奔走し続ける方々……相手が何者であってもそんな皆さんの助けになりたい。これが私の正義なのです」
「し、しかしそれでは神の――」
「――しかし、ではありません。例え神のご意向に相反してても私は自分の正義を貫き通します。もし、私が間違えていて、貴方の考えの中で悪であるのなら、多田さんではなく先ずは私から倒しなさいッ!」
そう言い放ったミカはそれから何をするでもなく、ただ凛とした佇まいでウリエルを見つめる。その一歩も引かない何処までも真っ直ぐな姿勢が先程口にしていた正義を貫き通すという事を体現しているようでもあった。
正義とは何か……これは古代ギリシアの思想家達から始まり現代に至るまで様々な考え方が生まれ、語り合い、時には激しく主張しあったりしている議題だが、これといった『何か』が明確にされているようには思えない。
この世を創った神が絶対で、それに従うのが正義である。これがウリエルの正義で、ここの神を法律に置き換えれば世の人間は概ね理解出来るであろう。例えを挙げるのなら『どうして人を殺してはいけないのか』という質問に法律で定められているからだと答えが返ってきても誰だって納得はする。
一方、先程の問いに対して殺される人間が可哀想だから、そいつを殺してしまえば他の人間が悲しんでしまうからと答えるのがミカの考えであり、そんな人達を助けてあげたいと唱えているのが彼女の正義である。
俺は両者共正しいと思うし、間違えてもいないと思う。ソクラティスやプラトンだって人類に自分の正義を証明出来たとは言えないし、現に正義の象徴である天使が言い争っているのだから、普通人間の俺がこんな曖昧なことしか思えないのは当然だ。
ならば、俺の正義というのは一体どういう物なのだろうか。この状況下でやるべきこと、俺が貫かなきゃいけない事とは一体なんなのだろうか……。
「さぁウリエル、どうしました? 貴方も天使の一人なら己の正義を貫いてみなさい!」
そんな中、ミカが更にプレッシャーをかけるように言う。しかし当の本人は弓矢を構えたまま動かない、否、動けないのだ。
彼の立場になって考えれば、言わば天秤にかけられている状況であり、全ての指針である神か敬愛してやまないミカどちから一方を捨てなくてはいけない。
恐らくそんな選択を出来るほどウリエルは器用な男ではない。これは彼のことを馬鹿にしているのではなく、神の仰せのままに動いてきた、つまり自分自身の考えで物事を決断せずに生きてきた奴がこんな重要な選択を決断出来るはずがないのである。
その証拠にウリエルの額からは大粒の嫌な汗が噴出し、薄っすらと男らしい唇が湾曲に歪み、何かに怯えているように身体を震わせている。
そんな彼が何をどちらを選択するのだろうか。天使である以上神のご意向に従うのか、それとも…………。
「…………ミカ様、これからすることをどうかお許しください。私はッ! 私は――」
――グルガアアアアア!!!!!
ウリエルが断腸の思いで決断を下したその時、そんな思いを掻き消すほどの咆哮が辺りに轟く。
「これってもしかして…………げぇっ」
一度聴けば忘れられないような轟音、それぞれの正義がぶつかり合っていた場所に突如姿を現したソレは天使とは比べようも無い禍々しい翼と巨体を持ち、善悪関係無しにその場全てを破壊し尽くす程邪悪な存在…………俺が言う所の普通のドラゴンであった。