夜の出来事
「え…大丈夫なのか?」
十六夜が、着替えるために部屋へと戻って来た維月に言った。維月は、頷いた。
「大丈夫よ、お父様にはその気はおありにならないわ。あったらとっくにそうなってるって、十六夜だって分かってるくせに。」
十六夜は、分かっていたが拗ねたように視線を落とした。
「確かにそうだけどよ。改めて一緒に寝ようってのが、おかしいと思わねぇのか。」
維月は、首を振った。
「お父様は困ったかただけれど、嘘は言わないわ。そんなつもりはないっておっしゃっていたもの。今までだって、何度もそんなシチュエーションになってたけど、絶対に手を出さなかったじゃない。大丈夫よ。心細いって言っていらっしゃる時ぐらい、お側に居て差し上げなきゃ。ね、十六夜。小さな頃は一緒にお父様の寝台に潜り込んだでしょう?」
十六夜は、ため息をついた。
「それはほんとにガキの頃じゃねぇか。わかったよ。じゃ、行って来い。だが、こっちから気はモニターさせてもらうぞ。お前の気が乱れたら、飛んで行くからな。分かったか?」
維月は、苦笑した。
「心配ないって言ってるのに。分かったわ。」
十六夜は、維月に微笑み掛けて口付けた。
「いくら親父でも、譲るわけにはいかねぇからなあ。」
そうして、維月は碧黎の部屋へと戻って行ったのだった。
碧黎は、寝台に座って待っていた。維月は、それを見て少し緊張した…別に、何をしようというのではなのに、おかしなこと。
維月は自分を奮い立たせて、碧黎と共に寝台へと入った。碧黎は、横から維月を抱き寄せると、それこそ維心のように、維月の髪に頬を摺り寄せた。
「おお、ここ最近はこんな風に癒しを感じて休んだことなど無かったわ。よう眠れそうぞ。」
維月は、微笑んで碧黎を見上げた。
「久しぶりだこと。お父様の匂いがしまする。」
維月は、嬉しげに碧黎の胸に顔を埋めた。碧黎は、驚いたように維月を見た。
「我の匂い?どんな匂いぞ。」
維月は、ふふと笑った。
「香の匂いでしょうか。香木のような…懐かしくて、癒されまするわ。」
碧黎は、微笑んで維月を抱きしめた。
「それは良い。今夜はお互いに癒されながら眠るとしよう。」
維月は、頷いて目を閉じた。
「おやすみなさいませ…」
そう、言うが早いか、維月はもう眠りに落ちていった。昔から、寝つきは驚くほどに良い子供だったが、昼間よく動くので、疲れるのだろうと思っていたのに。成長しても変わらぬか。
碧黎は人知れず苦笑すると、自分も目を閉じて眠りの世界へと入って行ったのだった。
月の宮が寝静まった深夜、見張りの軍神が宮の守りに付き、宿直の侍女達が控えの間で寝ずの番をしながらヒソヒソと話す以外、何の物音も聴こえない。月の宮は、大きな龍の宮などに比べて、規模は大きいが人数が絶対的に少ないので、広い宮の中は本当に静かだった。
そんな宮の中を、結蘭はたった一人、軽い着物を身に着けて歩いていた。少し浮き上がって、足音を立てぬように気を遣って歩く。そうすると、まるで羽のようで、自分が羽虫(蝶)にでもなったような気持ちになった。
結蘭が目的の対へとたどりつくと、いつもは、あの強大な気が休んでいてさえもどこか覚醒しているのを感じ取っていたその部屋なのに、今日はすっかり寝入っているのを感じた。そうして、それこそ天が自分を見放さなかった証拠なのだと結蘭は確信し、その対へと、そっと足を踏み入れた。
何度も調べて、知り尽くした対だった。この、奥の部屋に、あの方は休まれているはず…。
居間を抜け、その部屋へと繋がる戸をそれは慎重に開いてまた閉じる。決して足を踏み入れることが出来なかった、この部屋。大きな天蓋付きの寝台を見ると、大きな背がこちら向きに見え、どうやら体をあちらに向けて横向きに眠っているようだった。
あの隣りで眠りたい…。
結蘭は思ったが、常は大変に大きな気を持って、全てを見通している陽の地。運よく今はぐっすりと眠っていてこちらに気付いていないが、同じ寝台へ入ったならすぐに気取るだろう。
ならば…。と、結蘭は思った。ここで、このまま朝まで待てば良い。一度妃に落ち着いたなら、きっとお側に行くことが出来る。今夜だけの辛抱なのだから…。
結蘭は、そっと寝台から垂れる布の脇へと身を隠した。兄の宮に居る時は、軽蔑までしていたこの、殿方の部屋へと忍んで朝を迎え、妻になるという手段。だが、これしかない時もあるのだと、結蘭は悟った。どうあっても、お側を離れたくない。相手が自分を望まぬ以上、こうして世間的に妻となって側に居れば、そのうちに例え一夜でも、召されることがあるかもしれない…。
結蘭は、そっと目を閉じた。こんな床の上などで座って眠るのなど初めてだったが、愛おしいかたの側ならば、何でもないと心から思った。
そのまま、夜は更けて行ったのだった。
「ん…」
維月は、目を覚ました。どうも、誰か他に居るような気がする…。
目を開けると、目の前には碧黎が端正な顔を穏やかに緩め、静かに寝息を立てていた。幼い頃は、こうして父の寝顔など見ることはなかった。なぜなら、父は自分達より先に起きていて、いつでもこちらを見て微笑んでいたからだ。
それをどうしてなのかと十六夜と二人で父に問うたことが何度もあったが、父は笑うばかりで教えてくれなかった。一度十六夜と二人で父が寝るまで起きていようとしたが、いつも眠ってしまって気がつくと朝だったのだ。
後で知ったことだが、碧黎は眠っていてもどこかしらいつも覚醒していて、こちらの気を読んでいて、目覚めると気づくと目を開くのだという。それが、今はこうして維月に無防備に寝顔を晒して眠っていた。
余程気が緩まれたのね…。
維月は、微笑ましく思ってその頬に触れた。碧黎は、さすがにそれを気取って身を動かした。
「ん…。」
朝日が、遠く昇って来ているのが分かる。薄闇の中で、維月は微笑んだ。
「お父様…?朝でございまするわ。」
碧黎は、すっと目を開けた。
「維月…?」
「はい。」維月は、碧黎の頬に触れた。「こうして寝顔を拝見するのは初めてでございますこと。」
碧黎は、微笑んだ。
「なんと珍しいことぞ。いつなりこのようなことはないのに。辺りを気にすることなく寝入っておったわ。」
維月は、頷いた。
「お疲れでございましたのでしょう。お元気になられましたか?」
碧黎は、維月に唇を寄せながら、頷き返した。
「すっかりの。お陰で感覚が鋭うなって…」と、急に、がばっと起き上がった。「誰ぞ?!」
碧黎は、叫ぶと同時に足元の天蓋から伸びるカーテンを横へと乱暴に押し開いた。
「お…」碧黎は、そちらを覗き込んで、険しい視線になった。「何をしておる?!」
維月が、誰が居たのかと驚いて上布団を引き上げて身を隠しながらも、そちらを見た。
するとそこには、結蘭が、三つ指をついて頭を下げていた。
「昨夜こちらでお世話になり…めでたく朝を迎えることとなりましてございます。」
維月は、袖で口元を押さえた。まさか…まさか、出戻りとはいえ西の宮ほどの規模の宮の皇女が、そんな婚姻を強行したというの?!
碧黎は、珍しく激昂した様で言った。
「我は主など娶らぬと申した!とく去ぬるが良い!」
本気で怒っているようだ。でも、維月も聞いてはいたが目の前で見るのは初めてだったので、こういう婚姻がどうなってどうなるのかなど、よく分かっていなかった。だが、確かに男は歩が悪く、それゆえ軍神達は絶対に忍ばれないように結界を張って眠るのだと聞く。維心も維月が居らねば毎日かなり警戒して眠っていたのだと言っていた。入って来た女は尽く切り捨てたと…。今は、維月がいつも共だから安心して眠っていられると言っていたっけ。
維月は、上布団に隠れるようにしていたが、ハッと我に返った。そういえば、私がここに居るのに。
「お待ちくださいませ。」維月は、布団の下ですっすと腰紐を解いた。本当はきちんと襦袢を着て眠っていたが、それを崩すためだ。「いったい、どういうおつもりですの?昨夜、何と?」
結蘭が、仰天したように下げていた頭を上げる。碧黎も、ハッと我に返って維月のほうを見た。
「維月…?」
すると、維月は引き上げていた上布団を下ろした。腰紐は無く、襦袢の前は乱れて少し開いている。結蘭の視線がそれに向けられたのを見てから、維月はわざと慌てたように着物の前あわせを閉じた。
「昨夜は一晩中、私がお父様と過ごしておりましたのに。これはどうしたことでしょう。それでも、婚姻は成立するものなのでしょうか…?」
結蘭の顔色が、青ざめて行く。維月は、それを見て直感的に悟った。きっと、誰か先客が居たら無い。実際に身を繋いだのならどちらも妃だろうけれど、そこで寝ていただけなのだもの。
碧黎がじっと険しい顔で黙っていると、十六夜の声が言った。
「成立しねぇよ。」維月は、ハッとして入り口の方を見た。十六夜が、そこから入って来て続けた。「そういう決まりだ。結蘭には、維月が見えなかったのか。」
碧黎は、維月を見た。
「…入り口に背を向けて、維月を抱いて眠っておったゆえ。我の背に隠れて見えなかったであろうの。」と、維月の肩を抱いた。「困ったことよ…我らが親子であって親子でないことは、この女にも重々話しておいたというに。」
碧黎は、維月の意図を悟ったようだ。如何にも仲睦まじげに頬を摺り寄せた。
「ああ…。」
結蘭は、ワッと泣き伏した。それでは、これはただの恥でしかない。忍んで婚姻に挑んだことを周囲に知られるだけでなく、それが失敗したとあっては…侍女達にもすぐに知れて、皇女の醜聞は良い噂話のネタとして神世を駆け巡るだろう。十六夜は、力なくため息をついた。
「何か決心したような気だなとは思っていたが、こんなことだったのか。皇女としての誇りは、こんなものじゃないだろう。親父は神世の理なんて意に介さないから、もしも一人きりだったとしても、きっと婚姻なんて無理だった。どうしてこんなことをした。お前にどうにか普通の幸せを見つけて欲しいからって、オレも維月も、蒼だって西の宮へ早く帰ることを望んでたってのに。」
結蘭は、それを聞いて事を急かされていたのはそのためだったのだとやっと理解した。兄が自分を急いで宮へ迎え取ろうとしたのも、蒼がせっついていたからだったのだ。自分の気持ちなど、蒼や十六夜には見透かされていたのだろう。
碧黎に肩を抱かれた維月が、気遣わしげに十六夜を見る。十六夜は、頷いた。
「何とか侍女達が気取らない間に客間へ行かせてやりたいが、あいにく夜が明けて皆活動し始めたばっかりだ。裏から奥へ抜けて北へ出て、そこで様子を見て客間へ帰すか。だが、その格好じゃあ…。」
結蘭の着物は、夜具の薄物なのだ。維月は、衣桁に掛けてある自分の袿を指した。
「私の袿を着せかけて。その薄物はこちらへ置いて。」と、慌てて腰紐を結びながら寝台から降りて来た。「さあ、髪を。そのままでは明らかに寝起きですもの。」
結蘭は、ためらった。だが維月は、さっさと気を使って結蘭の髪を簡単に結い上げると、寝台の横の引き出しから、かんざしを何本か出した。
「これを挿して。そうしたら、ちょっと見ただけなら気軽に部屋を出て来た程度にか見えないでしょう。」
結蘭が答える間もなく、維月はそれもさくさくと済ませた。そして、十六夜を見た。
「十六夜、これでいいわ。早く…侍女達は奥宮に一番多いんだから。」
十六夜は、頷いた。
「分かった。」と、結蘭の腕を気でぐっと掴んだ。「ほら、行くぞ!オレだってお前と噂なんて立っちゃ困るんだからな。急げ!」
維月と碧黎が見守る中、十六夜は乱暴に結蘭の腕を引っ張って裏から出て行った。維月がホッと肩の力を抜いていると、碧黎が長く息を吐いた。
「…まさか、このようなことが我の身に起こるとは。いつなり覚醒していて、側近くまで侵入させることなど無かったのに。昨夜は主が共で、油断してしもうた。」
維月は、苦笑して碧黎を振り返った。
「私も、皇女の結蘭が、まさかと思うておりましたから。驚きましたわ。ですが…決意とは、これでございましたのね。」
碧黎は、頷いた。
「嫌な予感はこれであったのだ。主が共でよかったことよ。」
維月は、首を振った。
「私が共でなければ、いつもの通り警戒して眠っておられたのではないですか。少なくとも、朝を迎えてしまうことはありませんでしたわ。」
碧黎は、頷いた。
「確かにそうかもしれぬ。だが、昨夜はほんによう眠れてすっきりとしておるのだ。まるで本体へ戻っておったかのようぞ。」
維月は、頷きながらも結蘭と十六夜が去った方を見た。
「ですがお父様…このままでは結蘭が大変な噂の的になってしまいまするわ。まずは逃れただけのこと。結蘭の侍女は主人が居ない事は悟っておるでしょうし、もしかしたら何も知らずに月の宮の侍女に、主人の居所を訊ねて回っておるやも知れぬのです。困ったこと…どこで休んでおったのかと、詮索されまするわ。ここだと知れたら、月の宮の侍女は私がここに居るのを知っておりまするし、結蘭には大変に不名誉なことに…。」
碧黎は、ふんと横を向いた。
「あんな女の事など知らぬ。己の行いの責を負うだけのこと。主も案じるでないわ。」
碧黎は、話が結蘭の事に及ぶと、不機嫌に眉を寄せて横を向いた。維月は、もう碧黎には何を言っても助けてはくれないだろうと、十六夜を追うことにした。
婚姻という結果にならないように自分はああして振る舞った。だが、結蘭が神世で笑い者になることなど、願ってはいないのだ。




