希望のバトン
俺達三人は壁に出来た大きな穴を抜けて外に飛び出す。その瞬間穴の内部からは眩い緑色の光が膨張し爆発。瓦礫やら基礎工事の骨組みやらが降り注ぐように飛んでくる。それら飛んでくる物体、未だに怒りが収まらなず破壊を続けるキュピ男に追いつかれないよう、ただ必死で走った。
人間、命の危機的状況に置かれたとき本来秘められている能力の百パーセントが発揮され今の俺のように走り続けられたり、通常では不可能な距離のジャンプやとても持てやしない物でも持ち上げることができるらしい。
このことを通称火事場の馬鹿力と言うらしいが学生の時、徒競走、ミニマラソンやシャトルランで全て平均値だった俺がこうして今逃げ切れているのもそれのお陰だと思う。
そしてそれらの事を踏まえて逆説的に考えれば、人間誰だってやろうと思えば大抵のことは出来るのではないだろうか? 諦めや失望という言葉の壁に遮られているだけで後一歩先にある成功の光が掴めないだけなのではないだろうか?
そんな普段では考えられないつくづく俺らしくない思いが浮かんでくる。その思いがまた俺の足を動かす原動力になっているのも可笑しくてつい笑ってしまった。
そうだ、思い出してみれば俺達は昨日基礎体力訓練で滅茶苦茶に走ったり筋トレをしたりで身体を苛め抜いたばかりなのだ。それなのに泪もビリーも俺もこれだけ走ることが出来ているのは俺の考えが正しいと証明される確たる証拠なんじゃあないだろうか?
「…………あ?」
しかし、どうやら俺の浅はかな考えは希望論だったに過ぎず。振り返って見れば泪とビリーは俺より少し離れた距離にいた。まだ完全に足が止まってる訳ではないが何か少しのきっかけでもあれば直ぐに動けなくなるような険しい顔をしている。
希望論だと気がついてしまった俺の足がつま先から一気に石化していくようにドンドンと重くなっていき、足を前に出す所か膝を曲げるのも精一杯になってきた。
段々と錆び掛けたブリキの玩具のように動きが鈍くなっていき、それに伴って先程まで満ち溢れていたやる気や自身さえも熱を失っていく。そして遂に、いや必然的に身体と気持ちの限界に達した俺は足が止まってしまい、両膝に手をついて立ち止まることしか出来なくなった。
「た、崇……! 駄目だ! 止まっちゃあ駄目だ……あっ」
今にも死にそうな程顔を青ざめて辛そうな表情の泪が俺に発破をかけてくれたが彼女も俺に気をとられた所為か、体力の限界だったのかは分からないが何もない平坦な場所で足を挫き、顔面から乾いて硬い地面に倒れてしまった。そんな俺と泪を見て躊躇してしまったビリーもまた、足を止めてしまった。
――キュピッキュピッキュピッキュピッキュピッキュピッ
自分の肺がぶち壊れそうな程荒々しい呼吸音に混ざって悪魔の足音が耳に入ってくる。もう顔を上げてそいつの姿を見たり、改めてタイミングを見計らい逃げよう等と言う気力は俺にはない。ただここで無様に顔を伏せて緑色の閃光に包まれるのを待つことしか出来ないのだ。
「…………ここがお前達の死に場所だぁっ!」
姿を見ることが出来ないキュピ男の声が死の宣告をし、俺達を粉微塵にする凶弾が生成される音が聞こえてくる。どうやら俺はここで終わりのようだ。
火事場の馬鹿力だの、人間やろうと思えば大抵のことは出来るだのと数分前の俺はよくそんな馬鹿げた事を考えていた物だ。
人間には能力の限界があり、幾ら頑張った所で結局限界以上の事は出来ない。変に希望を持って努力するだなんてのは人生の無駄でそれをどれだけ省き、よりストレスフリーな生活を送るというのが本来の俺の考え方の筈だった。
それなのに泪と言う人生経験が少ないお子様でクソ馬鹿に感化され、変にやる気になったり無駄な希望なんかを持ってしまったが故にこの始末だ。
以前、まだミカと出会って間もない頃。俺は彼女が経営していたBAR『HEAVEN』に潜入し天使に殺されかけたことを思い出した。あの時はミカが助けてくれたが今この状況下では助けてくれる奴なんか一人もいない。つまり正真正銘俺の人生は詰んだのだ。
俺は全ての事柄を諦めて、ゆっくりと瞼を閉じた。ミカの時には走馬灯なるものが瞼の裏に流れていたが精根尽き果てたのか、そんな物は一切流れて来ない。映っている景色は三度真っ暗な闇だけだ。
――俺はただ普通の人生を過ごしたかっただけなのに、本当に俺はつくづく…………。
「うわああああああああっ!!!!!」
そんな時、耳に飛び入ってきたのは俺を消し去る爆音でも爆風でもなく裏返っており、とても雄叫びとは形容出来ない何とも頼りのない大声だ。
その声に反応して閉じていた瞼は開かれ、伏せられていた顔が上がった。真っ暗な闇から開放された瞳が最初に映し出した光景は一人の金髪ヒョロガキが筋骨隆々の化け物に飛び掛って行く瞬間だった。
「んんんんんっ!! 金髪ぅぅうううううっ!!!」
キュピ男が飛び掛り身体にしがみ付くビリーを振りほどこうとするも彼は離れない。いや、今にも振り落とされそうな所を必死で、懸命に喰らいついているのだ。
「崇っ! 今がチャンスだっ! 俺がこいつを抑えているうちに早く相棒を連れて逃げろっ!!!」
ビリーが尚もしがみ付きながらそう叫ぶ。しかし、依然として俺は動くことが出来ない。疲労もそうだが彼の行動と言葉の真意が俺の足を躊躇させていたのだ。
俺が抑えているうちに逃げろ、それはつまり……。
「ぎゃっ」
キュピ男が丸太並みに野太い腕で引っ付くビリーを引き剥がす。そして彼は短い悲鳴をあげながら戸惑い動けない俺の方まで飛んできた。
「おい! 大丈夫か!?」
俺は足元で倒れこんでいるビリーに対して手を差し伸べる。しかし彼はその手を払いのけ、鼻で笑い俺の事を侮蔑する。それは初めて顔を合わせた時の様な小生意気な態度だった。
「ケっ俺の事心配してる場合じゃあねぇだろうがよぉ……ビビッて禄に動けねぇ野郎はさっさと尻尾巻いて何処かへ行けって言ってるじゃねぇか」
「でもお前、それってつまり……」
「いいから! もういいから早く逃げろって!!!」
俺の言葉を遮るように、ビリーが声を荒げて立ち上がる。
俺達三人の目標はこのクソ施設からの脱走でキュピ男から逃げ切ることはあくまでその過程でしかない。しかし俺達は過程の中文字通り躓き、今絶対絶命のピンチに陥っている。
そんな中活路を見出すには、俺達が再び希望に向かって走るにはキュピ男の隙をついて逃げる事しかない。だがそれも不可能。隙をついて逃げる作戦は既に外へ逃げる際に使った。奴が二度も同じ手を喰らうとは到底思えない。確実に仕留めるため用心深くなっている筈だ。そして俺達三人にはもう一瞬の隙をつける程の瞬発的に動ける体力が残っていないのだ。
だからビリーはキュピ男にしがみ付くことによって奴の足止めすることを思いつき、行動に移した。これなら僅かでも動きを封じることが出来るし、気力を振り絞って逃げることも可能だ。
しかしこの作戦を行なう、つまり足止めをすると言う事はビリーは奴と一緒にここに残るということだ。残ったビリーにはどうやっても逃げる術はない。俺達三人揃って脱走という目標が絶たれてしまう。
残された彼がその先どうなるかは分からない。職員に捕まり再びあの地獄の様な訓練を永遠とやらされるのかも知れない。いや、激昂しているキュピ男に痛めつけられ重症、最悪の場合は……。
それもビリーは覚悟の上だ。だから俺の言葉を遮ったのだ。それが本当に早く俺達二人を逃がす為なのか、自分の身にこれから起こるであろう惨劇を聞きたくなかっただけなのかは分からないが恐らく両方、いや後者の気持ちが上回っているに違いない。
だがしかし、それでもビリーは決心した。臆病で小心者のお漏らしビリーが腹を括ったのだ。
「……俺はどうしようもねぇ不良で屑だからよぉ地元じゃ爺ちゃん以外誰も相手にしてくれなかった。学校の奴らも親父もお袋も……。だからこんなクソの掃き溜めみたいな場所に連れてこられたんだ。お払い箱って奴さ」
「でもよぉ、こんな場所でお前と相棒に会うことが出来たんだよぉ……。こんな屑の俺に仲良くしてくれて、自分が死ぬって時に助けてくれてよぉ……。掃き溜めの中で見つけたんだ、本当の仲間ってやつをなぁ。」
恐怖から歯をガタガタと震わしながらビリーは語る。よく見れば足も竦んでおりその足元には涙の雫が落ち染みになっている。
……今ならまだビリーを止めることが出来る。幸いキュピ男はこちらを静観しているだけ。ビリーの決死の行動が奴を更に用心深くしているのだ。絶妙なタイミングを見計らい、どうにか泪を担いで逃げることだって今だけなら可能。
俺はビリーに考え直させる為腕を伸ばし、彼の肩を掴もうとする。早まるんじゃねぇぞ……っ! まだ三人で逃げ切れるんだっ! だからっ!
「……外に出たらよぉ、また俺ら三人で組もうな。約束だぜ」
刹那、後寸での所で掴める筈だったビリーの肩はそこにはなく、俺の手は空を切った。
俺達に希望のバトンを託し、後戻りできない道をビリーは走り出してしまったのだ。
「おいビリー! 待てよ! おい!」
彼の名を必死で叫ぶも振り返ることはない。俺の声は戦う男の全身全霊の雄叫びによって掻き消されていた。
「くそっ! くそっ! ちくしょおっ!!!」
俺は最後の気力を振り絞り、泪の元へ走る。うつ伏せになって倒れている彼女は呼吸が激しく立つことも困難な状態だ。
「泪、いいか? ここからは俺がお前を背負って脱出する。お前は最後全力で俺の背中に掴まれ」
「でも、でもビリーが…………きゃっ!」
自分が危機的状態の中でもビリーの心配をする泪。そんな彼女に苛立ちを覚えるも今は説教や怒鳴り散らしている時間も惜しく、俺は彼女を背負うのではなく抱き抱えることにした。
「……いいか泪、俺達は絶対に脱出しなきゃいけないんだ。俺達の明日の為に。そして、ビリーの為にもな」
俺がそう言うと、泪は顔をこちらに向けはしないが首を縦に振る。それを同意だと受け取り、三度脱出レースに参加する。
希望のバトンを託された限り、走らなくてはいけない。何があっても、何かを失ってもゴールテープを切るまで俺は走り続けなくてはいけないのだ。