ミカという存在
日暮れの日差しが差し込んでくる観覧車の中で、天使が零した本音。それが今人肌より若干暖かな熱を帯び、世話しなく血液を送る俺の心臓の鼓動によって、全身に運ばれていく。顔まで到達した熱は俺の両頬を桃色よりも赤い朱に染め上げる。
小さな身体を奮い立たせて、裸の気持ちに素敵な衣装を見立てて、ミカは俺に純粋で純白な思いを告げたのだ。
真剣に受け止めようと気構えていたつもりではいたが、生まれてこの方こんなに気持ちがこもった言葉を受け取ったことが無い俺はただ呆気に取られることしか出来ずにいた。
「…………」
重たい沈黙が充満していく観覧車、何も言えず黙り込む俺。そんな情けない俺の胸の中でミカは返事を待っている。お洒落な着物をキュっと小さい手で握り締め、あどけない顔立ちを少しばかり強張せながら。しかしそれでいて大きな瞳はしっかりと俺を見据えながら。
そんな細かい仕草や表情一つ一つを見ていると、この重たい空気が心地の良い緊張感に変わっていき、劣情とは違う暖かな何かが身体の内側で芽生え始めてきているのも感じる。
――しかし、しかしだ。
「…………多田さん?」
俺の表情が少しばかり曇ってしまったのか、ミカが不安気に俺の名前を言った。
ミカに思いを告げられて、俺は嬉しい……これは疑いようの無い、紛うことのない真実である。しかしながら何故だろう? 戸惑い、困惑とはイマイチ違う魚の小骨が喉に引っかかった様な違和感があるのは。
――貴方が夢見る『普通に幸せな人生』の中で、私も一緒に寄り添い歩いても宜しいでしょうか?
違和感の正体について色々思考を張り巡らせていると、ミカがくれたこの言葉が今一度俺の脳内に響き渡る。そしてこの言葉こそが違和感の正体だと俺は直感した。
何ともロマンチックな表現で、素敵な言葉だとは思う。現に、俺の心は何とも言えない充実感で満たされている。
しかし、彼女はこの台詞を吐く前にこうも言っていたのだ。俺はミカに対して優しすぎると。クソ馬鹿悪魔共と接している時の方が自然体で楽しそうだと。
特別意識していない俺の行動に、ミカな疎外感を感じていた……そんな背景がある中で発せられた言葉だとするのなら、また話は変わってくる。
何故ならば、俺の人生において。俺の夢見る普通に幸せな人生において、ミカという存在は…………。
「…………ミカ、俺はな? お前が思っているような誰かの為に行動できる優しい人間じゃないんだ。これだけは先に言っておくぞ?」
これから起こるであろう後悔が頭にチラつく中、腹を括った俺はそう切り出す。ミカは俺の言葉に黙って小さく頷き、続きを待つことにしたようだ。
「だから普段からミカにだけ優しくしてるつもりはないし、別に悪魔共にだってそのつもりではいる…………けどな? 今日だけは特別に優しくしようって心掛けてたんだ。いつも頑張ってるミカにとって、ちょっとした息抜きが出来る日になればいいと思ってな」
「…………それは何故ですか? 何故多田さんは私にだけ特別優しくしようと思ったのですか?」
「まぁ、一から十まで説明するのは難しいんだけど、その、なんだ? 俺はミカのことを『仲間』だと思ってるんだよ」
そう、仲間。自称普通人間の俺と、可愛らしい小さな天使の間柄を説明するにはこの言葉が一番しっくりくる。
この世を創造した神を絶対的な正義とし、その一挙一動に疑いを持たず意のままに行動する天使達。そんな生き方に疑問を抱き、もっと自分らしい生き方を探す為に奔走するミカ。
一方で自分の追い求める『普通に幸せな人生』を過ごすために日々悪魔共の相手をしている俺……お互いに進んでいる道の険しさや夢見るゴールの景色こそ違えど、俺とミカが突き進んでいる道のりは似ているのだ。
そしてこの道のりというのは酷く孤独だ。暗闇の中、辿り着けないかもしれない一筋の光に向かって歩かなければ行けない。しかも道中には、不安や焦燥、他者からの罵詈雑言など様々な罠が待ち受けていたりする。
そんな辛さを俺が一番理解しているつもりだから、今日は楽しんでもらえるようと思っていたし、普段から無意識で優しくしていた理由というのも納得がいく。プレハブ小屋での一件、ミカが懸命に俺を引き止めてくれたのも同じ辛さを理解し、道を進む尊さを共感出来る仲間だからこその行動だと思うのだ。
「仲間、ですか。多田さんは私のことをそんな風に思って下さっていたのですね……」
俺の胸の中に身を委ねているミカがポツリとそんなことを呟く。不安気に俺の顔を覗いていたが幾らか表情が和らいだようにも見える。
そんな様を見て少しばかりの安堵感を覚えたが、それも一瞬。靴紐をキツく結び直すように、今一度気を強く引き締める。
俺とミカは仲間だ。辛い道のりの中、その気持ちを共感出来たり、優しく励ませたり、道のりから外れそうになった時には手を差し伸べ助け合うことが出来る素敵な間柄である。
しかし、道のりの先にあると信じきって止まないゴールと言うものは違う。ミカが俺に寄り添い歩いてしまえば、彼女が求めているゴールには決して辿り着くことが出来ないだろう。
なのでここはハッキリと言って置く必要がある。ミカは俺にとって大切な仲間なのだからやらなくちゃいけない事があるのだ。
「そうだ。俺達は仲間なんだよ。だからな? だから、その……っ!――」
――バサリ。
意を決して俺の心中を伝えようと思ったその矢先。観覧車の窓に“とある”一冊の本が吸い寄せられるように張り付いた。
俺はそれを目の当たりにして言葉を失い、意識が一瞬遠くなりかけたがバイト生活で養われた精神力とふつふつ湧き上がる怒りを原動力とし何とか持ち堪えることに成功。そして思い切り歯を喰いしばり、矢先にあるソレを思い切り睨み付ける。
俺の眼前にある一冊の本…………それはミカに非常に良く似た少女が見開き一ページにデカデカとあられもない姿で描写されている、何ともまぁ卑猥で破廉恥な本だった。