心の底で
月見の宴から数週間、月の宮はあちこちの宮からの預かりものを抱えながらも、落ち着いた日々を送っていた。
結蘭は、月の宮の癒しの気のお蔭もあって、日々明るい表情をするようになっていた。公青も、約束を違えるこtもなく、ひと月に一回、きっちり通って来て、結蘭の様子を見、奏の教育を行なっていた。教育と言っても、庭や応接間などで話をして、その時にその内容で神世と食い違う場所を直すぐらいのことで、奏は教育されているとは思っていないようだった。なので、奏は公青の顔を見ると、嬉しそうに寄って来るようになった。
まるで、飼い慣らされた小動物のようよ。
公青は、その様子を見て、そう思って苦笑した。実は結蘭も子供の頃は、こうやって公青の姿を見ると嬉しそうに寄って来たものだったのだ。その様に、守ってやらねばと思い、公青は結蘭を大事に育てたのだ。
「公青様!」
奥宮の前まで来た公青に、今日も奏は駆け寄って来た。結蘭の所へ行った後、自分の所へ来るのを知っている奏は、奥宮の入り口まで出て来て待っていたのだ。公青は、微笑んだ。
「待っておったのか、奏。」
奏は、頷いた。
「はい。お祖父様から、公青様がお越しになっておられると聞いたので、いつ来られるかと思って、こちらで。」
公青は、首を振った。
「奏、それがいかんのだ。皇女は、そのようにそわそわと端近へ出ておってはならぬ。もっとおっとりと、部屋でただ侍女が呼びに参るのを待っておったら良いのだ。龍の王族の血を引いておるのに。」
奏は、あ、と口を押さえると、下を向いた。
「申し訳ありませぬ。」
途端に、奏がしょんぼりとしてしまったので、公青は慌てて言った。
「まあ、その取り澄ましておらぬところが主の良いところでもあるがの。」と、奏の手を取った。「さ、庭へ参ろう。なんと?手が冷えておるの。まさか、主ここにどれほどに居ったのだ。」
奏は、おずおずと顔を上げた。
「あの…公青様が、いらしたと朝聞いた時から。」
公青は、目を丸くした。ならばもう昼なのだから、数時間もここに居たことになる。
「何と、このような冷える場で。もう霜月であるのに。いくら気を調整しても、このように風の通る場では冷えるであろうが。」と、急いで自分の気を使って奏を包んで暖めた。「ほんにもう…我が結蘭の所へ行ってからこちらへ来るのは知っておるだろうが。ならぬぞ、奏。体を壊したら何とする。ならば本日は応接室へ参ろう。このうえ庭で体を冷やしてしもうてはならぬゆえ。」
奏は、戸惑うように足を止めた。
「でも、本日は庭のウサギを共に見ようと思うて、楽しみにしておったのです。侍従が餌付けしてくれて…慣れて参って、とてもかわいいんですの。」
公青は、首を振った。
「本日はやめておこうぞ。また来月も来るのだ。その時で良かろう。とにかくは、しばし体を温めて。」
奏は、涙ぐんだ。公青は驚いた…本日ウサギを見れないぐらいで?
「公青様と、共に見たいと思うておったのに。我が、このようなところで、じっと待っておったから…。」
ぽろぽろと涙を落とす奏を見て、公青は何か自分がとんでもなく悪いことをしたような気がした。急いで懐から懐紙を出すと、奏に差し出した。
「泣くでない、ウサギぐらいで。ならば、このまま参ろうぞ。我が気で保温するゆえ、我の側を離れぬと申すなら、行っても良いから。」と、懐紙を手でくしゅくしゅと柔らかくすると、奏の手に押し付けた。「ほれ、早よう拭いて。」
奏は、それを驚いたような顔で受け取ったが、ふふと笑って、頷いた。
「はい。」と、それで涙を拭いた。「母が、よくこうして懐紙を渡してくださった。懐かしいこと。」
公青は、今泣いたのにもう笑ったので、驚いた。こやつは…結蘭よりも、コロコロと表情が変わる。すぐに変わるので、目が離せない。確かに、自分は子育てというものに、慣れている。結蘭をこうやって世話したので、すんなりこういうことが出来るのだ。蒼は、そんなことが分かっていたのかも。
公青はそう思いながら、奏が冷えないように気を遣い、庭へと出たのだった。
北の庭の端の方まで歩いて行くと、そこには小屋が建ててあった。ウサギ用にしては、かなり大きい。地面には穴が掘ってあって、そこからウサギは出入りしているらしかった。
奏は、嬉しそうに公青を振り返った。
「穴は、ウサギが自分で掘ったのですわ。害獣も居ないので、のびのびとここへ餌を食べに来て、温かいので寝床にしています。侍従が、我のために建ててくれたのですわ。よく出来ておるでしょう。」
公青は頷いたが、ウサギにはもったいないほどがっしりとした造りの小屋だと思って見ていた。中を覗くと、風を避けるために、また板の小さな仕切りのようなものがあって、干草が山ほど置いてあった。奏は、指を差した。
「ほら、あちら。あの二匹は、夫婦ですの。」
小さな茶色いウサギと、白いウサギが並んで鼻を動かしていた。寒いのか、体は干草の中に埋まっているが、身を寄せ合っていた。
「よう出来た小屋よな。ここなら、寒さも凌げるだろう。」
奏は、頷いた。
「はい。毎日様子を見に参りまするが、皆元気ですの。春には赤ちゃんがみれられるかもって、今から楽しみにしておるのです。」
奏はとても嬉しそうだ。公青は、動物でさえも、己で相手を見つけて来るのにな、と思っていた。公青の宮では、妃が一人に、しかも全く通わない妃一人になってしまったことを受けて、新しい妃をと選考をして毎日うるさく言って来る。しかし、もう二度と面倒な思いはしたくないと思っている公青は、それを尽く跳ね付けていた。今度こそ、お互いに幸福になれる縁で宮へ迎えたい。宮と宮の間柄がどうだと言うのだ。うまく行かねば、結局関係が悪くなるだけではないか。
公青が、奏が居るのも忘れてウサギを見ながらじっと考えに沈んでいると、奏の声が、不意に言った。
「…何か、お気に病むことでもおありですか?」
公青は、ハッとした。奏の方を見ると、気遣わしげに公青を見上げている。公青は、自分が暗い顔をしてそこに立っていたことを知り、慌てて首を振った。
「いや、何でもない。」
それでも、奏は公青の顔を覗き込んだ。
「何でもないお顔ではありませぬわ。ここには誰も居られませぬし、どうぞお話になって。あの、聞くしか出来ませぬけど。」
公青は、眉を上げた。この、皇女の振る舞いから教えねばならない奏に、心配事を言えと申すか。
しかし、こうも思った。何も知らない奏だからこそ、言えるのかもしれぬ。
「…臣下達が、最近うるそうての。」公青は、困ったように微笑みながら、言った。「我には臣下が決めた妃が二人おったが、どちらにも通うておらなんだ。ゆえ、一人は父親が辛抱堪らず引き取った。一人は残っておるが、やはり通わぬのは同じ。なので臣下達は、我に新しい妃をと、連日矢のように申すのだ。だがしかし、我は気付いたのよ。本人の確認もなく、宮同士臣下が勝手に決めて参るのは良うない。やはり、心底共にと思える女を娶った方が良いのだとの。なので、鬱陶しいと悩んでおったのだ。そんなに簡単に、想い合う仲の女など、見つかるはずもないゆえに、臣下を黙らせるわけにもいかぬしな。」
公青は、言ってしまってから、子供に何を言うておるのか、と自嘲気味に笑った。しかし、奏は言った。
「…公青様の申される通りだと思いまするわ。ですが、臣下達がそのように申すのも、また分かるのです。公青様は、力のある神。その王が、いつまでも独り身であられて、お世継ぎも出来ないことになれば、宮の存続にも関わって参るのです。皆、公青様に頼っておるからこそ、その力が急になくなることを恐れておるのですわ。また、そのようにうるさく申すのも、きっと公青様がお優しいからではないでしょうか。王ならば、きっと真心込めて頼めば、聞いてくれるだろうと。自分達を見捨てるはずはないと、一種の信頼からでございますわね。」公青が、呆然とそれを聞いていると、奏は、ふふと笑った。「臣下達が甘える気持ちも分かりまするわ。我も、こうして公青様に甘えてしまっておるのですから。いつなり、無理を聞いてくださる。本当は、ウサギを見るなど公青様にもご退屈であられるでしょうに…こうして、付き合ってくださるのですもの。」
公青が、ただ呆然と黙っているので、奏はウサギ小屋の入り口へ行って、側の籠に入れてあった、野菜の皮などを持って中へと入って行った。そして、そこで餌箱に餌を足している。その姿は子供のようでもあり、また一人前の女神のようでもあった。奏は、成長しているのだ。子供だと思っていたが、そうではない。自分の子供っぽい所も、理解している。恐らく、普段は見せないのだろう。そういえば公の場で、奏が泣いていたり大笑いしていたりするのは見たことがないからだ。気を許しているからこそ、奏は自分の前で、あれほどに子供であったりするのだ。
だが、中身はとっくに成人しておるのだ。
公青は、その時、それを悟った。そうして、小屋の中からこちらを見て微笑む奏を眺めながら、悟った。自分が奏に悩みを言ったもの、奏が分からないと思ったからではなかった。結蘭のように細部まで手を掛けて世話をしていたのも、蒼の手前適当に出来ぬと思ったからだと思っていたが、そうではなかった。自分は、あの奏という存在を、大切に思っていたのだ。王の自分が、断ろうと思って断れないことなどない。それなのに断らずに、こうしてここへ通っては奏と話していたのは、ひとえに自分が奏に会いたかったからなのだ…。
公青は、その日帰る間際に、奏の教育はもう済んだ、と蒼に伝えた。そして、結蘭を宮へ連れて帰るので、日を決めよと言って、驚く蒼には目もくれずに、自分の宮へと帰って行った。