巡るめく感情と盗撮
太陽の神は寝静まり、月の神が星々を飾り付けている頃、私は指定された通り会議室に来ている。
結局あの後ラグエルさんはそそくさと退出してしまったので大事な話の内容については聞きそびれたままなのだ。
そもそも私はラグエルさんに対してあまり良い印象を持っていない。
天使としての実力は確かに凄い。だが何せあの鉄のような無表情に申し訳程度のワンポイントとして添えてある右目の泣きほくろ、ベリーショートの銀髪に高身長と言ったとても女性とは思えない風貌、必要最低限の会話しかしない無愛想な口調。
そして何より回収した魂を管理する部署、通称『魂管所』と言う全く別の部署から突然異動してきたという謎の経歴がより一層謎を孕み、近寄りがたい空気を醸し出しているからだ。
夜に一人で会議室に居ること、密会だなんて天使らしくもない怪しい行為、そして何よりラグエルさんに会うとなれば流石の私でもほんの僅かながら緊張を覚える。
……ふぅ、いかんな。緊張というのは弱者が強者と出会った場合等に生じる、一種の恐怖のようなものだ。神の使いであり全ての生物の魂を管理する我々天使は生まれながらにして強者。そんなものは相応しくないのだ。
もっとも可憐で美しいミカ様の前なら緊張はする。いや、彼女のカナリアの囀りのような声に弾む心臓の鼓動、一挙一動に揺れる胸の高鳴りというのはもしや緊張なんかではないのかもしれない。
そう、これらに名称を付けるとするのならばそれはきっと――。
「――ウリエル、もう来てたの」
「ひゃっ!!!」
今はきっと眠りについているであろうミカ様に思いを馳せていると背後から無機質な声が私に話しかけてきた。
緊張も恐怖も相応しくない筈の私が思わず思春期の女の子が意中の男子に声をかけられた時のような反応をしてしまうと、お相手の男子もとい男女であるラグエルさんが能面のような表情を浮かべこちらをジーっと見ていた。
「こ、こんばんは。早速で悪いのですが『重要な話』というのはなんでしょうか?」
「……まずはこれを着て。話はそれから」
そう言ってラグエルさんは手に提げていた紙袋の一つを私に差し出してくる。これを着て、ということは中身は衣類だろうが何故着替えなくてはいけないのか、着替えが必要な話とは一体……。
「…………ラグエルさん、この服はなんですか?」
重要な話について色々推測を立てながら無意識に紙袋から取り出した服。それは無地の白いTシャツで胸の中心部にはデフォルメされたミカ様のイラストがプリントしてある。
「私が描いたの。かわいいでしょ?」
いつのまにか私が持っているシャツと同じ物を着用していたラグエルさんが少しばかり自慢げに胸を張る。どうやら彼女は着痩せをするタイプらしく、より強調された双丘がプリントされているミカ様の顔を歪めていた……ミカ様、おいたわしや。
心の中でミカ様に十字を切っていると、胸を支えるように腕を組み、こちらに視線を送るラグエルさん。その意味は恐らく早く服を着ろという事だと思うので私は色々な理由で痛い彼女に背を向けてシャツを着る。
「着心地はどう?……因みにその絵は私が描いたの。かわいい?」
「悪くはないですね……絵も素敵だと思います」
触れると話が脱線しそうだったので敢えてスルーしていたにも関わらず再度自分が描いたアピールを直球で投げかけてくるラグエルさん。ここらで褒めておかないと後々に影響を及ぼすと思い、無難な返事を返した。まぁ実際着心地も絵も中々悪くはない、今度から部屋着にでもしよう。
「そう、なら良かった……じゃあ貴方にはこれもあげる」
絵を褒められて満更ではなさそうなラグエルさんは気を良くしたのか別の紙袋を私に差し出してきた。
「この手の界隈では『神絵師』って呼ばれてるの。因みに中身はここで開けないで、絶対」
「はぁ、そうですか……」
私はそれを渋々受け取り先程までシャツが入っていた紙袋の中にそれをしまった。
絶対にこの場で開けるなと言うのはどういう意味なのだろうか、そして天使の身である彼女が気軽に神と称されるのは如何なものか等、感情を表に出さないラグエルさんの知られざる素性と言うものがポロポロと零れ落ちるように見え始めているが正直今はどうでもいい、関係のないことだ。
「服も着たことですし、そろそろ本題に移っても良い頃なのではないでしょうか?」
「そうね。この話は『ミカ様ガチ恋勢』にとって由々しき事態だもの。早急に手を打たないと……」
私が話を軌道修正させたのにも関わらずラグエルさんはまた新たな謎ワードを修正した道にパン屑でも零す感覚で口に出す。なんなんだその下界の下賎な趣味を持つ輩の愛称みたいな単語は。
「ちょっと席についてまずはこれを見て」
問い質したいことは山ほどあるのだが、話がようやく進んで着たのでここはグッと堪える。そして先に席についたラグエルさんの隣に座らせて頂くと彼女はまた新たな紙袋からノートパソコンを取り出し、起動させる。
色々聞きたいことがありすぎて見逃していたが何故毎回紙袋から取り出すのだろうか? 荷物が沢山あるのなら普通に鞄の方が便利なのではないでしょうかねぇ……。
全く持って何がしたいのか分からないラグエルさんは慣れた手付きでカーソルをなぞり『模写用』と名付けられたファイルの隣に存在する『仕事用』ファイルをクリックする。すると一瞬パスワード画面が表示されたような気がしたが横から物凄い速度でキーボードが打たれる音が聞こえ、画面は次に進んだ。
幾つもの紙袋で物を分けたり、仕事用なのにいちいちパスワードをつけていたりと用意周到なのかはたまた効率が悪いのか。それすらも謎だ。
『――明日のお洋服……やはり迷いますねぇ』
そんな謎の彼女のパソコンが次に映し出した映像に私の顎の筋肉が思わず緩みきりガクンと下に落ちた。
誰だってそうなるに決まっている。今映っているのは紛うことなきミカ様だったからだ。
「ちょっとラグエルさん!? これは一体なんですか!?」
緩みきった筋肉をなんとか持ち上げ彼女に聞いてみると数少ない女性らしさがある唇にそっと人差し指を縦に当てるジェスチャーをしてくる。そして徐に取り出したイヤホンを接続し、片耳を渡してきた。
斜め上からの角度で映し出されているミカ様は全身鏡の前で何やら衣装を合わせているご様子だ。
これがリアルタイムなのかは分からないが角度的に間違いなく盗撮だ。許せん……! 天使ともあろう存在が卑劣極まりない行為を、更には寄りにもよって麗しいマイエンジェルであるミカ様だなんて断じて許せん!
これはしっかりと反抗の一部始終を見ておかなくてはと思い、私は渡されたイヤホンの片耳を装着し、画面を凝視することにした。
『いつも通りの格好に上着を羽織って……でもここは奇をてらってラグエルから貰ったお洋服でも着てみようかしら?』
『完璧』と言う言葉がこの世で最も似合う存在であるミカ様が覚束ない手付きで衣装がかかっているハンガーを首にあてがえ悩んでいる姿。はっきり言おう、最高だ。
そして何よりその服! 白のゆるふわトップスに茶色のワイドパンツ……この洒落ている感じ、と言うよりはちょっとお増せな女の子が頑張って選びました感が愛くるしさを増長させる。
隣に座り、映像を黙々と眺めているラグエルさんをチラリと横目で見てみると相変わらずその顔に表情は無いがおもむろにグットサインを送ってきた。
これが彼女の狙いだとするのならば中々のやり手であると認めざるを得ない。
その後も静寂に包まれた夜の会議室で私達二人は何も語らず画面を眺め続けた。
ラグエルさんの衣装の小物である黒縁の伊達眼鏡を装着し、丁番に中指を当てクイッと上げてポーズを決めるミカ様、可愛い。
しかし、眼鏡はイマイチお気に召さなかったようで外した後にションボリと肩を落とし、ため息をついてから唇をいじけた様に尖らせるミカ様、愛おしい。
結局振り出しに戻り、またも着物と用意された衣装を交互に首に当てた後、柔らか頬っぺたに手を添えて困り果てた表情をしているミカ様、愛くるしい。
「ラグエルさん、あの、重要な話ってこれの事なんですか? 私はてっきり暗い案件だとばかり……ん?」
この胸に迸る熱い気持ちを紛らわせようと彼女に話しかけてみたが、当の彼女は堪え切れなかったのか一筋の赤い鮮血が鼻から垂れ落ちていた。
「大丈夫。もう直ぐ収まるから」
そう言ってラグエルさんは大きな音を立てて鼻を啜った。折角の自作Tシャツが汚れてしまっているだとかまた鼻から垂れてきているとか色々大丈夫ではなさそうなんですが……。
「ウリエル、画面を見てて。ここからが本題だから」
心配してティッシュを準備した私に依然鼻血を垂らしているラグエルさんがそう言ってくる。本題ってこの流れからするとひょっとして生着替えとかではないだろうな? 全く持ってけしからん! しっかりと吟味しこの鼻血天使に対する処罰を決めなくては……!
部下二人に暖かく見守られながら服を選ぶミカ様。するとようやく決まったようでウンウンと頷いた後ラグエルさんが送った服を綺麗に畳んでクローゼットにしまい込んだ。
『やはり普段着慣れているこっちにしましょう……『普段』とか『無難』とか、あの人は好きそうだもの』
「…………あの人?」
先程まで胸に灯っていた熱い気持ちが急速に冷えていき、残った残骸が疑問符を作り出す。下界への用事とは誰かに会いに行く事なのか? 一体誰だ? 下界なんかにミカ様と謁見出来る輩など存在しない筈では?
様々な疑問符が頭の中に浮かび上がり、困惑してしまう。そんな事を知らない画面越しのミカ様は着物の方もしまってから布団と枕、そして一枚の紙切れであろう物を準備し始める。
そして。
『――おやすみなさい、多田さん。明日のデート、楽しみにしてますね』
そっと、紙切れに唇を重ねた後、恥ずかしさから顔を布団で隠し、足をバタバタと動かしている所でプツリと映像は終わった。
「……ぁ、ああッ! あああああああああッ!!!!!!」
映像が終わったと同時に私は狂ったように声を荒げた。これはミカ様が可愛すぎて頭がおかしくなったのでは無い。多田、と言う苗字に激しい憎悪が芽生えたからだ。
「多田……! 多田 崇……! 多田 崇だとぉおおお!!!!!」
許せん。こいつだけは絶対に許すことが出来ん!
悪魔と交流しているゴミカス人間! 私達が経営していたBARに紛れ情報を盗んでいた溝鼠! そしてミカ様を下界から追放した張本人!
何故!? どうしてミカ様はそんなクソ人間の名を呟く!? そしてあろうことかキ、キキキ、キスなんて真似をするんだ!?
「……落ち着いて」
「これが落ち着いていられますかっ!? 殺す! あいつだけは絶対に殺す!」
ラグエルさんが私の肩に手を添えてきたがそれを払いのけ、会議室から出ようとする。今から下界に降り、あいつの寝首を刈り取るのだ。その首は見せしめとしてクソ悪魔共が経営している店の前に飾り、あいつらを恐怖の渦に叩き落してやる!
「――ウリエル、落ち着いて」
しかし、怒りに身を任せていた私の身体は動きを止める。いや、止まらざるを得なかった。感情を込めない彼女の言葉は酷く冷たく、私の怒りを完全に凍死させたのだ。
「逆上して短絡的に行動しては失敗するだけ……だから、今は落ち着いて冷静になって」
会議室の扉を目の前にして動けない私にラグエルさんはそう言う。そして夕方の時と同様段々と私に向かって近づいてくるのだ。一つ違う点を上げるのなら私が振り向くことも出来ず、背後から迫ってきているという事。
コツコツと地面を踏む音が近づく度に大きくなっていき、私の心臓の鼓動もそれに比例し、飛び出てしまうのではないかという程、大きくバウンドを繰り返す。
そして、足音がピタっと止んだ瞬間、私の肩に彼女の片腕が回された。心臓が止まったような錯覚さえ覚え、喉元で息が詰まる。
「――明日、二人で下界に行くから……ミカ様に取り付く害虫を一緒に始末するの」
そう囁いた後、ポンと私の背中を叩いて彼女は会議室を去っていく。開放された私は膝に手を置き、短い呼吸を繰り返した。
今夜だけでも色々な感情が私の中で渦巻き、ころころと姿を変えていた。緊張、疑心、興奮、憤怒……そして最後に残ったのは明確な決意と殺意だけだ。
大きな二つの感情を胸に刻み、ミカ様プリントTシャツで滴る汗を拭ってからそっと扉を開け今日の会議に静かにピリオドを添えた。
――ミカ様の為に、彼女の笑顔を守り続ける為に、あいつだけは何が起きようとも絶対に殺す!