妊婦アスモデウスとキャシーちゃん人形
手を繋いだまま改札を抜けた俺達はそのままスムーズに電車へと乗り込み、横並びになっている席へと隣同士で腰を下ろす。電車が着た時の轟音や、ドアが開きいざ乗車する時など終始アタフタしていたミカはこれでようやく一段落が着いたとホッと一息つき、それが合図となってゆっくりと電車は進み始めた。
このまま小一時間程度電車に揺られれば今回の目的地である動物園に辿り着くことが出来る。
デートのド定番、王道中の王道、何故これ程までの不動の地位を築けるのかにはしっかりとした理由がある。端的に言ってしまえば、飽きが来ないということだ。
例えば、俺が初めてマスターに会ったときはかなり衝撃的だった。BARの店主が金髪幼女、しかも悪魔で性格最悪野郎だなんて思いもしなかったからだ。
しかし今となっては普通に挨拶も交わすし、なんなら軽いジョークを言って酷い目に遭うだなんて最早慣れてしまっている。
人間、ある程度の時間が経過してしまえば初めの衝撃は段々と鈍化していき、気がつけば日常の一部になってしまう。付き合いたてのカップルが急に別れる現象もこれで、日数を重ねるごとにお互いの存在に慣れてしまい、ときめく事が少なくなっていく=好きではなくなっているという変な図式に当てはめてしまい破局してしまうのだ。
その点、動物園では物珍しい様々な生き物を見ることができ、常に新鮮な感覚で眺めることが出来る。動物自体に少々飽きがくればお土産屋で買い物するもよし、ちょっとしたテーマパークがある動物園ならそこで遊べばいい。
問題があるとすれば天使は神と自分達以外の種族を下等生物だと見下しているところだが、俺が先程渡した動物園のパンフレットを真剣に眺めているミカに限ってそれはないだろう、初めて会ったときも猫追いかけてた挙句路上でぶっ倒れてたくらいだしな。
これで事前に考えていた問題は全て解消した。残りの移動時間は俺もパンフレットを見たり、ミカと談笑したりしながら平和に過ごしたい……のだが。
俺はなるべく視線を悟られないよう注意しながら前方の吊り革にぶら下がっている人物、いや、クソ悪魔を見つめる。そこに居るのは何時もの公然猥褻紛いの白レオタード姿ではなく、割烹着に身を包み黒髪ロングのカツラを被ったアスモデウスの姿があった。
くそっ! もうそろそろ邪魔が入ってくるころだって分かってたけど何なんだその格好は!? 昭和初期の母親か!? 後、背中に背負ってる金髪の赤ちゃん人形と丸い腹はどういうことだよ!?
「あらぁ、たかしちゃ……いいえ、たかしさん。お久しぶりですわねぇ」
俺の視線をすぐさま察知したのか、アスモデウスは普段のオカマ口調より少しだけ上品ぶって俺の名前を呼んだ。
「隣空いてるわよね? 座ってもいいかしらぁ?」
そう言うや否やドカっと我が物顔で俺の隣に座り込み、かいてもいない汗を拭う。おい、背負ってる赤ちゃん思い切り潰れてるんですけど、なんだったら首がひん曲がってこっち睨み付けてるんですけど。
「まさか電車内で会うなんて、本当に奇遇ですわね。ほら、キャシーちゃん? お父さんに挨拶しなさい」
アスモデウスは自らがシートとサンドイッチする形でぶっ潰した人形を引っこ抜き、俺の膝の上に置く。キャシーちゃんと呼ばれた人形は相変わらず首を九十度以上傾かせ、目玉をむき出しにしながら俺に笑いかけている。だから怖いんだってこの人形、絶対呪いかけてくるタイプの奴だろ、これ。
「全く、なに年甲斐も無くお人形遊びなんてしてるんですか? つか、俺お父さんじゃあないし、お父さん役ならガタイ的にあんたの方がお似合いでしょ」
「もう、たかしさんったら子供の前ではしたない事を言うもんじゃありませんわよぉ? それにしてもアナタ、本当はお母さんになりたいだなんて……御免なさいね、もっと早く気がついていれば夜の間だけでもお母さん役をヤらせてあげたのに……」
「夜限定とか意味ありげなニュアンスで言うの止めてください。ったくどの口で俺にはしたないとか言ってるんだか」
「勿論上の口に決まってるじゃなあい?」
「やかましいわっ!」
相変わらず身なりと同様おふざけの塊であるアスモデウスに嫌気が差してくる。あんな奴の子供とかキャシーちゃんも嫌だよな? うん、やっぱそうだよな。頷き過ぎて首の角度おかしくなってるし。
「……おほほっ懐かしいわぁ、こうして貴方に所構わずツッコミを入れられるのは。でも今はお互い別々のパートナーがいて、別々の道を進んでいるのだものね」
そう言ってアスモデウスは依然として動物園のパンフレットを真剣に見つめるミカにチラリと視線を移した後、センチメンタルな表情で異様に膨れ上がった腹を優しく摩った。
俺も膝の上に座るキャシーちゃんを見つめながら考える。このクソオカマが十中八九俺とミカのデートを邪魔しにきたのは明白だが何故こんなヘンテコな設定まで付け足してやってきたのかが分からない。
キャシーちゃんもはみ出た眼球でじっと俺のことを見つめ、笑顔を振りまいているだけで当然答えを教えてくれない。くそ! 親に向かってなんだその目は? 不安になるからマジで止めてくれよ。
「…………」
「…………」
俺がキャシーちゃんに見つめられているそのとき、それとは別に、複数の視線を受けていたことに気がつく。他の乗客達が俺達を下賎な眼差しで見ていた。
俺はこれでアスモデウスの狙いに気がついた。こいつは俺を殺そうとしているのだ。それも実際に命を奪うわけではなく、『社会的』に殺そうと企んでいやがる。
平穏無事、何事もなく無難で普通な人生を過ごしたい俺。そんな人生を送る上で重要なのが悪目立ちをしないことである。
世の中一定多数派存在する目立ちたがり屋のように、軽率愚直、短絡的な行動をしないのは必然だが例えばコンビニで悪態をつくおっさんや平日だというのに昼間からエロ本を買いにくる長髪眼鏡デブのように、常識から少しずれた存在として周囲から認知されないようにするのも必要なのだ。
このことを踏まえて今の俺の状況を客観視してみるとどうだろう? 不気味な呪い人形を膝の上に乗せている俺。両隣にはまじまじと食らい付くようにパンフレットを見つめる白髪幼女。そして意味不明、理解不可能という言葉がぴったりなオカマが親しげに話しかけている。こんなのははっきり言って異常だ。
この異常な現象は現場の目撃者から知人へと話し語り継がれ、尾ひれがどんどんと脚色されていき、俺はただ普通に生きているだけなのに見ず知らずの他人から変なあだ名を付けられ後ろ指を差される羽目になるだろう。これが奴の、もっと言えば俺がこうして考え、悩み、心底困り果てている姿を何処かでほくそ笑んでいるであろうマスターの狙いだ。
だが、残念ながら全部マスターのシナリオ通りに行くとは限らない。魂胆が分かった以上、それ相応の対策がある。
人間は考える葦で成長が出来る生き物だ。いつまでもアンタの手のひらで踊らされるだけではないことをここで教えてやるよ、マスター!
「ねぇ、実はお腹の中に入っている子、今の夫との子じゃないの」
金髪のキャシーちゃん人形にマスターの憎たらしい笑みを重ね腹を括った俺。そうとは知らずアスモデウスは尚も演技を続けてくる。
「この意味分かるわよね? この子はあたしと貴方の愛の結晶なのよ」
「…………」
「たかしさん、あたし達もう一度やり直せないかしら? こうして再会出来て思ったの。やっぱり貴方のことを愛してるって」
「………………」
「あたしの手を握って、一緒に帰らない? もう一度、あたし達のに・ち・じょ・うにね?」
「………………ミカ、悪いけど次の駅で降りるぞ」
俺は太股に乗っかってきたゴツゴツした手、ではなく華奢でおとしやかな小さな手を握り席を立つ。
「え? 急にどうなされたのですか? まだ出発したばかりなのに」
「ミカ、いいか? 人生ってのは目標に向かって真っ直ぐ進むよりも少し遠回りしたほうが色々経験になることが多いんだ。今日のデートでも動物だけじゃなくて色々人間界の事も知って欲しいし見て欲しい。俺はそう思ったんだよ」
「そ、そうですか。多田さんがそう仰るのなら私は構わないのですけど……」
当然ながら疑問を抱くミカに俺はそんなことを言って減速していく電車の扉まで着た。我ながらふざけた言い訳だが今はそれでいい。
「ちょっ! 待ちなさいたかしちゃん! 『元嫁と電車で再会~揺れるボテ腹に劣情~』はまだ導入部分じゃあない! たかしさん! たか――」
何とか言いくるめたミカの手を引き、俺達は電車を降りる。聞こえてきた不吉な断末魔は閉まる扉に遮られ、呪いの人形と淫乱悪魔を乗せた電車はそのまま過ぎ去って行った。
今回のように、変な輩に絡まれ悪目立ちしてしまった場合の対処法として最も効果的なのは一貫して無視を貫くことだ。変に反応して調子に乗らせず、無視を続けることで周囲からはちょっかいをかけられていると思わせることが出来る。
面倒事には関わらない。関わらさせない。関わりたくない。日常を平和に過ごすための三原則、そして常日頃から酔っ払い悪魔共に絡まれているからこそ、この対処法が思いつくのだ。
マスター、俺はアンタに弄ばれているだけじゃあないんだよ。
そんな捨て台詞を心の中で吐いた後、俺は勝ち誇ったように、何処かの誰かの真似をするように過ぎ去って行ったアスモデウスのことを鼻で笑ってやった。
× × ×
「…………はぁ」
翼を持たない人間共が移動の手段として作った下等な乗り物、電車内で私はため息をつきうな垂れている。
あのトンチンカンな格好をしていた時点でこうなることは薄々感じていたのだ。逆に何故あんなにも自信たっぷりだったのかを小一時間程問いただしたい。
暗殺に失敗した当の本人はというと閉ざされた扉の前に呆然と立ち尽くし、遠くの景色を眺めているだけだ。そしてガラスに映るその顔が我が子の成長を見守っている母親感が出ているのが余計に腹立たしい。
「ラグエルさん、もうあんな輩とは手を切りましょうよ。こんな奴らと一緒に行動しては殺せるにも殺せませんよ」
早速AVコンビに不信感が芽生えた私はそうラグエルさんに提言してみる。しかし、彼女もまた、Aの後姿をただ眺めているだけで私の言葉は耳に入っていないようだ。
「あの、ラグエルさん? 聞こえていますか?」
「――本当、馬鹿な人。今も、昔も」
「え? ラグエルさん?」
無表情の中に、何処か哀愁を漂わせながら彼女はそう呟いた。この車内には馬鹿な人物なぞAVコンビを除いて該当する人物は見当たらず、私はただ困惑するだけだ。
「ふん、多田君にしては上手く対処したな」
そんな中Vが先程のキャシーちゃん人形を手に持って話しかけてきた。
「上手く対処したって、軽くスルーされて終わっただけではありませんか!? 折角のチャンスを棒に振ってその言い草はないでしょ!?」
新たに生まれた困惑の件は一旦保留にしておき、暗殺の失敗について追求することにする。
「まぁ安心したまえ。今回は失敗に終わったが多田君には少しばかりの毒を盛れることが出来た、私達に対する恐怖心と疑心感だ……次こそは必ず仕留めてやるさ、こんな風にな」
そう言ってVは持っていたキャシーちゃんの頭と胴体を掴み、乱暴に引きちぎる。ブチブチと彼女が絶叫を上げて、鮮血代わりの綿が力なく地面に零れ落ちた。