恋のABC
アイニィが打った一手がこのボックス席に衝撃を走らせ驚きを与える。
クールぶっていた泪は男子中学生のように鼻の下を伸ばしながらキョロキョロと世話しなく顔を動かし、腕に掴まっているミカはまるで時が止まってしまったようにピタリと動かない。そして致命的なミスを犯した俺はため息を吐いて額を覆った。
相手がアイニィだったから、思い出話に少し浮かれてしまったから。思い出せないことがもどかしかったから。そんな、馬鹿な理由でとんでもない物を引き出してしまったのだ。
何故俺はそんなことを忘れてしまったのか小一時間自分を見つめ直したい所ではあるが、掘り起こした記憶の中にあった彼女の双丘がチラつくしので止めておく。と言うよりそんな余裕と時間が俺には無い。
少し古いが『男女のABC』という物がある。このABCというのは地方によって様々だが一般的に『キス』、『愛撫』、『性交』の順を暗喩した実に下らない言葉だ。定食屋じゃないんだからもっとセンスあるワードを考えろだとかは今は関係ないので割愛する。
引き合いに出した理由は順番だ。このABCの中でCが一番大きい、つまり相手と一番親密的な関係を表し、中学校の教室の雑談で『Cまで行ったけど……』なんて言葉が発せられれば小うるさいクラスの連中がより一層騒ぎ出し、少し距離の離れた連中がソワソワし始め、泪のような一匹狼もといボッチの奴が『ふったかだがアルファベットの文字列だけで恋愛を語るだなんて全く持ってナンセンスだねぇ』と机に伏し寝たふりをしながら心中で毒づく。
無論俺は異性間において性交を行なうことが最も親密的な関係であるとは微塵も思っていないのだが、これは俺だけの価値観なのかもしれないし、お互い身体を委ねても大丈夫だと言う点を見れば妥協は出来る。
そしてこのABCを今居る三人に当てはめるとしよう。泪は状況も状況で仕方が無く、止む終えなしにキスをしてしまったのでB、ミカは当然ながらAで残ったアイニィはCとする。
そうするとミカ、泪、アイニィの順で序列が成り立ち、ミカが一番下、そしてあろうことか彼女が毛嫌いしているアイニィが一番上という構図が出来上がってしまうのだ。
「ちょっとー、何やってんの? 思い出したんなら早く謝って欲しいんですけどぉ」
無自覚のうちに構図の頂点に上り詰めたアイニィが俺に再度謝罪を要求してくる。ここは無視を決め込むか、出鱈目な言葉を並べ立てて納得させる、泣かせるという選択も可能だが、見てしまったという事実が公になった以上、適当な扱いは出来ない。
これは俺の印象が下がるからではなく、あくまでもミカの気分をこれ以上落とさないようにする為である。デートの相手が不本意ながらも第三者とキスをしたり、胸を見たりした話を聞いた後ではもう確実に遅いのだが、それでも必要最低限やるべきこと、やらざるを得ないことなのだ。
「……この度は私の軽率な行動により大変不快な思いをさせてしまい申し訳ございませんでした」
完璧にフリーズしてしまい俺の腕から離れられなくなってしまったミカを尻目に、俺は姿勢を正し深々と頭を下げる。
悪い事をすれば謝る、これは世の常であり常識の範疇でもある。何でこんなアホに謝らなくてはいけないのだとか、お前のおっぱいなんて微塵も興味無いんだよ馬鹿野郎だとかそんな気持ちが沸々と湧き上がってくるが普通の行為だと思えば幾分かは気を紛らわせることが出来る。
しかし。
「うんうん、多田にしちゃ潔く謝った方ね…………でもでもぉただ謝ってくれるだけじゃ誠意が足りないっていうか? ほら、よくお師匠が言うじゃない? 『ごめんで済むなら悪魔なんて必要ない。そもそもこの私が謝罪一つで赦すと思うのかね?』って」
顔を見なくても分かるほど調子づいた声音でアイニィは言う。俺はそんな文言初めて聞いたのだが、こいつ俺の居ない場所でどんだけ怒られてるんだよ……。
頭を上げ、完璧に何かを企んでいるアイニィに目を向ける。彼女は予想とおり悪巧みを考えているクソガキのような笑みを浮かべながら。
「まぁこのお店の代金全部奢ってくれるんだったら、今回だけ特別に許してあげてもいいわよ?」
アイニィはそう言ってぷぷーっと両手を口に当て小馬鹿にしてくるような笑い声を上げる。くそっ! ここぞとばかりに調子乗りやがって! つかお前滅茶苦茶偉くて金持ちそうな所の愛娘なんだろ? こんな普通の大学生に集ろうとするなよ! 親父はどういう教育してんだ!?
「…………分かった。今回ばかりは俺が悪いんだし、それくらい払うよ」
心の中で、ツッコミと非難の声を上げるが俺はそれを懸命に歯を食いしばることで食い止め言った。今俺に出来ることはこれしかないのだから。それに、もし歯が欠けたり折れたりしたらこいつの実家に請求書送ればいいし。
「何か今日は偉い素直に言うこと聞いてくれるじゃない、でもアンタが仕出かした事を考えれば当然よね、財布がからっぽになってレシートだらけにしてあげるんだから覚悟なさい!」
そう言ってフフーンと鼻を鳴らし、自慢げに胸を張った後、彼女はメニュー表を捲る。おい、あんまり主張させてくるの止めろよ。隣の馬鹿がめちゃくちゃ凝視してるぞ。後俺はお前と違ってレシートは全部捨ててるからな?
「さぁて何食べようっかなー? ハンバーグ? いや、オムライスも捨てがたいところよねぇ。ミートスパゲッティも美味しそう……!」
「お前さっきパフェ食べたばっかりだろ。絶対食べられないから軽めの物にしといた方がいいんじゃないのか?」
「うっさいわね! 私にとっちゃあパフェなんて朝飯前なの! だから大丈夫なんだってば!」
何が大丈夫なのかは謎理論過ぎて全く分からない。だが、アイニィが良いのならそれでいい。
今回奢らされる羽目になったのは俺が余計な事を言ってしまったからだ。だからもう何も口出しはせず彼女の財布として使命を果たせばいいのだ。
「あーあ、どっかの誰かさんが余計なこと言うからムカついてきた……! こうなったら食べたい物全部注文しちゃおっと」
「――待って下さい」
頭の悪い悪魔が本当に俺の財布を食い潰そうとしていた所を止める一つの声。それは俺の腕で身体を硬直させていた天使、ミカだ。
「アイニィさん……いいえ、アイニィ。どうでしょう? ここで一つ私と勝負をしませんか?」
ミカはいつの間にか俺から腕を離し、行儀の良い佇まいで、真剣な剣幕で言う。
「勝負……? 何でアンタとそんなことしなくちゃいけないの?」
当然、こんな唐突に勝負を挑まれても素直に受ける奴など居なく、アイニィは頭にハテナマークなんかを浮かべてそうな顔で言う。その台詞お前が吐いていいものじゃないからな? 絶対。
「理由は様々ありますが、メリットを上げると貴方は一度私との勝負に敗れています。これはリベンジが出来るまたとない機会、千載一遇のチャンスではないでしょうか?」
この二人は以前、件の肝試し大会の際ババ抜きで勝負をしたことがある。
結果は勿論ミカの勝ち。その後泣き喚くアイニィを宥めたりと色々大変な目にあったのだ。
「成る程……確かに良い機会かもしれないわね。いいわ、やってやろうじゃないっ!」
「ありがとうございます。お話が早くて助かります……。それで、貴方はどうしますか? 泪さん」
「え? ぼ、ぼぼ僕?」
名前を呼ばれた瞬間、泪はギクリと身体を大きくビクつかせる。そして先程まで凝視していたアイニィおっぱいから目を逸らし、居心地が悪そうにオドオドしながら。
「い、いやぁ僕はその、君達の因果とは関係ない次元で勝負をしてるっていうか…………ねぇ、崇?」
ボケ老人の戯言のように訳の分からないことを抜かし、泳ぎ逃げ惑った目線を俺の方に向けてきやがる。いや、お前ほんとなんなの?
「そうですか、それは失礼しました……。貴方は例えどんな不利な勝負を挑まれても逃げずに立ち向かうお方だと思っていたので。所詮は二番目、完全に此方の見込み違いでしたね」
淡々と、そして相手の機嫌を損ねる点を的確に突いてくるミカ。そして最後にフッと心底相手を馬鹿にした笑顔で締め括る。
それを受けた泪はおもむろに両肘を机に立て、握りこぶしに額を当てる。そして彼女もやれやれと言わんばかりに短く息を吐いてから。
「……全く、何故天使って奴らはこうも人をイラつかせるのが上手いんだろうねぇ。いいよ、その勝負受けて立とうじゃあないか」
「そうですか、私は大いに結構ですが……後悔しても知りませんよ?」
「僕は一番が好きだ……! ナンバーワンだっ!!! この勝負で誰が一番なのかはっきりと分からせてやるよ!」
シャー!っと狼少女の癖して猫みたいに威嚇をする泪。そんな彼女を見て姉譲りの不敵な笑みを浮かべるミカ。尚も自信満々な表情でメニュー表を眺めるアイニィ。閑静なレストラン内とは思えない熱量と殺気がボックス席に充満する。
これが明らかにまずい展開になってきたのは火を見るより明らか、嫌な予感レーダーを使わずとも容易に分かることだ。
だが俺が今もこうして姿勢を正して座ってることしか出来ない。隣のミカの瞳からは光が消え失せ、俺を殺そうとしてきた件の天使と同じ目をしているのでもう完全に止めることは不可能だと悟ったからだ。
「で、勝負って何やるの? 腕相撲? それとも早食いかしら? まぁ何を挑まれようとも私が百パーセント勝つに決まってるんだけど」
パラパラとメニュー表を捲りながらアイニィが言う。その問いにミカは頬に手を添えて少しばかり考えてから。
「そうですね、ではアイニィの意見を少し参考にさせて貰いましょうか」
「参考にするってことはやっぱり腕相撲かしら? いいわよ、アンタみたいな枝腕一瞬でへし折ってやるんだから!」
「いいえ、腕相撲ではありません。こっちです」
そう言ってミカは素早く正確にアイニィからメニュー表を掠め取り、漫画編集者が原稿を物凄い速さで読み漁るようにページを捲り吟味している。
そして。
「ああ、やはりありましたね…………。それでは泪さん、アイニィ。今回の勝負はこれにしましょうか」
ピタっと捲る手を止めて、皆にそのページを見せながらミカはそう宣言した。
写っているもの、それは写真を眺めただけでも汗が滴る程、赤く、禍々しいオーラを放っている。世間一般的に言われる『激辛料理』だった。