蜘蛛の糸に思いを乗せて
「…………エリゴスさん」
恐怖で支配された俺の口からは目の前に立っている畏怖すべき真の強者の名前が零れた。そんなエリゴスさんは胸ポケットから煙草を取り出し、手際よくマッチを擦り火を点けてから。
「流石はあのベリルとアイニィお嬢様に気に入られているだけある。今回の騒動は私達職員にとっても良い訓練になったよ」
何処か楽しそうに言ってから彼女は煙を吐いた。ゆらゆらと空へ吸い込まれていく煙は段々と薄くなり、消える。そんな日常に有り触れている風景の一部を遠い目で眺めてエリゴスさんはもう一度煙を空に浮かべた。
「しかしだな此処には此処の規則がある。ルールと言うのは何も個人の自由を拘束するものではなく君達を守る為にあるんだ。破る者が一人でもいれば関係の無い他の者まで巻き込んでしまう。多田君ならこの話が分かるだろ?」
エリゴスさんの口から放たれた説教、それも紫煙となって俺の耳に侵入してくる。中耳から血管を伝い脳みそまで到達すると煙は小さな石ころサイズに凝固しドンドンと体積していく。
確かに彼女の言うとおりだ。ルールというのは本来そう言う物なのだ。牢屋にぶち込まれ身動きを制限されるのではなく、公園の敷地内でなら好きに遊んでいい。そんな意味合いを持っている言葉だったのだ。
そして俺はルールを破った。監獄のようなこの施設からの脱出劇なんて『非日常的』な事に興奮を覚え、本当なら止める立場だったのにも関わらず泪の訴えや考え方なんかに感情が流されてしまった。俺はまた一番やってはいけない過ちを犯したのだ。
俺の中に後僅かだけ残っていた熱量、希望、感情なんかが飲みかけで放置された炭酸飲料のようにブツブツと慢性的に身体から抜けていくのを感じる。そんな様子をエリゴスさんは涼しげに、そして冷ややかに見つめている。
「さて、ルールを破った者には当然然るべき罰を与えなくてはいけない。特に首謀者となればケジメとしてそれ相応の物をな……先に捕まえたワルガキ共の証言によると君達どちらかが主犯らしいな」
首謀者、主犯そして然るべき罰と言う言葉に繋がれていた泪の小さな手にキュっと力がこもる。
この一連の騒動を巻き起こしたのは俺の背中越しで強気な口調とは裏腹に内心恐怖で震えている泪なのだ。複数人が罪に問われた際、犯行を企てた者に一番の罰が与えられる。そんな事は少なくとも日本社会で生きている俺にとって当たり前のことだ。
「ここまで脅した後で言っても信じて貰えんが私は君達のような勇敢さ……いや、後先のことは考えない無鉄砲で馬鹿な連中は好きだよ。ただ、何度も言うようにルールを破った者を罰するのも私の仕事でね、どうだろう? 今この場で正直に申し出れば罰を軽くすることだって出来る」
エリゴスさんはそう言いながら俺と泪の周りをゆっくりと、煙草を味わいながら回る。こうやって心の弱った者に言葉と行動で更にプレッシャーをかけると同時に刑が軽くなると言う一つの飴玉をチラつかせながら俺達がボロが出るのを観察しているのだ。
生憎後ろの泪は恐怖でボロが出るどころではなかったのだろう。エリゴスさんは特段何もアクションを起こすことなく彼女を通り過ぎていった。俺は表情で悟られないよう顔を俯かせながら細心の注意を払ってエリゴスさんの動向を窺っていた。
無言の尋問が終わり、エリゴスさんはもう一度俺の前に戻ってきた。どうやら主犯がどちらかは見抜けなかったらしく小さく舌打ちをした後、咥えた煙草を地面に吐き捨て、踏みにじって火種を消す。
そして再び胸ポケットから煙草の箱を取り出し、器用に咥えながら煙草を出して火を点ける。
「早く白状をしたらどうだ? 処罰を軽くするのは今だけだぞ? ほら、早く言ってみろッ」
「――俺がやりました」
俺の一声にそれまで規律を重んじて黙りこくっていた職員達がざわつき始め、紫煙がそれで靡く。
「崇っ!? 何を言っているんだい!?君は――」
「俺がッ! この騒動を起こしました。全ての責任は俺にあります」
泪が余計な事を口走らないよう口調を強めて言った。
確かに主犯は泪だ。彼女がこの計画を企て実行した。この事実はどんなことがあっても揺るがない、しかしそれよりも問題なのは事実ではなくその過程だ。
何故俺はあの時彼女を止めなかったんだ。幾ら脱走が突然始まり、キュピ男が激昂していたとはいえ引き止めようと思えば可能だった筈だ。
その時だけではない。ビリーが倒れて動けなくなったとき、身を挺して俺達を逃がしてくれたとき、体育館裏で教官に見つかったとき。探せばキリが無いほどこの計画を止める事が出来るタイミングがあったのにそれが出来なかったのは先程も思った泪の訴えや考え方なんかに感情が流されてしまったからだ。
彼女より人間的に大人であるべき俺が未然に防ぐ事が出来たのに止められなかった。止めなかった。だから、俺が悪いのだ。
泪の様な年頃の時期というのはまだ人生経験が浅く、失敗や挫折と言った経験が少ない。その為自分には何でも出来ると言う根拠の無い自信を持ち、確約されていないのに将来理想の自分像を文字通り夢みてしまう。
しかし歳を重ねていくごとにそれが変わっていき、手元に転がっていた筈の夢はどんどん遠くへと転がっていく。拾おうと思っても周囲の人間が危険だ、止めた方がいいと諭し代わりとして粗末で不出来な物を渡してくる。そんな物では満足出来ないが周囲の目を気にして中々拾いに行けないでいれば後ろから圧倒的な速さで別の者に追い抜かれ、遅れをとり慌てて行けば最後、躓いて挫ける。折れた膝では立ち上がることが出来ず、自分の物の筈である夢を追い抜かれた誰かが喜んで手に取っている様を見ながらその粗末な物で慰めるしか出来なくなるのだ。
中学の時、プロ野球選手になりたいだなんて思ってた俺は馬鹿だったな。と以前大学の飲み会で茶髪の格好つけた髪形をした奴が笑いのネタとしてそんなことを言っていた記憶があるが俺は泪にはそんな奴になって欲しくない。今の気持ちを忘れて欲しくない。『普通の人生を過ごす』という目標がある俺だからこそ困難でも可能性が低くても立ち向かう彼女を支え成功に導き、どんな目標でも考えて行動すれば達成出来る事を証明したかった……だから止めなかったのかもしれない。
「多田君、いいんだな? 君が主犯で本当にいいんだな?」
二本目を吸い終えたエリゴスさんがしっかりと俺と目を向き合ってそう言ってくる。恐らく先程あった俺と泪であった一瞬の会話で主犯は俺ではないことはバレているだろう。つまりこの問いの訳は君は泪を庇い罪を背負って本当にいいんだな? と言うことだ。
俺の心はもうそれで決まっていたので黙って首を縦に振る。その様をエリゴスさんは何とも言えない神妙な顔で見据えてから、手を腰に回し人間の自由を奪う黒い二つの輪、手錠を取り出した。
「待って! 違うんだ! これを考えたのは全部僕――ふぐっ!?」
後ろで泪が訴えを叫び、危うくバレるところだったが職員の一人ががっちりと彼女の身体と口を押さえつけたようだ。俺の手からは彼女の感触が遠ざかり篭った叫び声だけが聞こえてくる。
今俺が行なっている行為は善意からなのだろうか、はたまた自暴自棄なんて言うマイナス的な心境からなる行動なのだろうか。
いいや、そんな小難しい考えからではない…………上手く言い表せないがきっとこれが正解だ。例え様がなくどうしようもない、中学生なんかよりもっと精神年齢が低い悪ガキが起こす突拍子の無い事、それが一番近い。
「多田君、腕を出せ。特別に私自ら懲罰房までエスコートしてやろう」
エリゴスさんの言う通りに俺は腕を伸ばし、オレンジ色の囚人服の袖を捲くる。
これで本当に詰み、投了、終わり。俺の視界にはこの施設に来てから幾度となく見てきた真っ暗な空間が広がっていく。
「…………エスコートですか。人生の最期にこんな美人と一緒に歩けるだなんて俺はとんだ幸せ者ですね」
手錠をかけられる瞬間、俺はそんな皮肉を真っ暗な空間に吐き掛けてやった。無意味なことだとは百も承知だが最期にいじらしく、悪ガキらしいことがしたかったのだ。
そして。
「――今何て言ったんだ?」
ピタっと時間が静止されたように手錠をかける手が止まり、エリゴスさんはそんなことを聞き返してくる。
「えっと、俺はとんだ幸せ者だって言ったんですけど……」
何故、特に意味の無い言葉を聞き返されたのかは分からないが一応答えてみる。
「違う、その前だよ。何かもっと素敵な事を言っていただろう?」
「その前って言われても、こんな美人と一緒に歩けるだなんて、としか言ってないですよ?」
俺がそう繰り返すと少し恥ずかしそうだがそれでも満更ではない表情を浮かべているエリゴスさん。持っている手錠の鎖がジャラリと音を立てて緩んだ。そんな彼女の様子を見たとき、言葉を吐き捨てた真っ暗な空間のある一点から僅かな、それこそ蜘蛛の糸のように微かながらも掴んでしまえば人生を一発逆転出来る様な光りが差し込んできた。
「……凄いですよね、エリゴスさんって。これだけの規模を持っている団体のトップに立てるカリスマ性があって、こんな大胆な作戦を考えられる程聡明な方でその上行動力もある。そして――」
俺はここで敢えて言葉を切ることで相手側に緊張感を持たせる。この作戦が上手くいったようでエリゴスさんは俺が次に何を言うか、いや、期待している言葉を言われるのかを固唾を飲んで待っている。
「――そして、何もよりも美しい。艶やかな長い髪も、煌く瞳も、長身細身のスタイルもッ! 全部、全部綺麗なんです! 生きてきた中でこんなに素敵な人、俺見たことなかったですよ」
相手に伝わり易い褒め言葉を選び、抑揚をつけて、そして俺が普通の人生を過ごすべく身につけた営業スマイルを浮かべて俺はエリゴスさんを褒めちぎる。
「くっ! くぅ……!」
エリゴスさんは恥じらいの紅潮を浮かべて唇を噛み悶絶する。俺はそんな愛くるしい表情を浮かべている彼女にそこら辺の好青年俳優が浮かべるような優しい笑みを作り、見守る。最後にその笑みのトーンを段々と自然に暗くしていくよう努めて。
「そんな貴方に出会うことが出来て俺は本当に良かったし、手錠だって貴方に付けて貰えるのも嬉しいんですよ。だって――」
ここで俺は再度言葉を切る。理由は先程と同じだ。違う場所をあげるのならエリゴスさんが琥珀色の瞳と鼻の穴をまん丸に広げて息を荒げ俺の言葉を待っていることだけ。
ここまで口車に乗るなんて思わなかったがエリゴスさん、もとい、エリゴスちゃんは本当に心底チョロい奴だったのだ。そのことが可笑しくて下衆な笑いが起きそうだがそれを堪え儚げで繊細な好青年らしい笑みを作ってから。
「――エリゴスさんから初めて贈り物を貰うんですから、立場が逆ですけど、その……『結婚指輪』、見たいな?」
「け、けけけッ!!! け、結婚ッ! 指輪ッ!!! あわわわわッ!!!」
俺が照れくさそうに頬を掻きながら言ったその台詞は効果抜群、エリゴスさんは口をパクパクしながら力なくその場に崩れ落ち、持っていた手錠もカシャリと音を立てて地面にへこたれる。それが俺の、このクソったれ施設からの脱出を告げる正真正銘最後の合図と鳴り、俺はエリゴスさんを通り過ぎて、彼女が歩いてきた道を走り抜ける。
「泪っ! お前も来いっ!!!」
走り抜けた後で俺は後ろを振り返り人生で一番の大声を出し、彼女の名前を叫んだ。泪は口を塞がれて喋られない代わりに職員の手を狼少女らしい鋭利な歯で噛み付く。職員の絶叫が返事となり、彼女は一目散に此方へと走ってきた。
俺は手を広げ、受け止めるつもりで彼女を待つ、だが一心不乱に猛突してくる泪を止めることは出来ず、背中から思い切り地面に落ちた。
「全く君って奴は本当に悪魔的な奴だねッ」
地面に落ちた俺の上に跨っている泪が息を切らしながらそんなことを言って来る。
「俺は悪魔じゃないから。お前らと一緒にするなよ」
「いいや、ここで言う悪魔的な奴ってのはだね、クールで格好良くて……とにかく最高な奴っと言った意味だよ、ふふっ」
短く切らした息と興奮気味に話すものだから鼻に息がかかって鬱陶しい。しかし、これが勝利の余韻という奴なのだろうか、これはこれでいいと感じている俺が居るのだ。
この感覚にもう少し浸っていたい所だがそうはいかない。呆気に取られその場で立ち往生していた職員達が大慌てで此方に向かってきている。今度こそ人間界へ帰るため泪と契約の口付けをしなければ。
「泪、準備はいいか?……帰ろう、俺達の日常に」
今度は演技などはせず、真っ直ぐ真剣に直ぐ近くにある彼女の顔を見据えて言う。
「……君は最後まで本当に格好良いなぁ、ふふっ」
そう言って泪は俺の首元に腕を絡ませ、唇に烙印を落とした。密着したことにより全身に彼女の体温が伝わり、二つの心臓の音は混ざり合い一つになる。彼女がうっとりと目を閉じていたので、俺も同じように瞼を閉じる。そうすることでより一層彼女の事を全身で感じ取れるようになり、本当に一つになった気分だ。
そのまま目を閉じていると段々と意識が薄くなっていく。これは俺の身体が人間界へと転送されているからか、これまでの疲労と彼女の温もりが眠気を誘っているのかは分からないが俺は逆らわず、意識の波に身を任せることにした。
――次に目を覚ませば何時もの日常に、BAR『DEVIL』に帰れるのだから。
「――確保ッ! 直ちに確保しろぉおおおおおお!!!!!」
しかし、俺を起こしてくれたのは泪でもマスターでもなく、教官の怒鳴り散らした声だ。
慌てて目を開けた瞬間にはもう遅かった。くっ付いていた泪はいとも簡単に引き剥がされ、あお向けになっている俺も複数人によって上体を起こされ、あっという間に身柄を拘束されてしまったのだ。
「おい! どうなってんだ!? なんで? どうして帰ってないんだよっ!!!」
「…………あっれー? おかしいなぁ? この方法なら大丈夫だと思ったんだけどなぁ」
俺の正面で拘束されている泪に大声で文句を言ったのだが彼女は俺から顔を逸らし、明後日の方向を向きながらそんな事を言いやがる。
「くっそっ! ふざけんなこのクソガキーっ!!!!!」
一発ぶん殴ってやろうとしたが職員達によって身体を押さえ込まれている為、代わりに俺はそう叫ぶことしか出来なかった。
そんな俺を職員達は隊列を組みそれぞれの肩に担いで移動を始める。夜空には幾つ物希望の光が点滅している。その光が頬から零れ落ちた涙の軌道をキラキラと輝かせ、一筋の光の道を作った。