『後期初日』 その1
九月某日。
後期初日。大体五百から六百ぐらいの人数が座れる広々とした教室にて、後期のカリキュラムの説明的な講義が行われている。それはそれはいつも通りの感じなのだが……。
チラッと後ろを確認する。いつも通り皆講義を怠そうに聞いている。半分はスマホを見て、半分は居眠りかな。真面目に聞いているのはごく少数。ここまではいいのだが。
「どうしたの?」
隣にいる小百合さんが心配そうに伺う。
「いや。特に何にもないかな」
「そう?」
それでも心配そうにチラチラと僕を気にしてくれている。優しい人だ。小百合さんと隣同士で幸せな気持ち。なのだが。
今日は朝から妙な視線を感じている。いったい誰だろう?
「誰かに見られている?」
小百合さんの口から放たれた言葉に、講義を無視して彼女の顔を凝視する。もう一度後ろを向こうとする気持ちを一度押さえて、ほんの少し体を小百合さんに寄せて小声で話しかける。
「わかるの?」
「何となく。私も君の隣に座った時から感じていた」
「そうなんだ。後ろだよね」
「たぶん」
二人揃って、もう一度後ろに振りかえる。さっき見た時と同じ光景。怪しい人物は特に見当たらない。再び前に向き直ると、彼女との距離が微妙に近くになっていることに気がついた。僕は顔を赤くなるのを隠すように少しだけ横にずれた。
小百合さんは再び僕に向き直る。ほんの少しのラベンダーの香りが鼻をくすぐった。
「もしかして。ファンができたんじゃないのかな」
「ファン?」
まさか。そんな簡単にできるものだろうか。
「あの。キャンパスで突然やったやつで」
「そうそう」
確かにゲリラ演技でかなりの観客がいたからあり得ないことは無いが、亀山田君は僕の事覚えていなかったし。他の先輩ならあり得そうだけど、僕に限っては無いと思う。
「でもあの時、僕はそんなに出来は良くなかったけど」
「そうかな。あんまりそんな印象はなかったけど」
人差し指を顎にのせて口を閉じてフムと思い出すように考える彼女。
そういうものなのか。演者と観客では印象は変わるのかもしれない。でも自分を贔屓目に言っても先輩たちの演技がやっぱり上手だ。自分は先輩の足元に及ぶ演技は出来ていない。ファンができるとしたら先輩たちの方だ。だからファンがいると言うのは信じ難い。
「そう言ってくれるのはありがたいけど、まだファンと言えるほどの演技は出来ていないと思うけど」
「そうかな」
消極的な言葉にも、小百合さんはファンがいるということを信じているのか、じっと見つめられた。恥ずかしくなった僕は前を向いて敢えて壇上の講師に視線を移した。
「そ、そうだって」
「そう?」
彼女の視線が痛くもあり、そして恥ずかしくもあり、ほんの少し暖かいと思ったりもしていた。
後期のカリキュラム説明が終わり、小百合さんは用事があると言って別れた。
そして僕は建物内の廊下を歩いている途中である。やはり誰かに見られている気配を感じる。何かお化けでもいるのかと疑いたくもなる。確かにボール消失事件があるから、オカルト関係に過敏になっているかもしれない。でも背中に感じるむず痒さはやっぱり気のせいとは思いにくい。
「数谷君やんかい」
突然聞こえてきた関西弁の独特な訛り声。その声の先にいたのは予想通りのあの人。
「テンちゃんさん! お久しぶりです」
黒いリュックと長そうな黒い円柱の荷物を肩にかけて歩いてくる男性に、僕はぺこりと頭を下げる。
「いやいや。そんな頭下げんでいいで。っておっとっと」
僕は近づくテンちゃんさんの腕を掴んで、通路の角につれていく。
「急にどないしたん? 自分そんなに強引だったけ?」
「すみません。先輩相手にこんなことするのはあまり忍びないのですけど、頼れそうな人があまりいないので」
「どうしたん?」
僕は後ろを確認しつつ、話を進める。
「実は今日、誰かにつけられているか、変な視線を感じるんです」
「それは穏やかな話ではないの」
辺りをキョロキョロと確認してくれるテンちゃん先輩。
「それはあれとちゃうか、外国のスパイとかなにかとちゃうん?」
先輩のボケに冷ややかな視線を送ってあげる。
「おっ。すまんすまん。パッと見てそんな人いなさそうやけど」
「そうなんです。何回か確認しているんですけど」
「ふむ。いつ頃かいな」
「キャンパス内に入ってからです」
「単純に考えるとうちの学生になるんか?」
「たぶん。そうです」
思ったより真剣に話を聞いてくれている。
可能性はこの大学の学生だと思えばいい。
「七月に派手にやったから、有名になったとちゃうん?」
「知り合いにも言われましたけど、僕はそこまでです。どっちかというと先輩たちにファンが来ますって」
「謙虚かい。少なくとも先輩後輩関係なく、あれは印象残っていると思うで」
「そうですか?」
「ま。前向きに考えたらな。それか何かやましいことでもしたんか?」
「……。いや。心当たりはないです」
やましいことか。僕は特には覚えがないかな。覚えがないだけで無意識にやっているとか。いや。それはない。やましいことも先輩たちの方がありそうだし。特にあの三人。いや二人か。
「で、どうしたいん?」
「どうしたい、ですか。それは誰かかわかればいいんですけど」
「具体的な方法は思い付いとる?」
「一応ですが、僕が人が少ない所に行って、誘き出してテンチャンさんが後ろから捕まえる作戦ですかね」
「数谷君て思ったより人使い荒い?」
「すみません。咄嗟に思い付いたものでして」
一つの考えとはいえ、先輩をこき使う様な考えは間違っていた。これがてるやん先輩なら容赦なかったけど、部活のノリが出てしまった。
「いや。そんな気にせんでええで。それにちょいとおもしろそうやから、その作戦ノッタるで」
テンちゃんのノリノリの表情に、僕は目をパチクリと瞬く。
ゲリラパフォーマンスの時と言い、ボケはいまいちだが何やかんや最後まで面倒ごとに付き合ってくれるところは、良い人なんだなと思った。
「え。本当大丈夫ですか?」
「いいで。丁度時間空いているし」
「ありがとうございます」
僕は深々と頭を下げた。
そして作戦実行。
僕の知る限り一番人が少ない場所、僕たちオタマジャクシズの練習場所の体育館に向かう林道。その入り口に入る瞬間まで気配を感じる。
「うあ!」
「捕まえたで!」
後方からテンちゃんの雄叫びが聞こえた。
思ったよりあっさり捕まえられたみたいだ。あまりにもあっさり過ぎるので、拍子抜けするくらいである。こんな典型的な方法で捕まえられるってどんな人なんだろう。
くるっと振り返って戻っていくと、腕をガシッと掴まれて足をジタバタしている人がいた。
「え。女性?」
身長はテンちゃんの首元より低めの高さで、全体的に茶髪で毛先が少し赤みがかかり、外側に少しはねて、ライブTシャツの様な服にジーンズにシャレたスニーカーの、ちょっと気の強そうな女性だった。




