正当化した正義
「劣情……ですか」
俺とマスター、お互いの身体が一つに重なり合いそうな程の距離で彼女に言われたその言葉。それが心の奥で蠢く『何か』にまで聞こえたようで、やっと名前を呼んで貰えたそれは俺の心中で狂喜乱舞している。
ああ、そうか。お前はそんな奴だったのか。
名前が分かった途端、劣情のことが何故だか喧嘩の仲直りをした友人の様に思えてくる。反発し突き放す為に作った壁が壊れ、俺と劣情は面を合わせて向き合う。
そいつはただ無言で両腕を広げて、俺の指示を待っている。
その仕草が何を意味しているか、そんくらいは俺にだって簡単に分かった。何故ならそいつは俺の感情だから、俺自身に他ならないから。
なので。
「…………ふむ、ようやく素直になったな、多田君」
俺は俺自身である劣情と共に、両膝に座るマスターを抱き込んだ。二つの体温が重なり合い、俺と劣情は一つになった。
俺より少しだけ温かいマスターの身体の熱がじんわりと浸透していき、彼女の首元に顔を埋めると気品が高い柑橘系の良い香りが鼻腔を通って胸いっぱいに広がる。
この満たされている感じが酷く心地よくて、満身創痍だった筈の身体にも活力が湧き上がってくる。これが俺が求めていた癒しで、普通の幸せなのか。マスターによって蕩かされた頭では分からないし、今はそんなことより少しでも彼女を感じていたいので俺は考えることを放棄することにした。
考えるな、感じろと言う名言がある通り、世の中幾ら考えても分からないことが山ほどある。
だから今は何も考えなくていい。これでいい、このままで良いんだ。
「少し頭を離してもらえんか? 流石に重い……」
俺がマスターに浸っている中、彼女の声がそう耳元で囁く。
慌てて顔を彼女から離すと些か不満げに頬を膨らませるマスター。その膨れっ面がまた一段と愛おしく劣情を逆撫でしてくる。
今にも再び抱きしめてやりたいのだが、マスターの頬を膨らませた顔に一瞬、ほんの一瞬だけ誰かの顔が重なってしまい寸での所で手が出せなかった。
「全く、枷を外してやった途端直ぐベタベタしがみ付いてくる。本当に駄犬だな、君は」
「すいません、つい調子に乗って…………どわっ!?」
謝りの言葉を言おうと思ったとき、俺の胸にそっと小さな両手が添えられ不必要な程フカフカなベットに押し倒された。ポスンとベットに沈む音、間抜けな声、それが手も言葉も出せず仕舞いで情けない俺を表している様だった。
そんな俺に覆い被さる形で跨るマスター。彼女の顔にニヒルな笑みが灯ってから。
「人様に迷惑をかけんよう、今一度きっちり躾け直してやる。覚悟しろよ? 私以外では劣情も発情も出来んようにしてやるからな」
そう言ってマスターは俺の後頭部に手を添えて、ゆっくりと着実に唇を近づけてくる。
ぷっくりと肥えた林檎のように赤く艶やかな唇が降りてくる様を俺と劣情はただ待っている。待っていれさえすれば俺が望んでいる全てが手に入るのだ。
癒しも劣情の放出先も、そしてあのマスターさえもが手に入る。幸福で幸せな人生を過ごすための烙印がもうすぐ落とされるのだ。
もうすぐ、あと少し、ほんのちょっと待っていれば…………!
「――待って下さい!!!」
僅か、数秒。ほんの数センチで全てが手に入るその時、プレハブ小屋の扉が勢い良く開かれ、外で待機を命じられていたミカが彼女らしくない大きな声を上げて入ってきた。
「そんな血相を変えてなんの用だ? 見ての通り私たちは今忙しいのだが」
そう言って跨っていたマスターは俺から離れベットに座り直す。先程まで腕の中にあった温もりが遠くへ行ってしまい嫌に肌寒い感覚だけが残った。
「お邪魔をしてしまったのは重々承知です! ですがこのまま黙って見過ごすわけには行きません! 多田さん目を覚まして下さい!」
離れてしまった彼女の体温が恋しくて、少しでも逃がさないよう蹲り丸くなった俺に対してミカはそんな戯言を言ってくる。
目を覚まして下さいとは俺がベットから起き上がることを指しているのではない。俺が今過ちを犯しておりそれに早く気づけと言っているのだ。
俺が何を間違えた? もう少しで俺の望んでいた物全てが手に入りそうだったのに。それを邪魔したのはミカなのに、こいつは何を正義面して言っているんだ?
そもそも俺がここまで傷心しきったのはミカのせいだ。彼女の行動が俺の心をすり減らしたのに一丁前に説教をしようだなんて甚だおかしいじゃないか。
そうだろう、なぁ? 劣情?
俺がそう同意を求めると、劣情はコクリと頷き同意する。これで二対一、資本主義のこの国において多数派の意見、考えが通るのは当たり前のこと。つまり正義は俺達、俺にあるのだ。
「ミカ、俺は大丈夫だ……だから、もう少しだけ外で待っていてくれないか?」
なので俺はなるべく声を和らげてミカに言う。
「いいえ大丈夫ではありません! 私の知っている多田さんならこんなこと絶対に――!」
「だから! 大丈夫だって言ってんだろ!!!」
俺はミカの言葉の続きを叩き潰すようにふかふかのベットを拳で叩きつけて言った。ドスンと鈍い音が小さな部屋に響き、彼女はキュッと唇を噛み締めた。
「おやおや多田君、乱暴に叩いてしまってはベットが痛んでしまうぞ。その辺にしたまえ」
そう言ってマスターは俺の背後からそっと腕を回し再び俺を抱きしめてくれた。愛おしかったマスターの体温が戻ってきてくれたことによって尖っていた苛立ちの針がふにゃりと頭を垂れていき癒しと充実感が浸透してくる。
この快感とは一味違う心地よさ、満足感は間違いなく本物だ。だから俺は何も間違えていない。自分の本能に従い自分のやりたいことをやっている。
大丈夫だ。大丈夫な筈なんだ…………だからそんな悲しそうな顔で俺を見ないでくれ。
「……で、続きはどうする? 君が萎えてしまったのならやめておくか?」
心の中でそう言い聞かせ、自分を肯定している中、耳元で小さな悪魔がそう囁く。俺は自分を肯定させるのに必死で言葉が出そうにもないので胸元にあった手をキュッと握り締め返事を返した。
「ふむ、いい返事だな……ということでミカ、悪いが多田君の言うとおり外で待っていたまえ」
「いいえ駄目です……そんなことは絶対駄目なんです!」
「ハハッそんな心配そうな顔をしなくていい。ほんのニ、三十分で片をつけてやるから安心してろ――」
俺はこれ以上悲しむミカの顔を見たくなかったので身体を反転させ、今度はマスターを押し倒してやった。そしてまるで恋人のように両指を絡ませ、また再び彼女の体温が離れないように跨った。
「ふむ……これは、些か時間が掛かるかもしれんな……」
常時余裕を醸し出しているマスター。しかし今見下ろしているその顔には少しばかりの焦りの影と汗が流れる。それを見た劣情は全身を叩きつけながら狂喜乱舞し、俺の唇は自分でも分かるほど歪に吊り上がった。
マスターは言った。私が劣情の捌け口も、何もかも全て与えてやる、と。
なら全部ぶつけてやる。このどうしようもない劣情も、ミカに対して抱いている苛立ちと申し訳ないという気持ちも、俺の今まで積み上げてきた物も全部、全部だ。
正しくあろうとした俺をこんな目に遭わせ続けたアンタが悪いんだ。
「………………あ?」
マスターの穢れ一つない唇に、俺の薄くて小汚い唇を重ねようとしたその時、俺やマスターの物ではない体温が背中に張り付く。
この優しくて、懸命で、それでいて何処か懐かしく感じる体温の持ち主。ミカは俺の身体にしがみ付き、俺の服に小さな雫の跡を付けている。