芝居
維月は、薄い冊子を手に、碧黎に言った。
「では、私の台詞の後に、お父様がこれを。」
碧黎は、顔をしかめた。
「これを?…どう言えば良い。」
維月は、困ったように言った。
「ですから、この私の役の女がお父様の役の男のかたに、想いを告げておるのですわ。それに、こう、気遣っておるような感じで…」
碧黎は、その冊子を見て、読んだ。
『われはいまそのようないとまはないのだ』
維月は、目を点にした。ああなんてこと…もしかしてこれが大根役者というやつでは。
維月は、次の台詞を読んだ。
『でも、今は奥様も居らぬ身であられましょう。我は、愛しておるのですわ。どうか、一夜だけでも良いのです。我をあなた様の、妻に。』
すると、碧黎が驚いたような顔をして維月を見た。
「何を申す、維月?維心は良いのか、十六夜は?我は主が側に居れば、それは嬉しいし、一夜だけと言わず何度でも身を重ねても良いがの。」
維月は、慌てて冊子から目を上げて首を振った。
「まあお父様、違いまするの。これですわ。」維月は、冊子の台詞を指差した。「ほら、ここの台詞。これを読んだだけですのよ。」
碧黎は、盛大に顔をしかめた。
「ならばなぜにそう、まるで己の言葉のように申す。思ってもおらぬことを、それらしゅう。しかも、己の中から出たのではなく、誰かが書いたものではないか。我はこのように決められたこと、己の感情を入れて話すなど出来ぬ。なので、主が言う芝居という遊びは出来ぬな。」
維月は、ため息をついて十六夜を振り返った。十六夜は、部屋の脇のカーテンの隙間から出て来て、言った。
「親父…駄目か。自分で考えた嘘なら言えるのに?」
碧黎は、そこに十六夜がいるのは知っていたらしい。ふんと横を向いて、言った。
「嘘は己で考えて己の言葉で申すもの。この冊子に書いてあるのは、我が思うてもない、赤の他人が書いたもの。全く違うものであるわ。我には無理ぞ。誰かに操られておるような気がして、少しも面白うない。」
十六夜と維月は、顔を見合わせた。では駄目だ…碧黎に、芝居をさせようというのがそもそもの間違いだった。
「あの…申し訳ありませぬわ。」維月は、仕方なく言った。「では、芝居はやめましょう。お父様、お庭に出たいですわ。」
碧黎は、険しい顔をしていたが、表情を緩めた。
「おお、では参ろうか。」と維月の手を取って十六夜をちらと見た。「何をさせるのか、全く。芝居など、我には無理ぞ。」
十六夜は、ふんと鼻を鳴らしただけだった。碧黎と維月を見送りながら、十六夜はじっと考え込んだ。何だって、こんな面倒なことになる。一度、結蘭の気持ちとやらを、オレが聞いて来た方がいいんだろうか。だが、そうなるともっとややこしくなるんじゃないだろうか。困った…本当に困った…。
維月も、碧黎の隣りを歩きながら、困っていた。十六夜から策を聞いた時はいい案だと思ったが、肝心の碧黎が全く芝居をするつもりがない。というか、芝居が出来ない。
しかし、この父は自分に想いを告げた女に何を言うか分かったものではなかった。維月は、何か策はないものかとじっと悩んだ。
碧黎が、維月の沈んだ様子を見て、息をついて言った。
「…そんなに、芝居というのがしたかったのか?あれは、それほどに楽しいものなのか。」
維月は、ハッとして碧黎を見上げた。
「いいえ、お父様。良いのですわ、人の頃のことを思い出して、ふと思うただけでありまするから。そのように案じないでくださいませ。」
碧黎は、苦笑して維月の頭を撫でた。
「主こそ我を気遣うて…良いのだぞ?主が言うなら、別に芝居に付き合うても。」
維月は、笑いながら首を振った。台詞をまともに話せないのに、お父様ったら。
「良いのですわ、本当に。あのお話が、悲恋なのですが興味深かっただけですの。」
碧黎は、興味が湧いたのか、身を乗り出した。
「ほう?どういった話か?」
維月は、もしかして、と希望を持った。もしかしてここで話をして、それに対する自分の考えを碧黎に話したら、その考えを学んでくれるのではないか。つまりは、そういう時にもそれを考慮して、きつい言葉を使わずに返す可能性がある。
なので、維月は言った。
「あの、ある男のかたに恋をする、女の話でございまするの。でも、男のかたとその女は立場が全く違っていて…それでも、女はある日、意を決して思いを告げるのですわ。」
碧黎は、うーむと唸って首をかしげた。
「また愛だの恋だのの話であるの。我にはよう分からぬが…主を大事に想うこの気持ちのことであるなら、まあ分かる。」
維月は、同じように首をかしげた。
「どうでございましょうか。愛にもいろいろございまするし。お父様がどうお感じになっておるのか、私にも正確には分からぬので。」
碧黎は、頷いた。
「心でも繋いでみなければ分からぬわな。して、その話の続きは?」
維月は、頷いた。
「はい。それで、愛を告げたのですけれど、すげなく断られてしまうのですわ。その男のかたは、その女の身分とかそんなものではなく、そういった恋愛事に対して全く興味のないかただったのです。なので、誰に想いを寄せられても、同じように答えたとその女に答えて、その女は納得してそこを去るのですけれど…数日後に、それが偽りであったことを知るのですわ。」
碧黎は、片眉を上げた。
「偽り?…つまりは、断るために嘘を?」
維月は、頷いた。
「はい。女を傷つけないためとついた嘘だったのでしょう。実際には恋愛事に興味がないのではなく、たった一人の女を愛していて、それが報われない恋であったのですわ。女はそれを知ってショックで己で命を絶ってしまいます。そういうお話ですの。」
碧黎は、見るからに険しい顔をした。
「よう分からぬわ。我から見たら、皆愚かに見える。報われぬ相手を想い続けるメリットは何ぞ。拒絶された相手のために死するとは何ぞ。その女の相手に対する己の押し付けも気に入らぬし、その男のはっきりせぬ様にも腹が立つ。やはり色恋とは、我には縁遠いのであろうか。」
維月は、碧黎をなだめるように言った。
「皆、一生懸命なのですわ。己の気持ちと戦い、相手の気持ちが欲しいと願う。誰かを愛して、それが片恋であったなら、僅かばかりでも希望を持っておりたいと思うもの。報われぬ恋というて、どこかに希望があるのやもと思うておるからこそ続けられるし、想いを告げるのも、もしかして受け入れてもらえるのやもと希望を持って精一杯の思いで勇気を振り絞るのですわ。そして、相手に受け入れられない苦しさを知っている者は、相手を無碍に切り捨てたりは出来ぬのです。どうにかして傷つかぬ方法で断ろうとしたのでしょう。女は想いの大きさに耐えかねて、結局は死んでしまうのですけれどね。」
碧黎は、じっと維月を見た。
「維月…本当の優しさとは、何であると思う。」
維月は、急に碧黎が真面目な顔になったので、何事かと姿勢を正した。
「本当の優しさ、でございまするか?」
碧黎は、頷いた。
「我は、その男が悪いと思うぞ。女にしてみれば、主だから駄目だと断られれば、それはつらいであろう。だが、後になればどうか。」
維月は、ためらいがちに碧黎を見た。
「後に…それは、尾を引いておるのではありませぬか?」
碧黎は、苦笑しながら首を振った。
「まあ、そうやもしれぬが、それでもそこに偽りがないのなら、死するほど苦しみはせなんだだろう。与えてはならぬ希望もあるのだ、維月。女は、誰も愛したことがないのなら、己がそれを教えようなどと都合の良いように考えたやもしれぬではないか?それが、希望よな。だが、実際にはそんなものはない。それを知った時、絶望する。だから傷は深いのだ。」
維月は、それを聞いて、確かにそうかも、と思った。まさか、この父から恋愛の心情を聞くことになろうとは。
「まあ…確かにそうですわ。では、嘘をつくことは偽善であると?」
碧黎は、困ったように笑って、側の池へと視線を移した。
「どうであろうの。我も実際に経験した訳ではないゆえ、よう分からぬが。しかし、相手が真剣であれば真剣であるほど、こちらも真剣に答えねばならぬものだと思うぞ。嘘など以ての外。バレることがあるのだしの。そして、それは往々にして恨みなども伴うことが多い。なので、もしも我ならば己の気持ちをそのまま偽りなく答える。それが、相手に対しての優しさであり、誠実さであろう。」
維月は、ただただ感心してそれを聞いていた。まるで、子供の頃に帰ったようだ。父が、こうしていろいろなことを語るのを、抱き上げられた腕の中で、憧憬の気持ちで父の顔を見ながら聞いていた、あの頃…。父は、あの頃から少しも変わっていないのだ。やはり、誰に教えられなくても、碧黎は回りを観察していてよく見ている。そして、学んでいるのだ。何も知らないなんて、思った自分が悪かったのかも…。
維月は、碧黎の胸に頬を摺り寄せた。
「お父様…。」
碧黎は、驚いたような顔をしたが、微笑んで維月を抱きしめた。
「何ぞ?ここ数日はようこうやって我に身を寄せて参るの。まるで妃のよう…維心の幸福な気持ちがようわかることぞ。」
維月は、碧黎を見上げて微笑んだ。
「幼い頃より、私にこうしていろいろお教えくださったなあと思い出したのですわ。やはりお父様は、心より尊敬致しておりまするわ。」
碧黎は、ふふんと笑うと維月の頬を手で包んで額をつけた。
「その尊敬の気持ちが、また愛情へと変わるのであろう、維月?しかしまあ、これは我の考えであって他は知らぬぞ?何が正解であるかなど、結局誰にも分からぬのだ。我とて、人や神の営みなどあまり分からぬのだからの。」
維月は、頷いた。
「それでも、私はお父様を信じまするわ。」
碧黎は、維月に軽く口付けた。
「愛い娘よ。」
そうして、二人が笑い合いながら庭を宮へと向かって歩いているその脇から、結蘭がそっと出て来た。二人の背後から歩いて近付いていて、まだ維月はそれに気付いていなかった。




