問い
蒼は、困っていた。
いつも何某か困ったことが起こるのだが、今回はその困り事の一つが無くなるというのに、すっきりしない気持ちになるのに困っていたのだ。
公青が、この間こちらへ来た帰り、挨拶に来て、奏の教育が終わったと蒼に言った。そして、そうなると結蘭をこちらへ置いておくことも出来ないので、宮へ引き取るので日を決めよ、と。
しかし、その時の公青の様子は、常の公青ではなかった。険しく口を結び、いつもは必ず出る軽口も全く出さず、ただ、淡々と述べて、何があったと聞く蒼に、何も無いと答えて去ってしまった。
だがしかし、結蘭もやっとこちらに慣れて、安定して来たばかりだった。今ここでまた環境を変えて、実家へ帰ってせっかくの回復が無駄になってしまうのではないかと案じられた。奏のことは、蒼もどうしたらいいのかと思っていたので、公青が細かい所を直してくれて、すっかり王族らしくなったのが嬉しかった。公青は無理も言わず、奏にちょっかいを出すこともそんな様子も全くなく、安心して任せていられた。奏もそれはよく公青に懐いていて、来るのをそれは楽しみにしていたものだった。
それなのに、公青はひと月経っても来る様子はなかった。
結蘭のことは、蒼がこちらから今帰すのは結蘭のためにならないと言って、宮へもうしばらく残そうかと思っていた。しかし、公青は…いったい、何があったのか。
「お呼びでしょうか。」
蒼が考え込んで居間に座っていると、奏が頭を下げて入って来た。蒼は、頷いた。
「奏。座るが良い。主に聞きたいことがあってな。」
奏は、言われた通りに座って、不思議そうに蒼を見た。
「はい。何でございましょうか?」
蒼は、頷いた。
「公青なのだが。」奏は、パッと明るい顔をした。蒼は続けた。「その、今月は来ないのだ。」
途端に、奏は消沈した顔になったが、頷いた。
「お忙しいのでしょう。先月来られた時も、お悩みのご様子でありましたし。」
蒼は、身を乗り出した。
「何かあったのだろうか。奏、知らぬか?」
奏は、驚いた顔をしたが、首をかしげた。
「いいえ…あの折も、臣下達がうるさいと申して、それだけでありました。深刻そうでもあられなかったけれど…ですが、確かに、ウサギ小屋から戻る頃には、かなり険しいお顔をなさっておいででしたわ。いつもはお手を取ってくださるのに、その時はそんなことにもお気が回らないようで、先にさっさと歩いて行かれましたし。思えば我などに、本当のお悩みなどお話くださるはずもありませぬ。子供でございますものね。」
蒼は、首を振った。
「主は子供ではない。もう成人しておるではないか。それに、公青は主に教えることはもう無いと言うておった。つまりは、主のことを一人前と認めたということだ。」
奏は、驚いたように蒼を見た。
「え…では、もう公青様は、こちらへいらっしゃらないのですか?」
蒼は、逆に驚いた顔をした。
「オレに用がある時以外はの。奏…主、何も聞いておらぬのか?」
奏は、小さく震えながら、首を振った。
「何も…何も聞いておりませぬ。ただ、また来月、と申し上げたら、寂しげに微笑まれただけで、お返事くださいませんでしたけれど…もしかして、もう、来ないおつもりで…。」
奏は、横を向いた。必死に涙を堪えているらしい。蒼は、兄のように思っていただろうに、無理はないと思い、奏の肩に手を置いた。
「奏。公青も王なのだ。いろいろと宮のことも忙しいのであろう。まして、今新しい妃をどうするかと、臣下達がもめているのだそうだ。放って置けないだけで…また、来るであろうよ。」
奏は頷いたが、心ここにあらずの状態だった。蒼は、ため息をついた…これは、一度聞いて来た方がいいかもしれない。何か、宮で起こっているのかもしれないのだから。
維心は、憮然として蒼を迎えていた。その横では、維月が気遣わしげに維心を見上げている。蒼は、また邪魔をしたのか、でも、今日は気を遣って朝来たのに、と思いながらも、気付かぬように入って行った。維月が、小声で維心に言う。
「維心様、ご政務もおありだったのですから。どうせ、起きねばならなかったのですわ。ですから、ご機嫌を直して。」
それを聞いた蒼は、蒼が到着した時、まだ二人が奥で居た事を悟った。だが、起こされただけでこんなに機嫌が悪くなるはずはない。やはり、邪魔をしたのだろう。
「維心様、朝早くから申し訳ありません。お聞きしたい事があって、参りました。」
維心は、まだ憮然としていたが、ため息をついて頷いた。
「座るが良い。」
蒼は、頭を下げてから、二人の前に座った。維心が言った。
「朝から何を聞きたいと申す。政務まではまだ時があったのに、兆加が起こしに参った。」
維月が、横ではらはらしているような顔で、蒼を見た。蒼は、気にしていないように言った。
「はい。あの、こちらでは最近、神世で何か異変など気取ってはおられませんでしょうか。」
維心は、片眉を上げた。
「異変?いや、特に何も。箔翔も落ち着いておるし、公青は…ま、妃がどうのと臣下が騒いでおって、こちらにも候補はおらぬかと兆加宛にあちらの臣下から打診があったとは聞いておるが、それぐらいぞ。変わった事などないの。」
蒼は、頷いた。そうか…ならば、やはり大したことはないのだろうが。維心は、続けた。
「何か気になる事でもあるのか?」
蒼は、顔を上げた。
「はい。公青には、結蘭殿を月の宮で療養させたいと言うので、あの宴の折から預かる代わりに、奏の教育を任せておったのですが、兄のようにしっかりと躾てくれたのです。それは良かったのですが、ひと月ほど前に、それを急に断って、結蘭殿を宮へ帰すと…。」
維心は、維月と顔を見合わせた。
「…それの、何が悪いのだ。兄が実家へ引き取ると申しておるのだろう?」
蒼は、険しい顔をした。
「確かにそうなのですが、あまりに急なのです。結蘭殿は、心労から回復して参ったとはいえ、まだ本調子ではなく、妹思いの公青らしくない事で。しかも、突然の事で、かなり険しい表情で、様子がおかしかった。何かあったのは間違いないのですが、それが何なのか、全く分からないのです。」
維月が、口を挟んだ。
「奏は何と言っておるの?何か知っておるのでは?」
蒼は、首を振った。
「何も。奏自身、急に自分に何も言わずに来なくなった事にとてもショックを受けていて、今は臥せったり、起きても沈んだりで、侍女をも乳母も困っているんだよ。」
維心と維月は、また顔を見合わせた。
「…分からぬ。公青の宮で何が起こっておるのかまで、こちらには伝わって来ぬ。だが、あれの統治は絶対で、あの島は安定しておることは確かぞ。何かあるとしたら、公青自身の問題ではないか。どちらにしても、我はそんなに親しい訳でもないし、分からぬな。」
蒼は、仕方なしに立ち上がった。
「では、直接に公青を訪ねてみます。本当は大層になるかもなので、あちらにまで足を伸ばしたくは無かったのですが。」
維心は、頷いた。
「そうするが良い。主も一度、公青を訪ねても良い頃よ。あればかりが来ておっては、内情も分かるまい。」
蒼は、頷いて頭を下げた。そして、そこを出て行った。
維月は、心配そうにそれを見送って、言った。
「あの子も気苦労が絶えぬこと。他の宮の事まで案じて。放って置けない性格なのでしょうが。」
維心は、ため息をついた。
「あれは王であるのに何から何まで抱え過ぎなのだ。嘉韻にでも調べさせれば良いのよ。我が義心を使うようにの。」
維月は、維心を見上げた。
「確かにそうなのですが、人任せには出来ぬのですわ。そういう子ですから。」
維心は、維月を抱き締めた。
「それにしても、あやつは我が何でも知っておると思うてからに。我でも知らぬ事もある。このように朝から…せっかくに良い所であったものを。」と、維月に頬を寄せた。「のう、奥へ戻らぬか。政務が終わるまでなど待てぬ。このように収まらぬ心地のままで、謁見など出来ぬ。」
「維心様…」
維月が困って何と言って納得させようかと悩んでいると、兆加が入って来て頭を下げた。
「王。少し早いお時間ですが、もう皆様お待ちでございますし、そろそろ謁見の間へ。本日は数も多うございますので。」
維心は、グッと眉根を寄せた。兆加は驚いて頭を下げ直した。維月は、慌てて維心に言った。
「さあ、では、謁見の間へ。早く始めれば、早く終わりまするわ。きっと昼過ぎには…。」
維月が兆加に目配せすると、兆加は慌てて言った。
「はい、王妃様。此度は難儀な事を持って参ったかたはいらっしゃいませぬし、早よう始めれば、恐らくそれぐらいには。」
維心は、じっと考えていたが、頷いて立ち上がった。
「…参る。」
「いっていらっしゃいませ。」
維月も、立ち上がって頭を下げた。維心はまだ不機嫌なまま、謁見の間へと出て行った。兆加はホッとしたような顔をしながら、維月に頭を下げて、維心の後を慌ててついて出て行ったのだった。