多田 崇は宣言する
植物園のドームのような、外部とは隔離されただだっ広い空間。整地がなされていない地面に俺達は這い蹲り、その無様な姿を一匹の悪魔が静かに笑う。
「…………マスター、やっぱりアンタだったか」
俺は悪魔の名前を呟き、起き上がる。隣のミカも困惑の色を顔に浮かべながらも起き上がった。
「やっぱりアンタだったか、とは随分な言い草だな。家畜の薄汚い豚より頭が悪い君が吐いていい台詞とは思えん」
たま子と同じ制服に身を包んだマスターが何時もの調子で俺を罵りにかかってくる。
「いや分かるわ! たま子の様子がおかしい時点で九割近く察してたわ!」
「ふむ、彼女は元々頭のおかしな人間だと思っていたのだが私の記憶違いだったかな?」
「ぐっ! それはそうなんですけど……!」
確かに時折りマスターを驚かせるような行動、発言をしているたま子は変人の部類に入るのかもしれないし、こうも易々と悪魔の洗脳に引っかかっている時点で馬鹿なのは間違いない。
「……コホン、コホン」
割とどうでもよいたま子変人説について考えていると隣のミカがいかにもわざとらしい咳払いをする。
「姉さんはどうして此処にいるのですか? ……いいえ、どんな目論みがあって姿を現したのですか?」
何よりも真っ先に聞くべき本題をミカは切り出す。
「私はただ君達のデートがより楽しめるよう企画を用意しただけだ。別に邪推されるような目論見も企みも考えてはいない。それとも何かね? 君は私が実妹の恋路を邪魔するようなクソったれだと思っているというのかね?」
「い、いえ! 決してそんなことは思っていませんっ! ただ姉さんのことですから何か裏があるのかと……」
ここぞとばかりに姉妹アピールを始め、心情を揺さぶるマスターに対して、慌てて訂正を入れるミカ。ちょっとミカちゃんチョロくないですかね? あのマスターが目論みも企みも裏も無く何か行動する訳がないだろ、ほら証拠に滅茶苦茶企んでる顔してるでしょ?
「まぁ、裏と言える程大層な物はないが、強いて言うとすればだな、普段からミカにだけ甘い態度を取るロリペドクソ野郎多田君にきっちり酷い目に遭って貰おうと思っているだけだ」
「……そんな殺意百パーセントの物を良く大層じゃないとか言えましたね、つか俺は別にミカに甘い訳でもないし」
裏に隠そうにもはみ出して隠し切れないであろう殺意を口にしたマスター。そんな彼女は俺の弁解に対して鼻で笑い一瞥してから。
「君は老いぼれ老人より物忘れが酷いので再度忠告しておくとだな、私と契約を交わした以上君は私の所有物なんだ。多田君が媚び諂うべき相手は本来ご主人様である私であるべきだろう。そんなのは頭の悪い小型犬でも分かっているぞ?」
「契約の事に関しては重々承知ですけど俺だって人間ですよ? 好感度というか、そんなもんが自然に出てしまうのは仕方がないでしょ!」
久方振りにボロクソ言われたのが腹が立ったのでここは負けじと言い返してみる。隣ではミカが好感度と言う言葉にポッと頬を朱に染めたがそこは気にしない。「君のことは友達としては好きだけど恋人にはなれそうにない」とほざく女と同じで、好感度と好意は少なくとも俺の中では別物だと一応心の中で弁解しておこう。
「そうキャンキャン吼えるな、やかましい。君が例えどんなクソったれ野郎でも人間なのは分かっている……。そうだな、折角の機会だ。今回私が用意した企画を無事やり終えたあかつきには契約条件の緩和も考えてやろうか」
「え? 緩和?」
俺が契約のことに関して噛み付いたからか、はたまた契約を交わしているのにも関わらずマスターの言うように俺が媚び諂わないからかは分からないがマスターがそんなことを言って来た。
「そうだ。吼えてばかりで役立たずな犬にも、たまには褒美を与えるというにもご主人様の務めだろう? どうだ? 挑戦してみるかね?」
そう言ってマスターはニヤリと口角を上げて、俺の返答を待つかのように視線を向ける。
この状況、一見すると棚から牡丹餅、千載一遇のチャンスにも受け取れる。しかしそれは上っ面だけの話で、棚から出てきた牡丹餅は既にカビで腐敗しており、チャンスではなく追い込まれているのだ。
そもそも此処に着てしまった時点で俺はマスターが用意したらしい企画に参加せざるを得ない状況になっている。しかし、そうした状況下でも本来の俺ならきっとゴネる、渋る等して簡単には参加しなかった筈だ。
そんな面倒くさいやり取りを避ける為にこうしてわざと甘い言葉を目の前にぶら下げることで俺を吊り上げようとしている。
ふぅ、全くもってこの金髪クソ悪魔幼女は人間を、そして俺を心底馬鹿にしているな。こんな明らかな罠に、方便に俺が引っかかるとでも思っているのか?
ここはガツンと一言いってやらなくては行けないな。
「…………いいですよ、その挑戦、受けて立ちます」
俺が放った一言。その短いがしっかりと意思を込めて放った一言は金髪と白髪、二人の幼女を驚かせるのには十分な威力を発揮したようだ。
「ほう、珍しいな。君がこの手の話に素直に食いつくなんて」
「そりゃあ珍しいでしょうね。普通の人生を過ごしたい俺がこんな危険を冒そうとするなんて…………ただ」
ここで俺は敢えて言葉を区切り、話の流れに溜めを作る。理由はエリゴスさんの時と同様、緊張感を演出させる為だ。
そして。
「危険を冒したその先に俺の望んでいる物があるのなら、掴みに行かなくちゃいけないんですよ。それが例え成功する可能性が低くても、どんな茨の道でもね」
もう一度決意と込めて、それでいて静かに俺はそう宣言してやった。
人間は考える葦である。丸裸でサバンナ等を歩いていれば園内で堕落した生活を送っていたライオンの餌になるし、サル山に居たサル共と遺伝子的観点から見れば染色体の数が1つ違うだけの存在なのだ。
そんな脆弱な生き物が生物史上最も繁栄を成し遂げたのには発達した脳みそと複雑になった感情があるから。
文明を築き、文化を発展させた人間は生きるという生物にとって一番重要で難関な目標をクリアすることが出来た。そうしていくと人間は次なる目標を探し、叶えようとする。あれがしたい、これがしたい、理想の自分になりたい……これらの事柄を総称して『夢』と人は名付けた。
しかし人の夢と書いて『儚い』と言うように人間誰しもその夢に辿りつけられる訳ではなく、大抵の場合は途中で諦め挫折し、適当に寿命を過ごして死んでいくのだ。
これが世間一般的に言われている『普通の人生』、そして当初俺が夢見ていた人生でもある。
だが、今は違う。俺が求めていた本当の人生とは『普通に幸せな人生』だと気づかされたからだ。
それを叶える為には、アホみたいに無鉄砲なことでもガムシャラに頑張るし、叶えられる希望のパーセンテージが馬鹿みたいに低くても諦めない。進むべき道を見失っても、真面目にひた向きに努力を重ね自分で道を拓く。毎夜小汚い酔っ払いクソ共を相手に学んできた全てを生かして、俺は自分の寿命を一生懸命に生きなくてはいけないのだ。
そうでもしないと呪われてしまうからな、今日を生きたくても生きることが出来なかった奴に。
――そうだろう、なぁ? 同志?
「ふむ、成る程、まさか君からそんな言葉が出るとは思ってもみなかった…………変わったな、多田君」
俺の宣言に対してマスターがそう言った。変わったとは良い意味なのか悪い意味なのかは分からないが何か、胸の中の何かが奏でられたトライアングルのようにジーンと鈍く暖かい感情をもたらして来る。
「しかし私は悪魔だ。人間の様に感情で動く生き物ではない。しっかり挑戦をクリアして貰わないと君の望む物は一切与えん。いいな?」
「はい、分かってますよ」
「生意気な程清々しい返事で何よりだ…………それでは早速始めるとしよう。園内最後の一大イベント『地獄の動物触れ合い体験ツアー』! 改めて名乗らせて貰おう、今回のツアー案内役を務めるBAR『DEVIL』マスター、そして『原罪』の堕天使ベリルだ。諸君、逸れないようしっかり着いてきたまえ」
そう言ってマスターはクルリと踵を返し、先頭を歩いていく。
俺とミカは逸れないように、純白の翼が生えていたであろうその小さな背中を見つめながら自分の足で一歩ずつ前に進んでいくのであった。