良心が叫びたがっているんだ。
『地獄の動物触れ合い体験ツアー』で初めに出会った動物、それはケルベロスだのドラゴンだのと言った如何にも地獄らしい化け物でもなく、一見見た目は可愛らしいがいざ触れると凶暴化するギャップモンスターでもなく、普通のただのおっさんだった。俺は膝から崩れ落ちた。
くそっ! なんなんだよこの展開は! 先程まで完全にシリアスムードだったじゃねぇか! それなのにこのおっさんはなんなの? 俺が真面目に考えて宣言したのにこの仕打ちはないだろ!!!
俺の真剣な思い、真面目な雰囲気がぶち壊されたこと、唐突過ぎるおっさんの登場に腹が立って、悔しくって。俺は裁判長が振るう小槌のように何度も地面を殴る。
「おや? 多田君、何をしているんだ? 早く触りたまえ」
「いや、誰が触るかこんなおっさん!! 絶対おかしいでしょ!?」
部活の後輩をイジめる中学生男子のような態度で言ってくるマスターに俺は立ち上がり、声を荒げてツッコみをいれる。
「別に何もおかしくはないだろう。見てみろ、こんなに可愛らしい姿をしているじゃないか」
「ゥーン!!! ウーン!!!」
マスターが顎をクイクイと動かし、園長を示す。荒縄で拘束されている園長は尚も地上に打ち上げられた魚のようにもがき苦しんでいる。
アンタ絶対可愛いと思ってないだろ、それだけ言うのならまずマスターが触ってみろよ等と言いたいことは指で数えても足りない程ある。しかし何時ものことながら俺が言えないでいるのは足りない指の本数が更に減ってしまう可能性があるのと、先程と理由は同じく、俺がやると言った事柄だからだ。
だがしかし! それでも俺はやらない。こんな一部の層にしか需要が無い性的コンテンツ紛いのことをやってたまるか! 言えないのなら言わずに態度で示せばいい。昨今の野党がよくやっていそうな戦術、無言を貫き賛否どちらもせず、それでいて何処と無く否定的な雰囲気を醸し出しながら俺はマスターを見つめる。
そんな俺にマスターは心底呆れたように大きなため息を吐いてから。
「つくづく君は腰抜けクソ野郎だな。いい歳して自分の発言に対してケツも拭けないだなんて」
マスターが俺を罵倒し煽ってくるが、ここは我慢だ。だって嫌じゃん? 俺のケツより絶対汚いじゃん?さっきから必死こいて動いてるせいで脂汗とか滲み出てるし。
俺は口を更に固く閉ざし、無言の抵抗を続ける。マスターはもう一度俺にため息を零してから、柔らかそうな幼女頬っぺたに人差し指をトントンと当てながら何かを考え始める。
そして。
「私としては簡単に触れられそうな生き物を選んだつもりなのだが、それでも多田君は厳しいと言うのだな。まぁ仕方が無いか。好き嫌いなんて誰にだってある。それこそ普通に、だ」
何か譲歩してくれそうなニュアンスを出しながらマスターがそう言う。俺はその言葉に一瞬固く閉ざした口が緩みそうになったが、すぐさま閉ざし直した。マスターの顔には譲歩し歩み寄ろうだなんて思考はなく、寧ろ奈落の底へ突き落としてやろうといわんばかりの笑みを浮かべているからだ。
そしてその笑みは俺ではなく、隣のミカに向けられていた。
「そこでだ、ミカ、君が触ってみるというのはどうかね?」
「えっ? 私がですか?」
荒唐無稽、あまりにも唐突過ぎる展開に置いてけぼりを食らっていたミカが当然の疑問符を言葉に出す。
「ああ、そうだ。見ての通り多田君が怖気づいてしまったからな、それでは折角の企画が台無しになってしまうだろ? そこで君達二人どちらかが触れば良いというルールに変更することにした」
そう説明するマスターに、ミカは眉毛を下げながら不安そうな顔で俺を見上げてくる。その飼い主が出掛ける時寂しそうにしているチワワみたいな顔やめてくれよ。俺の良心が叫びたがっちゃうから。
「まぁ本来なら多田君が行なうべきことだ、別に強要する訳ではない…………ただ、君がこのクソ男に少しでも協力したいという気持ちがあるのならやるべきだろう。想い人なら特にな」
想い人で言葉を締めくくったマスターはまるで誰かを思い浮かべているように数秒程空を仰いだ。勿論彼女にそんな輩はいないことくらい俺とミカは分かっている。何故このような演技をしているのかと言えば、ミカにとっては姉であり、憧れ的存在の自分がその立場なら触ることを強調することによってやらざるを得ない方向に誘導させる為である。それに加えて『協力したい気持ち』や『想い人』なんて単語を使い、更に退路を断ち切ったのだ。
「…………分かりました。やりましょう」
人の感情を揺さぶり、自分の思うように事を進ませる。その話術は正しく悪魔その者である。そして純粋である小さな天使は悪魔の手招きに導かれるように無言の俺から手を離した。勇気を与えてくれた温もりも、徐々に熱を下げていった。
「多田さん、少しだけ待っていて下さい。今回は私が頑張ってきますね」
俺から手を離したミカは数歩前で立ち止まり、顔を此方に向けてから言った。
「今日はデートに付き合って頂いてありがとうございました。一日中思い出に残るような楽しい出来事ばかりでした……でも一番はやはりずっと手を繋いでくれたこと、これがとっても嬉しかったです」
「…………ミカ」
「私はこれから汚れてしまいますが、もし良かったら……多田さんが許してくれるのであれば……もう一度優しく手を握っていくれても良いですかね?」
ニコやかに微笑むその目尻には一粒の涙が溜まり、彼女は指先で丁寧にそれを拭き取る。しかし止まることを知らない涙は姉と同じく柔らかそうな頬を伝って、舗装されていない地面に零れ落ちた。
「……くそ…………くそっ!!!!!!」
ポツリと雫が零れ落ちたその時、俺の中でも何かが吹っ切れたようで俺は全力で走り出す。数歩前のミカを追い抜き、その前にいるマスターにも目を合わせず、全身を縛られているクソデブ園長目掛けてただひたすらに真っ直ぐ走った。
何が原動力となって走り出したのか、ミカの涙に対しての罪悪感、マスターの悪魔的所業に対して正義の炎が灯った…………理由を挙げれば恐らく切りが無い。
その中で一つ、たった一つだけ挙げるとするのなら。
「この! クソデブ野郎!! なんでお前なんかの為にこんな重い空気にさせられなきゃいけねぇんだよ!!!」
俺は無我夢中で園長の肥え太った腹を滅茶苦茶に触りまくる。
たった一つ理由を挙げるとするなら、そう、こんな変態染みたおっさんに雰囲気をぶち壊されたことに腹が立った。それが一番の理由になるのだろう。
「――ンー! ンンー! ん、んぅ……ンー!!!」
「くそ! くそくそ!!! ちっくしょぉおおおおおおお!!!!!」
俺に乱暴されて悶え喘ぐ園長、苛立ちから声を荒げる俺。
常人には到底理解出来ないであろう状況下で、俺達は心の中では収めきれないであろう感情を叫びあっていた。