『本番 私』 その2
本番が始まってからというもの、お客さんの数は然程増えることはなかった。
それでも最初の後輩たちは、ミスをしながらもきちんと自分の出来る範囲での演技をやり遂げていった。
大介に至ってはノーミスだった。
その懸命な姿から、少なからずもしっかりとした拍手は返ってきた。
そして、私の同期エリの番になった。
エリが舞台に立った時に、脳裏にリハーサルの時のミスが過ぎり、ギュッと胸がしめつけられる感覚になる。私はそれでも信じるように、両手で祈る形になって見つめる。
いつもより空気が重いのは、やはり感じていたのだろう。
エリに笑顔が見えなかった。今まで初めてだ。
私の不安が大きくなっていった。そしてそれが現実になってしまった。
リングとリングがぶつかり、大きな落下音とプラスチックの音が虚しく響いてしまった。
当然、観客から「あー」という声もでない。無音のステージ。
エリはすかさずにリングを拾い上げ挽回はするもの、だが観客からの拍手はあまり聞こえなかった。
最後の決めポーズはいつになく寂しく見えてしまった。
力なく戻ってきたエリは私に目を合わすと、ゴメン次頑張ってと行って私の横を通り過ぎた。
次のてるやんが何とか重くなった空気を振り解こうと、強気で向かっていった。だがそれは空回りに終わっていってしまう。
彼の持ち味である笑いを取りながら明るくしていく演技なのだが、全て空回りに終わる。
場が温まっていなかったこの状況では、どうにもならなかった。
この人数ではお客はノリの笑いは遠慮する上に、空気が重すぎて伝わらない。
そして彼も虚しくもフラワースティックの鈍い落下音を響かせてしまった。
あ〜という嘆き声も聞こえない。
初めて見た。彼が歯をギリっと噛み締めて歪んだ表情を。
その後も数回ドロップし、最後は荒々しく息が乱れていた。
舞台を降りてくる彼の姿は、腰を曲げてたぐったりとした姿だった。そして何も話さず私の横を通り過ぎていった。
耕ちゃんも、前回の二人を見たせいか体が強張っていた。
ぎこちなく舞台を上っていた。その後ろ姿は小さく見えた。
最初の技を決めるが、キレも精度も悪かった。当然次の技にも影響が出る。その乱れを繰り返すと完全に外れる時が必然的に訪れた。
ディアボロが紐から転げ落ち、床と衝突してステージ下まで落ちていった。
彼は下には取りにいかず、置いていた予備のディアボロを再度使ってはじめる。
だが何度も何度も落下音が響く。深いため息がぽつりと客席から聞こえた。
胸がギュッと締め付けられた。
この状況を変えることはできなかった。
耕ちゃんは交代際に、私に一言呟いた。
「すまん。カスミン。この状況を変えてくれ」
ズンと重くのしかかった言葉だった。
この状況を変えるには、相当なことをしないといけない。考えれば考えるほど、目眩がしそうだ。でもひとつだけ可能性はあった。リハと同じような演技ができれば、変えられるかもしれない。
散っていった三人のためにも、この状況でも必死に食らいついてくれた後輩たちのためにも、台本から事務処理や練習進行をしてくれたアーヤのためにも、私はリハ以上の演技をする。
そう決意してステージには立った。
ステージと客席の距離が何故か遠く感じる。客席には人が数人、しかもみな疲れた顔をしている。
これが発表会の空気なのかと疑いたい状況だ。
いや、まったく違う昨日と、半端になってしまった演技の客の喪失感。
まだ帰っていないことが若干の救いだが、でもその状況も長くは続かない。
目に見えた光景、一人の客には逆に祈われていた。
昨日よりもボールが何倍も重く感じる。
足が沈みそうだ。それでも私は舞台に立つんだ。
礼をしても拍手が聞こえるのは、舞台袖とお客様が一人二人だけ、でもリハと同じ演技なら変えられるかもしれない。そう思って始めた。
だが投げ始めと一つ目のボールを受け取ったときの感触が違った。沈み込むような感覚。すればするほど、肺が、心臓が、腕が、全身が、舞台と一体化になるとは違う。空気に飲み込まれていくように、沈んでいき、霞んでいく。
振り払うつもりが、湿った様な粘りつくような空気はただ一瞬形を変えるようですぐにもとに戻っていく。
どんなに足掻いても、どんなに足掻いてもだめだ。
そして、訪れて欲しくなかった瞬間が来た。
ボールが指から滑り落ちていった。無残にもステージの床にも落ちた。
私は急いで拾いに行く。
早く挽回しないと、お客さんにこれ以上の失望感を与えてはいけない。絶対に与えてはいけない。みんなに驚いて笑顔になってほしい。そのためにやってきたんだから、やってきたんだから。
ボールに必死に手を伸ばす、手を伸ばす。
ボールが指先に触れる瞬間だった。
「何回落とすんだよ……」
私の心が破裂した。
どこから聞こえたかなんて知らない。たぶん観客の一人だと思う。だけどそれ以上に衝撃があった。今まで頑張って持ってきた希望を、ガラスが割れるように壊れていった。
震えた手はボールに触れることすらできない。
実際の距離の十数倍に感じられる。
伸ばしても、伸ばしても届かない。舞台袖から私の名前を呼ばれている気がするが、でももう何も聞こえない。
悲しみ、怒り、寂しさ、でもない。絶望だった。
人に失望をさせてしまった。
今の今まで人に笑顔にさせるために練習してきたのに、その部長が何をしていいるのだろう。
もう演技ができない
私は、気がつくと舞台から逃げた。
ステージの階段を駆け下り、控え室を飛び出し、会場を出て行った。
何度か呼び止められたが、私の耳にはなにも聞こえない。
聞こえるのは、ただ容赦なく降る雨の音だけだった。




