天使の本音
不意に立ち上がったかと思えば、こちらに身を放り出したミカ。宙に舞った天使はそのまま俺の隣の席へと吸い込まれていくように落ちて行く。
あまりにも一瞬で唐突な出来事に対して、俺の思考は完全に置いてけぼりをくらっている。
ただ、何故かは分からないが俺の体は動いていた。サッカーのゴールキーパーがゴールを死守するように、必死に横っ飛びをして彼女を抱きかかえたのだ。
「…………大丈夫?」
俺の胸の中に蹲るミカに声をかける。彼女は俺の胸板からひょっこりと顔を出してから。
「はい、大丈夫です。こうして多田さんが受け止めてくれたので」
はにかみながらもしっかりと俺と目を合わせてミカは言う。そんな愛らしい仕草を直ぐ目の前でされては流石に照れ臭くなり、俺は視線を逸らした。
「…………やっぱり多田さんは優しい人ですね。こうして急に飛び込んできた私のことを当たり前みたく助けて下さるんですもん」
目を逸らした俺に向かってミカはそんなことを言ってくる。その台詞のせいで彼女から見えない俺の顔は照れと恥じらいで緩んでしまったが、それはほんの一瞬のことだ。
ミカを助けたのは当たり前のことである。この当たり前というのは道徳的な意味合いではなく、人間に備わっている機能の一つ、反射が当たり前のように作用しただけの話に過ぎないってこと。
そして本当に優しい人なら、俺のようにアホ面下げて黙り込むなんてことはしない。しっかりきちんとミカのことを叱る筈なのだ。
「…………もうそう言うの止めてくれないか? 俺は優しくなんてない」
なので俺はミカに言った。顔を逸らしたままで、視線も当然外を見ながらそう言ったのだ。
「いいえ、多田さんは優しい人。これだけは揺るぎのない事実なんです…………ただ、私には少し優しすぎるかもしれません」
「優しすぎる……?」
思ってもみなかった言葉に俺は今まで合わせられずにいた視線を漸く彼女に向ける。俺の瞳に映る天使は少しムスっとしたような、難しい表情を浮かべていた。
「多田さんは私に優しく接してくれます。今日だけではありません、出会ってからずっとそうなんです……」
ミカは寂しそうな口ぶりで言った後、俺の腕の中で体を縮こませる。
「ですがそれは私にだけ。他の方々には素っ気無い態度を取ったり、少し乱暴な言葉を使っていたりしているんです」
「そ、そうか? ミカの勘違いじゃないかな?」
「いいえ、勘違いではありません。姉さんや泪さん、それからアイニィと接している時の多田さんはその様な感じなんです…………そして其方の方が自然体で、とても楽しそう………」
そう言い終わり、ミカは俺の胸に顔を埋めた。
思い返せば確かにミカと彼女が名前を挙げた三名では対応が違うかもしれない。俺としてはミカが阿呆馬鹿コンビやマスターより良い子なので、怒ったり適当にあしらったりしていないだけなのだが、それを彼女は良く思ってはいなかった。
俺はこの場合何をすればいい? またごめんと謝ればいいのか? しかし謝れば解決出来る話ではないことくらいは深く考えなくても直ぐに答えが出る。
俺の頭の中ではこのオンボロ観覧車よりもずっと速いスピードで言葉やらミカに対して思うことなんかがグルグルと回り始めた。
しかし、それらの物は回っているのみで俺の目の前では止まってくれない。俺は何も言えず、ただ黙ってもう一つの体温を感じることしか出来なかった。
「――私、優しくされるだけなのはもう嫌なんです……」
そんな時、ふと胸元から聞こえてきた声に頭の中で起こっていた回転が止まった。目の前には素敵な言葉も効果的なアプローチの仕方も転がっていない。代わりに絹糸のように美しい白髪があった。
「先程身を放り出したとき、本当は心配されるより叱って欲しかったです。きっと他の方だったらそう仰っていたはずだから……」
「勿論それは多田さんの優しさだということは重々承知しています。ですが優しい貴方だけでは無くて、もっと色々な貴方を見てみたい……BAR『DEVIL』の皆さんと接している時のように、私にも接して欲しいと思ってしまったんです」
そう言ってからミカは再度顔を上げて、俺の方を向く。両頬を仄かな桃色に染めて、瞳がほんのりと濡れている。しかしその瞳の奥には確かな意思が込められていた。
なので今度は顔を逸らしたりせず、俺もしっかり彼女と視線を合わせる。これから何を言われるのかは分からないし、それに対して上手く答えられる自信は今の俺には全く無い。
だが、彼女が真剣に何かを伝えようとしてくれているのだから、俺も真剣に受け止めたい、そう思った。また優しすぎると怒られてしまうかも知れないが、俺に出来ることはこれくらいしかない。
そして。
「――こうして、肌身離さず何時までも抱きしめあう、なんてことは望みません…………ですから多田さんが今送っている日常、そして貴方が夢見る『普通に幸せな人生』の中で、私も一緒に寄り添い歩いても宜しいでしょうか?」