『本番 僕』 その2
先輩たちが舞台袖に入った後、こっそりと後ろから様子を伺うために廊下から顔を出した。
手のひらに滲んでくる汗、ずっしりとのしかかる重たい空気。
僕は固唾をのんで先輩たちの演技を見守った。
まもなくエリ先輩の演技が始まった。
いつも通りのエリ先輩の演技だった。でも何かが違った。
本人の必死の顔。あれは集中しているわけでもない。何かを振りほどこうと必死に足掻いている。
何をそんなに必死なんだ。確かにお客さんは少ないけど、でもそれはそれであって何でそこまで苦しそうな表情をしているのだ。
分からない。分からないままだった。
そしていつもノーミスのエリ先輩が道具を落とした。
空しく落下音だけが会場に響いた。
僕の額にもジーンと汗が滲み始めた。
拾い上げて続けていく姿はもう必死そのものだ。最初の楽しみながら演技していた時の姿など見る影もなかった。
思うようにできなかったエリ先輩が力ない表情で戻ってきた。カスミン先輩に一言何かを言っていたが何か分からなかった。
エリ先輩が悔しそうに控室まで歩いていった。
次はてるやん先輩だ。
あの人は流石に大丈夫だろうと思っていた。
思っていた。
けど、あの人も演技は空回りに終わった。持ち味となる観客を笑わせて場を温めてから全体を盛り上がらせる演技、だが少ない観客相手には通じなかった。そういった空気になっていなかったからだ。
てるやん先輩の初めてみせた悔しい顔。
悪い空気がどんどん伝染している感覚。袖奥から覗いている僕にも伝わってきた。
後続の城ケ崎先輩もうまくいくことなく、ディアボロを頭にぶつけてしまった。
いぶし銀、常に渋さと演技のスタイリッシュさが持ち味だったのに、出せることなく終わってしまった。
城ケ崎先輩の交代際にカスミン部長に呟いた。
「すまんカスミン。この空気を変えてくれ」
それは先輩一人ではない、全員の思いだった。客は一向に増えない。演技は散々に終わっていき、もう舞台に立つだけでも苦痛の状態。
でもリハーサルが完璧だった部長には変えられるかもしれないと思った。
カスミン先輩は、深く息をついてから胸を張り「よしっ」と気合を自分に入れた。
彼女にのしかかる重圧、正直もう行かないでと思った。先輩たちが崩れていく姿を見ていくたびに、胸が締め付けられていく。
今は部長に縋るような気持ちで見ていた。
部長はステージへと向かう階段に足をかけて上っていった。
ステージに立ち、始まった演技、最初は問題なく技は続いていた。けど……。
先輩たちと同じだった。
部長も必死だった。
みんな以上に必死だった。
それでもギリギリの状態でボールを演技し続けていた。
「頑張って」と本気で願った。
あのいつも笑顔の部長が、あんなになってでも演技をし続けていた。
ボールの後輩としてだ。憧れの先輩が今あんなになっている。
祈るしかできない。何も助力してあげれない自分がもどかしい。
ただただ見守るしかできなかった。
落とさないでと願った。
けどその願いが叶うことはなかった。
カスミン部長の指先からボールが転がり落ちるのが、目で見えた。
急いでボールを拾いに行った。
彼女の指先にボールがかかるときに、彼女はピタッと体の動きが止めたのだ。
曲だけが空しく流れて、彼女は動かない。
どうしたんだ。何があったんだ。袖から見ている僕にはわからなかった。
秒数にして大体三十秒ほど時が止まったように彼女は停止した。
そしてカスミン部長はボールを捨てた。
一瞬だった。部長はボールを捨てた後、曲が途中なのに全てを投げ出してステージを降りてき、控室の廊下を抜けて外に出ていった。
ただ茫然と見つめていた。
「カスミン!」
「カスミン!」
「おい!どこ行くんだ!」
アヤメ先輩とてるやん先輩と耕次先輩の声で、止まっていた思考が引き戻された。
控室にいたエリ先輩と同期の一年もみんな出てきた。
「何があった!」
「カスミンが、カスミンが、舞台からいや、ホールから出ていった」
『出ていった!?』
出てきた全員が目を丸くした。
すぐに状況が理解できないでいた。
当然だ。見ていた僕らにも理解できなかったんだから。
あれほどステージを待ちわびていた部長が、舞台を投げ出したなんて信じられなかったから。
「みんな何があったの!? カスミンはどうしたの!?」
バタンと扉を開けて入ってきたのは榊原さんだ。
「マッキー! どうして!」
「ヘッドマイクから騒ぎ声が聞こえたから慌てて来たの」
「わかった。カスミンが出ていった」
「出ていった!?」
同じ反応するのも当然だ。
こんなのすぐに頭が回るわけがない。
「舞台の演技の途中で突然止まって、そしたらすぐにボールを投げ捨てて外に出ていった」
アヤメ先輩が唇をギュッと噛みしめていた。
「わかった。みんな探しに行って、あとは私たちが何とかするから」
「え?」
純粋に耳を疑った。あまりにも突然な榊原さんの返しに、全員次の反応を示すことが出来ない。
「探しに行くんでしょう。早くしないといけないんじゃない。だったらもう後処理は私とテンちゃんで何とかするから」
『状況は理解したで! はよ。探しにいってあげ』
榊原さんがつけていたヘッドホンからテンちゃんの声が聞こえる。
二人の対応力に一同感服するしかない。
「でもそれじゃあ」
「早くいくでないと取り返しがつかないことになるかもしれないよ」
申し訳ないと思っていたアヤメ先輩に、いつになく切羽詰まった勢いで榊原さんは説得した。
アヤメ先輩は、これ以上何も言えなかった。
「わかった。サカッキー。テン。恩に着る」
てるやん先輩が頭を下げて、僕らに振り返った。
「追いかけるぞ!」
そういって一番最初に外に飛び出していった。
その勢いに連れられ僕らも出ていった。
出ていく瞬間にアヤメ先輩の浮かない顔だけが目に入っていった。
外は滝のような雨が降っていた。
日はとうに暮れて、辺りは真っ暗だった。
カスミンさんの姿は全然見えない。
「手分けして探すぞ」
てるやんさんは今まで見たことのない顔をしていた。歯ぎしりをし、歪んでいた顔をしていた。これほど必死の顔をするほど事態は切迫していた。
みんな無言で頷き、バラバラの方向に探しに行った。
衣装のままで雨の中に入っていく。
べっとり染み付く匂いと、服と肌が気持ち悪くひっつく、でもそれでも早く探さなくてはならない。
カスミンさんが会場を飛び出してから一分も経たずに、僕も飛び出したにもかかわらず、カスミンさんは全然視界に入らない。
それほどまでに悔しかったのか。リハーサルではビックリする程の演技をした人なのに。
先輩たちみんな、あれほど生き生きしていたはずなのに、今日は必死だった。客が来なかった。それでも明るくさせようとしたが故に、本来の姿を見せることができていなかった。
一後輩である僕はその状況でも先輩たちに何もできなかったことが、とても悔しかった。
かれこれ三十分以上経って、キャンパス内を探し回っても見つからない。
カフェテリア、池、文学棟、食堂、どこにもいなかった。
建物という建物、場所という場所をほとんど探し尽くした。もうキャンパス内にはいないのかと思った。
だがふと、まだ一つ行っていない場所を思い出す。
瞬間に走り出す。キャンパスの敷地を離れ、両端に大きな木が並ぶ林の道を抜けていき、倉庫と間違えそうなほど古びれた体育館に辿り着く。
中に入ると当然真っ暗だった。電気をつけても、カスミンさんの姿は見つからない。
「ここでもない」
無意識にも嘆きの言葉を呟く。
諦めずに、個室や倉庫を調べる。でもカスミンさんがいる形跡などなかった。時計を見るともう学校の閉校時間帯間近に迫っていた。
もうキャンパス内にはいないか。
そう思いながら、体育館の扉を開けて出る瞬間だった。
雨音に紛れて、草の音が乱れたのが耳で解った。
普通なら特に気にしなかった。
けど今は少しの手がかりでも縋りたかった。
僕はその手がかりを頼りに向かった。道なき道を進んでいった。草をかき分けて、枝を踏み倒して、林の中を進んでいった。
奥に進んでいくと木の形とは明らかに違う影を視界に捉えた。
その影は大きな大木にもたれかかるように立っていた。
「カスミンさん!」
その影がカスミンさん何てわからなかったはずなのに、僕は叫んでいた。
影はゆっくりと動きを見せた。
僕はその影に走って近づいた。だけど影は僕に向けて手を伸ばした。
「来ないで」
響いた声はカスミンさんだった。けどあれほど明るく力の入った声はなくなり、弱々しく震えた声だった。
僕は影の姿が見える場所で足を止めた。
髪は乱れ、顔に半分以上かかり、頬に血色が消えていた。
瞳は髪の隙間から見えるが力なく虚ろな瞳をしていた。
「カスミンさん。大丈夫ですか」
「来ないで! もう私に構わないで!」
髪が激しく乱れる程に揺らしながら、地面に吐き捨てた。単なる拒絶ではなかった。自分が逃げてしまったが故の罪という意識を持つほどの拒否。
舞台に立つ人間では絶対にやってはいけないことなんだと思う。
でもそれでも戻ってきてほしい。お節介かもしれない。何なら何か話してほしい。何かあったなら協力したい。
「何があったんですか」
「もう無理。あんな大事な場面で逃げてしまった私に帰る場所なんてない」
「みんな探しています! みんなカスミン先輩のことを心配しています。僕だってそうです。だから何があったんですか」
「そんなの。そんなの言えるわけない」
「……」
「わたしのわがままで、情けなさで舞台を放り出してしまった。もう帰れない! もう私なんて必要のない人! 構わないで!」
怒号のような叫びは、雨を吹き飛ばすほどの悲しみが込められていた。クワっと見開いたその瞳には、溢れんばかりの涙を溜めていた。
顔は雨の雫が何筋も頬を流れ、化粧が縦に荒れていた。
「なんでそこまで自分を責めるんですか」
「私が惨めだから、私が弱いから、私が……。」
顔を歪めて訴えるほど必死だった顔から、急に血の気を引くような程怯える表情に変わった。
そして僕に次を言わずすぐに逃げ出した。
「カスミンさん!」
彼女は山の奥へ必死に逃げる。僕も訳も分からずに追いかけていく。木をわけ草を乗り越えて、どんどん上に登っていく。
明らかにおかしいのは彼女が何かに追われているのか、体の動きがバラバラだった。時に膝をつき、手をついたりふらついたりと、二三度転けたりした。
その度に僕は部長の名前を呼ぶが、もう耳に入っていなかった。
「来ないで!」
彼女はまた止まった。今度は悲しく掠れた声だった。
木に右手で支え、胸に手を当てフラフラになりながら、僕に振り返った。
「カスミンさん」
「ごめんなさい……」
彼女は謝罪とともに何かに気が付いたように目を見開いた。
「カゲル。ごめんなさい。もう私……」
彼女が言葉を言い切る直前に、驚愕なことが起きた。
カスミンさんの指先から光の粒が発した。
腕、肩、全身へと光り、そして跡形もなく消えていった。
七月四日夜、白峰カスミは消失した。




