小さな天使が授けてくれた物
「…………お願いです、もうこんなことは止めてください」
俺の背中越しで切なく、そして切実そうな声音でミカが言う。服に付いた雫の跡は彼女がすすり泣く度に面積を増し、生暖かいそれはじんわりと俺を濡らしていく。
もう理性の枷は取っ払った。何もかもを捨ててそれをマスターに全部ぶつけようと思った。自分の正義、欲求を満たす為に行動しようとしていた。
それなのに、俺の身体はどうしたものか。か細く弱弱しい、今にも消え入りそうな声ごときで止まってしまう。
なんで止まっているんだ? もう少し手を伸ばせば幸せを掴める筈なのに、なんで……!
「…………多田さんは良い人なんです。『普通』に優しい人なんです」
身体が止まっているのにも関わらず、俺の心と脳みそだけはグルグルと回転運動を続けて、いつしか葛藤の渦を作る。その葛藤の答えを教えてくれるようにそうミカが呟いた。
「今日一日一緒にいる時、多田さんは常に私のことを思って行動してくれました。改札の時も、園内でも、そしてレストランの時も……こんなに他人に尽くせる方はいないんです」
「それは、今日はミカの羽休めの日だから……」
そう、今日は日常にありふれたちょっとしたイベント、ミカとの一日デート。今まで頑張り続けた彼女の羽休めになればいいなと思っていた。
だからミカの為に行動し考えるなんてのは靴を履くとき靴紐を結ぶのと同様で普通に当たり前のことなのではないだろうか?
「違います。だって多田さんは何時も何時でも他人の為に行動している方だからです」
そんな俺の渦中にある疑問符にまたしてもミカはそうきっぱりと答えてくれる。
「肝試しの最中、そしてお祭りのあの夜。それだけに飽き足らずきっと私が気づかない所でも多田さんは私のことを思って行動しているんです……そして私だけではなく他の皆さんにも同様に、普通に優しく尽くしてくれているんですよ」
ミカが少しでも俺の耳に届くように、ありったけの思いを綴った手紙を封筒に入れるように、丁寧に丁寧に言う。
しかし、俺の口からは出たのはそんな手紙を吹き飛ばしてしまうような、木枯らしのように薄ら寒くて乾いた溜め息だ。
「ミカは俺を買い被りすぎなんだよ。俺は誰にも優しくしてないし、尽くした憶えもない。全部俺の為にやってるんだからな」
俺の葛藤、疑問符にここまで正確に答えを教えてくれたミカ。だがこの応答だけにははっきりと否定が出来る。俺はそんな善人ではないと。
ミカが例にあげた事柄はその日限りの限定的な話だ。そしてそれを踏まえたうえで私が気づかない所でも私のことを思って行動していると推測を立てているだけに過ぎない。それは大きな間違いなのだ。
例えば普段は客が少ない飲食店に何故だがその日だけ、それも昼の時間帯だけという超限定的な期間に人が賑わい、行列が出来たとしよう。その人々が列を成している様子を地方からドライブに着た全く土地勘の無い旅行者がたまたま目撃した。
おそらくその旅行者は列を見て思う『この店は随分と人気がある店なんだろうな』と。この解釈が正しいかどうかなんてのは誰が見ても違うと言えるであろう。それと同じだ。
そして他の皆さんにも同様に接しているというのも違う。この皆さんというのはアイニィだとかアスモデウスだとかその他クソ馬鹿悪魔共のことを言っているのだろうが俺はあいつ等に対して何一つ優しいことをしているつもりはない。
俺の人生にあいつらが勝手に入り込んできて迷惑をかけたり、面倒な問題ごとを持ち込んで着た挙句自分で対処出来ないので俺が必死こいて対応しているに過ぎない。だから全部俺の為にやっていると俺は言ったのだ。
つまるところ、俺は俺の人生の為に、俺がやるべきことを行なっているだけでそんな自己中野郎が優しい人間の筈がない。そういうことだ、そういうことなんだ。
「いいえ、違います……多田さんは優しい人なんです」
そんなどうしようもない俺にミカはそう言った。俺が吹き飛ばした手紙を拾って、もう一度俺に差し出した。
「…………何を根拠にそんなこと言えるんだ?」
「根拠だなんてそんな難しい理由も言葉も要りません…………多田さんが優しい方、誰かの為に行動出来る方だから、皆さんが慕ってくれて貴方の日常に居てくれている。そうではありませんか?」
小さな天使がそう呟き、より一層力を込めて俺を抱き締める。熱の篭った言葉と、体温が何よりも誰よりも優しく、優しく俺を包み込んだ。
俺の日常において最早クソ馬鹿悪魔共とは切っても切れない縁だというのは分かっていた。しかしその腐っても解くことの出来ない結び目を作っているのはあいつらが俺を慕ってくれているからだという回答には正直驚く。
こんな自分のことしか考えていない俺を慕ってくれている…………その言葉が例えミカの主観的な話で先ほど上げた限定的な物だとしても、そう言って貰えた事実がほんのちょっぴりだけ嬉しく感じる。
だが、しかし、それでも。
「やっぱり俺は優しい人間じゃないよ。そんな大層な人間がこんなことする筈がないだろ」
俺は終始無言を貫き、表情一つ変えず此方を見上げているマスターを見た後、両拳を固く握り締める。そんな俺を見て劣情は嘲け笑った。
今こうやって俺を笑っている劣情も例外無く俺自身である。到底直視出来ることが出来ない程醜悪なあいつも俺なら、優しいだなんて評価されるのは絶対におかしいだろう。
そんなあいつは、薄気味悪い笑みをぶら下げ、涎を咀嚼しているかのような小汚い音を立て囁いてくる『ミカの話は全部嘘だ』、『これ以上雰囲気が壊れる前に早いところヤってしまえ』、『なんならミカも一緒に食っちまえばいい、お前は人を言いくるめるのは得意だろ?』と。
俺はこんなことを考え、思ってしまうような奴なんだ。だから決して、決して優しい人間なんかじゃあないんだ――。
「――多田さんっ!」
あいつの囁き、俺の嘆き。そんな陳腐な声を掻き消してくれるように、ミカははっきりとした声音で力強く俺の名前を言う。
「そうです、多田さんはこんなことをする方じゃないんです! だから私は何度も言ってるじゃないですか。早く目を覚まして下さい、多田さん……!」
喉も、身体も、そして心も震わせながらミカは言った。その言葉の文末にそっと打たれた句読点は俺を何度も塗らしている一粒の雫へと変わり、落ちる。
落下した雫は俺の心の中で弾け波紋を作り、その波紋が一つの大きな円へと広がっていくと同時に、俺の視界も、思考もどんどんと鮮明になってきた。
今目の前にいるあいつは本当に俺なのか? 俺のなりたかった自分、理想像というのはあいつなのか?
――俺の求めていた普通に幸せな人生ってあいつになれば叶うのか?
「…………ありがとうミカ、お陰で目が覚めたよ」
俺はミカにそう言ってからこれまで溜め込んできた悪い空気を総入れ替えするため、大きく深呼吸をする。一度大きく息を吸っては、大きくそれを吐く。
外の新鮮な空気と比べれば良いとは言えないだろうが、それでもさっきまで溜まっていた劣情よりは随分とマシだ。
「本当に大丈夫なんですか? もう悪い多田さんでは無いんですか?」
「ああ、大丈夫だ。今度こそ、本当に…………」
「…………そうですか。では、改めて。おはようございます、多田さん」
俺から離れたミカはベットを降りて、お行儀よく両手を下腹部に添え佇み、穏やかな微笑みを俺に向けてくれた。
俺も両手を天井に突き上げ身体を解してからベットを降りた。ミカが離れたことによって背中が少しだけ寂しく感じるだとか、そんな軟弱なことはもう思わない。何故なら彼女の体温は、気持ちは、全部俺の心の中で今尚熱を帯びているからだ。
「ほら、マスター。何時までも転がり込んでないでもう行きますよ。あ、一応触れ合うことには成功しているんで緩和の件よろしくお願いしますね」
俺はいそいそと服装を整えながら用件だけを早口で伝え、足早にこの場から立ち去ろうとする。
何故こんなに早く帰ろうとしているのかって? まぁ理由を挙げるとすれば色々あるのだが……。
「多田君、いいんだな? 君は本当にそれでいいんだな?」
マスターの顔を見ずに退出しようとした俺に、彼女はそう問う。
この小一時間を思い出しても俺は滅茶苦茶に恥ずかしいことを仕出かしたし、マスターの誘いを断るという彼女の傲慢すぎる自尊心に傷をつける選択してしまったのでここはシレっと帰り何事も有耶無耶にしようと思った。しかし、それこそ俺の自分に甘い自己中心的な考えという奴だ。
だから今ここで、もう一度、はっきりと言う必要がある。
「いいんですよ、俺が抱きたいのはマスターじゃあなくて、もっともっと大きな物なんでね」
俺は顔だけマスターの方を向き、今一度宣言する。
もう二度と道に迷わないように、一時の欲望に溺れないように、しっかりと俺はマスターに言ってやった。
俺が本当に欲しい物、普通に幸せな人生。それは果てがない空のように酷く抽象的な目標ではある。
しかしそれでも俺は前に進まなくてはいけない。人間とは夢を抱く生き物だから。そして進むために必要な人肌程の熱を発している提燈、それから優しさと勇気で作られた小さな翼を天使が授けてくれたのだから。
「と、いう訳でさっさと着替えて下さいね? ほら、日も結構傾いてきましたし気温の寒暖さって思っている以上に身体に堪えるから――」
――パチン。
俺はカッターシャツ一枚で他すっぽんぽんのマスターにさっさと着替えるよう催促すると、そんな言葉を断罪するように彼女は指を擦り合わせ、音を出す。
――ドスン。
そしてすぐさま次に聞こえて着たのは小屋の外で何か重い物が落下してきた音だ。
その音の主は本気を出せば小屋の一つや二つ吹き飛ばせるのではないかと思うほど荒々しい鼻息を立て、とても人間界規模の生物が発しているとは思えない低く、猛々しい唸り声を上げている。
「…………あの、マスター?」
「すまんな多田君。私の原罪級な美貌と可愛さを持ってしても君を満足させることが出来なかった……せめても気休めとして今用意できる最大限に大きな物をプレゼントしてやろう。受け取ってくれたまえ」
「………………すいませんでした。気分が良かったので調子に乗りました。本当に申し訳ないと思っています」
「黙れクソ野郎。私を屈辱した罪、きっちりと清算してもらうからな。後悔と苦痛で苦しみもがいた後、最期の最期まで私に謝罪と命乞いの言葉を絶叫させた末、死ね」
「グルガアアアアア!!!!!」
そう言ってマスターが親指を地面に突き下ろすと、外で待っていた普通のドラゴンが咆哮を上げ、プレハブ小屋をぶち壊し、俺の両肩を二本足の四本爪で、尋常ではない力で掴む。
そして次の瞬間、俺は空を飛んだ。俺の予想とおり空はすっかり茜色に染まっていてマスターとミカ、二人の体温のように暖かい光が園内全体を優しく包み込んでいる。
俺の目標は果てがない空のようだと、先程思っていたが人生というのは本当に何があるのかは予想がつかない。
だからドラゴンに掴まれて空をフライトしていてもおかしくはないし、俺の目標も何かの縁が繋がりあって、今掴めそうな距離にある雲のように突然、急に掴めるような日が来るのかもしれないな、と柄にもなく希望に満ち溢れた楽観的なことを考えてしまった。
「ってそんなこと考えている場合かよっ!!! くそくそくそぉおおおおおおお!!!!!」
そんな正常な思考に戻った俺の悲痛な叫びはドラゴンにも、遥か下の地上にいるマスター達にも当然ながら届くことはなく、果てしなくどこまでも伸びきっている優しい夕日の中にただただ吸い込まれていくだけだった。