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愛しい夜

凜は、学校を卒業してから宮での仕事についていた。侍女として、一般の神とは違う細かな所までの礼儀を叩き込まれ、とにかくは神らしく、と、毎日必死で働いていた。

唯は、父が助けられないという事実に打ちのめされてから、学校にも満足に通えず、与えられた小さな家でただ毎日鬱々と過ごしている。凜は、自分がしっかりして唯を支えなければと、一生懸命だった。神世では、こうして王の結界の中に置いてもらえるのがありがたいのだと、もう知っていた。そして、置いてもらうためには、王に仕えて王のために働かなければならないのだ。唯が働けない以上、自分が二人分働かなければいけないと、凜は思っていたのだ。

宮の中を、蔵から出した茶葉の袋を持って歩いていると、聞きなれた女の声がした。

「凜殿。」

凜は、振り返った。そこには、同じ侍女である仲の良い女神が立っていた。

「百合殿?どうしたの、茶葉なら持って参ったけれど。」

百合は、首を振った。

「違うの。王から奏様のご様子を、よく見ておくようにと言われておるでしょう。最近、何もお口になさらなくて、やつれていらっしゃるから。」

凜は、頷いた。確かに、龍の皇子の皇女だと聞いている奏は、最近塞ぎ込んで部屋から出なくなってしまった。寝台に臥せっていることが多く、理由を聞いても頑として言わないので、王もほとほと困られているらしい。

「ええ。ただ今は、あなたが当番なのではなかった?」

百合は、困ったように頷いた。

「そうなの。でも、我は翔馬様から本日の侍女の手習いに出るように言われておって、時間が重なってしまっておるの。凜殿は、これよりどちらの方へ参る予定?」

凜は、首をかしげた。

「…ああ、我はもう終わりであるわ。本日は夕方までであったから。では、百合殿が戻られるまで、奏様のお側に居ましょうか?」

百合は、嬉しそうに微笑んだ。

「ああ、助かるわ!本日は十六夜様も降りておられるから、お世話に侍女があちこち出ておって、手が足りないところだったの。よろしくお願いね。一時ほどだと思うから。」

凜は、頷いた。

「ええ。ではね。」

凜は、とりあえずこの茶葉を奥宮の棚へ持って行かなければと、足を速めた。


凜が、茶葉を所定の場所へと収めて、同じ奥宮にある奏の部屋へと急いで向かうと、向こうから蒼がきょろきょろと辺りを見回しながら、明らかに何かを探している風で早足に歩いて来るのが目に付いた。凜は、慌てて頭を下げた。

「王。何かお探しでしょうか。」

蒼は、凜を見ると慌てて駆け寄って来た。

「凜か。この時間は誰が奏の世話を?」

凜は、ためらったように言った。

「私が。百合でございましたが、侍女の手習いの時間を重なっておるので、代わりに参りました。」

蒼は、凜をじっと見た。

「ならば聞くが、奏はどこに居る?」

凜は、え、と口を押さえた。

「今参ったばかりで…お部屋には、いらっしゃいませぬか?」

蒼は、勢い良く首を振った。

「居らぬ。だから聞いておるのだ。」

凜は、慌てた。起き上がることも出来ない状態だった奏が、いったいどこへ?

「分かりませぬ。申し訳ございません…。」

凜が、どうしたらいいのか分からず頭を下げると、蒼は険しい顔をして、くるりと踵を返して、歩き出した。

「嘉韻!十六夜!」

凜は、がくがくと震えた。私が、茶葉を置きに行ったりしたから。奏様から目を離したから、こんなことに?!

宮は、大騒ぎになった。


公青は、すっかり日が落ちた山の端を、まだじっと見つめていた。あの、山の方向…あの向こう辺りに、月の宮がある。

あれから、数週間が経っていた。それでも、全く色あせることのない自分の心を、公青は持て余していた。いつまで待てば、全てが過去になるのだろう。思わぬようにと思っても、気が付けばじっと、奏の気を探る自分がいた。月の結界の中など、公青の力では見ることも出来ないのがわかっていたのに、それでも諦めることの出来ない自分が、公青はもどかしかった。

このままでは、政務にも支障が出て参る…。

公青は、うまく気が補充出来ず、力を失って行く自分を、どうしたらいいのか分からずに居た。

「王。」いつの間にか入って来ていた、相良が頭を下げた。「本日は、もうお休みになられては。治癒の者達も、王のご体調を気にしており申した。気の補充がうまく行っておられぬのだとか…我も案じておりまする。」

公青は、面倒そうに手を振った。

「己のことは、己が一番分かるわ。案じずとも、すぐに良うなる。」

しかし、相良は食い下がった。

「王、しかしながら、いつも遅くまでこうしてただ居間に座っておられて、それがお体に良いはずがありませぬ。どうか、本日はもう、奥へ。」

公青は、相良を見た。本当に案じているのは、その表情から分かった。臣下の気を、揉ませてはならぬ。

公青は、立ち上がった。

「わかったわかった。面倒なヤツよな。何でもないというのに。今日は、もう奥へ入ろうぞ。」

相良は、ほっとしたように表情を緩めると、頷いた。

「はい、王よ。おやすみなさいませ。」

そうして、相良はそこを出て行った。公青はそれを見送ってから、奥へと重い足を引きずるようにして入って行った。

公青が入って行くと、真っ暗だった奥の間が薄ぼんやりと灯りが着いたようになった。公青自身が行なっていることで、神なら皆自分で気を放って辺りを明るくする。

その時、部屋の隅で、微かに何かが動く気配がした。

「!」

公青は、それを気取ったが、そ知らぬふりをした。こんな所にまで入って来るのは、刺客か妃になろうと忍んで来る女ぐらいのもの。どちらにしても、自分がここへ入って来るのを待っていたのだろう。

だがしかし、結界には何も掛からなかった…。

公青は、これは手強いやもと思った。自分の結界を、自分に知られず抜けて来ることが出来るヤツなのだ。

こちらが気取っていることを、もう気づかれているやもしれぬ。

公青は、そう思いながらも、いつものように寝台へと歩み寄った。袿を脱ごうとすると、その影はふらふらとこちらへ出て来た。

公青は、がばっと振り返って袿を相手に引っ掛けると、相手の腕を掴んだ。

「きゃ…!」

女の声。公青は、掴んだ腕はそのままに、その袿を引いた。

「我の寝所へ忍ぶなど、許されぬことぞ!」そして、相手の顔を見て、固まった。「お…なんだと…?!」

公青は、今自分が見ているものが、信じられなかった。そして、暗いせいなのかと暗闇など物ともしない視力であるのも忘れて、灯りを明るくした。

「お、お許しくださいませ…。」

そこに居たのは、紛れもなくやせ細った姿の、奏だった。


公青は、しばらく凍りついたように奏の顔を見ていたが、はっと我に返って、言った。

「主…なぜにこのような所に居る!結界は…我の結界があったのというに!」

奏は、震える声で答えた。

「祖父から譲られた月の力がありまする。祖父ほど大きな力はありませぬが、それでも己の身を包んで結界を抜けることは容易で…勝手なことをして、申し訳ありませぬ。」

公青は、目に涙を溜めながらじっと自分を見上げて言う、奏の姿に心を痛めた。このように、やつれてしもうて。あれほどに、少し幼くふっくらとしていた頬が、こけてしまっている。こんな、姿になって…。

「…なぜに、参ったのだ。蒼はどうした。このような所へ皇女が来るなど…許されるはずはなかろう。」

奏は、ぽろぽろと涙を流した。

「公青様、我は公青様にお会いしとうで、毎日そればかりを思うておりました。祖父は公青様は来ないの一点張りであられるし、文を遣わせることも、侍女たちが未婚の皇女がそのようなことを、と言ってさせてくれませぬし。でも、毎日こちらの空を見上げては、公青様のことばかりを思うてしまって…。侍女が離れた隙に、宮を出て飛んで来てしまいました。我は…どうしてもお会いしたかったのです。」

公青は、涙ながらに訴える奏の姿に、胸が張り裂けそうだった。我とてそうだった。だが、我はただじっとここに篭っていたのに。奏は、女の身でたった一人でここまで参ったというのか。これほどに弱っているのに…。

「…奏…」公青は、奏の手をそっと引くと、抱き寄せた。「我とて、主を想うてここに篭っておった。だが、我らは相容れぬ。主が望むのは、想い合う唯一の婚姻であろう?主が龍であるゆえ、我はそれを守ることが出来ぬ。なぜなら、臣下のために跡取りを残す責務があるからだ。主が龍しか生まぬ以上、我は他の女を娶らねばならぬ。そうなると、主も苦しかろう…我とて、主を愛人扱いなどしたくない。他の女など、主さえ居れば要らぬ心持ちであるのに、叶わなくなる。」

奏は、まだ涙を流していたが、公青を見上げた。

「我は、お側にさえ居れれば良いのです。お顔も見られない毎日に、本当にそう思いました。公青様の、お側に居たい。共に居れさえすれば、我は何事にも耐えまする。どうか…我をお側に置いてくださいませ。」

公青は、涙ながらに訴える奏に、どうにかして突き放さなければと思うのに、どうしてもその体に回した腕を解けない自分と戦っていた。奏を娶れば、不幸にする。だからこそ、ここまで堪えたのではなかったか。ここで突き放さなければ、全てが無駄になってしまうのに。

「奏…つらい婚姻になると、わかっておるのに。主は、我とその淵へ身を投げると申すか。」

奏は、公青の頬に触れた。公青は、自分も涙を流しているのを、その時知った。奏は涙を流したまま、微笑んだ。

「はい。だって、本当に想うておるのですもの。お側に居るためなら、我は何事も辛抱致します。」

公青は、目を閉じて自分の頬に触れる奏の手に手を重ねた。そして、それに頬を摺り寄せて、言った。

「我も覚悟しようぞ。」と、奏に唇を寄せた。「誰に批判されようとも、我は主を守り抜く。我が正妃に、奏。」

そうして、そのまま二人はそこで、共に夜を過ごした。

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