始まり
公青は、いくら待っても侍女どころか宮の誰も出て来る様子が無いことに、驚いていた。年頃の…と言って、まだ顔立ちには幼い所が残る皇女を、他の男と歩くがままにして平気だとは。蒼に意見しておかねばならぬ。
公青がそんなことを思っているとは知らず、奏は嬉しそうに北の庭をあちこち案内してくれる。公青は、なるべく距離を保って、もしも誰かに見咎められても奏の名誉が傷つかないように配慮しながら、そんな奏の話に付き合っていた。
奏は、それは楽しげに公青の隣りではしゃいでいた。奏の美しさは、間違いなく龍の王族の血を引くそれで、それなのに親しみやすく、取り澄ましたところの無い完璧な女だった。公青が今まで会った皇女達は、どこか自分が王族であることを鼻にかけたような所があって、プライドが高く、面倒だと思わせる所があった。しかし、月の宮という場所のせいもあるのか、この奏はそんな所が欠片もない。素直で表情をくるくると変え、時に人のような仕草をすることもあった。公青が我知らず、まじまじと奏の顔を見ていると、奏はそれに気付いて少し、恥ずかしそうにうつむいた。
「公青様…?あの、どこかおかしいでしょうか。」
公青は、ハッとして、急いで作り笑いをした。
「ああ…いや、かんざしが歪んでおる。」
と、奏のかんざしを挿し顔した。奏は、顔を赤らめて言った。
「まあ、ありがとうございます。公青様は、お優しいかたですわね。」
公青は、驚いた顔をした。ずっと妹の世話をしていたので、こんなことには慣れている。しかし、これほど素直に礼を言われたことは一度も無かった。というよりも、皇女達はあまり礼を言い慣れていないので、その言葉にあまり心を感じないからだった。
「妹が、居るゆえ。」公青は、戸惑いを隠すように、横を向いて言った。「主のような年の頃、よう手が掛かったものだった。それを思い出すの。」
奏は、興味を持ったようだった。
「まあ。妹君は、今どちらに?」
「ここの、我の客間に。」奏は、驚いたような顔をしたので、公青は苦笑して続けた。「なに、嫁に行っておったのだがな。このたび戻ることになったのだ。ま、いろいろあるのだ。王族の婚姻は、宮同士で決めてしまうことがあるゆえ、うまく行かぬことが多い。仕方のないことよ。」
奏は、珍しく難しい顔をした。
「お父様もお祖父様も…それに、お祖母様も、我には思う所へ嫁げば良いと申してくださいます。なので、勝手に決められてということは、我に限ってはないのですわ。我は、婚姻とは想うかたの所へ参るのだと思うておりました。でも、本当にそうやって宮のために嫁ぐかたがいらっしゃいますのね…。」
公青は、驚いた。王族でも、そういう考え方で育てているのか。
「…ならば、主は気をつけねばならぬぞ。いくら月の宮の中とは言うて、こういった催しの時には、我らのような外部の王が幾人も滞在する。我であったから良いが、他の王なら少しでも気に入ったらそこいらへ連れ込んで簡単に娶ってしまうぞ。こうして二人きりで庭を案内するなど…危なくて仕方がないわ。もっと警戒せよ。でなければ、思ってもみない所へ嫁に行かねばならなくなるぞ。」
奏は、叱られたと思ったらしい。しゅんと下を向いて、頭を下げた。
「はい。申し訳ありませぬ。」
公青は、罪もない子供を怒鳴りつけたような気持ちになって、奏の肩に手を置いた。
「ああ、叱ったのではない。気を付けよと申しておるだけぞ。そのように暗くなることはないのだ。」
奏は、それを聞いて嬉しそうに公青を見上げると、華のように微笑んだ。
「はい。本当に、公青様はお優しいかたですわ。」
公青は、思わず息を飲んだ。なんと愛らしい…素直な女よ。
公青が絶句していると、奏は不思議そうな顔で公青をじっと見上げた。
「公青様?」
公青は、我に返って奏から手を放した。
「ああ…なんでもない。」と、宮の方を向いた。「そろそろ戻らねば。主の侍女は何をしておるのだ。このように長く放って置いて。」
奏は、気にする風でもなく言った。
「こちらでは侍女は呼ばねば来ないのですわ。それに、我が学校の図書室へ参ると行って出て参ったので、恐らくまだ書庫にでも篭っておるのだと思うておるのだと思います。そういえば、公青様には、祖父には会わずで良いのですか?」
公青は、頷いた。
「主の侍女を呼んでくれぬか。蒼に面会の申し入れを。」
奏は頷いた。
「では、我が。」
公青は、慌てて首を振った。
「だから、王族がそのように立ち働くのではない。」と、奏がびっくりしているので、続けた。「奏殿、身分というものがあるのだ。侍女に申しつけて、主は蒼が返事を返して参るまで、我の話相手にでもなっておれば良い。わかったの。」
奏は、頷いた。
「はい。」と、ふふと笑った。「まるで、お兄様のよう。公青様は、たくさんのことを知っておられまする。」
公青は、もはや諦めて答えた。
「まあ主より長く生きておるからの。」
そして、蒼には重々教育のことについて、話しておこうと公青は思っていた。
蒼は、居間で窓際に立って庭を眺めて考え事をしていたのだが、気配を感じて振り返った。
そこには、公青が憮然とした様子で立っていた。
「…何やら、機嫌が悪いようだな、公青。」蒼は言って、椅子を指した。「座るが良い。」
公青は、指された椅子にどっかりと腰を下ろした。
「主の宮は、宮の業務が滞っても侍女を休ませるのか。」
蒼は、それを聞いて合点が行った。なかなか蒼に取り次いでもらえなかったので、機嫌が悪いのだろう。
「すまないな。何しろ、オレは無理に働かせない主義なんだ。今日は皆帰るだけなんだから、別に問題ないだろうが。いつまでも残っているのは、主ぐらいのものだからな。」
公青は、蒼をちらと睨んだ。
「挨拶をしようにも、主に取り次ぐ侍女が居らぬのだからしようがないだろうが。それよりも、我が言いたいのはそんなことではない。主の宮の、教育のことぞ。」
蒼は、眉を寄せた。確かに昔はもっと人っぽくて、宮も神の宮らしくはなかったが、今はかなり改善されている。礼儀にも、問題はないはずだ。いくらなんでも、蒼は龍の宮ほど厳格にはしたくなかったのだ。
「宮の考え方もある。」蒼は、言った。「オレがこれで良いのだから、これで良いのだ。」
公青は、それでも厳しい顔で言った。
「月の宮が穏やかなのは知っておる。だがな、年頃の皇女に、侍女のようなことをさせてはならぬ。我がここへの取次ぎを頼もうと侍女を探しておったら、奏殿が声を掛けて参って、自分が取り次ぐなどと言いおった。その上、庭に話を振ったら、簡単に案内をとか申して、いくら待っても侍女すらそれを咎めに参らぬ。我であったから良いが、他の王なら渡りに船とさっさと連れて帰ってしまうところぞ。本人には全く危機意識もない。我が他の宮へ来てまで皇女に小言を言わねばならぬなど、あってはならぬだろうが。主はあの孫が、大切ではないのか。」
蒼は、そっちのことか、とバツが悪かった。そういえばそうなのだ。そういったことは全く教えて来なかった。晃維か和奏が教えておるものだと思っていたからだ。だが、実際は違った。西の砦でのびのびと育った奏は、紳士的な龍の軍神達に囲まれて、晃維に守られて、男を警戒することなどなく育ってしまった。月の宮は、なんと言っても寄せ集めであるし、それにここを訪れるのは神の王達やその軍神達と多種多彩であるし、そんなことでは簡単に略奪されてしまう、とそのつど言うのだが、あまり実感がわかないようだったのだ。
「それは、オレも教えておるのだが。」蒼は、下を向いて言った。「何しろ、本人の育った環境は良すぎたのだ。略奪に来るような者は居らぬ。西の砦の男と言えば、龍の軍神達ぐらいであったからな。龍は大変に紳士的であるし、晃維の娘を許しも得ずに略奪、などという考えの持ち主など一人も居なかった。」
公青は、顔をしかめた。
「だからといって、ここに居るのにこのままではならぬだろう。どうにかせねば。教育係でもつけてはどうか?」
蒼は、力なく頷いた。
「適当な者が居ったらそうする。」それを聞いて公青が、まだ文句を言おうとしたが、蒼は遮った。「して何か用があったから来たんだろう?なんだ?」
公青は、遮られて気分を害したようだったが、本来の目的を思い出して、頷いた。
「そうであった。結蘭なのであるが。」
蒼は、片眉を上げた。
「主、連れて帰るのだろう?」
公青は、困ったように深い息をついた。
「そのつもりよ。だが、あやつの沈んだ様を見ておると、どうしたものかと思う。このまま宮へ戻って、暗く過ごしても気持ちは晴れぬだろう。しばらく、どこかで気晴らしをさせたほうがいいのではないかと思うのだ。」
蒼は、首をかしげた。
「気晴らし?しかし…どこで?」
公青は、頷いた。
「ここには、学校というものがあるの。」
蒼は、ピンと来て首を振った。
「人世を学ぶ場であって、療養所でもなんでもないぞ!オレに世話を押し付けるな!」
これ以上面倒を抱えてやってられない。
蒼はそう言って抵抗したが、公青は言った。
「主に押し付けるつもりなどないわ。我が頻繁に様子を見に参る。ただ、場所を変えた方が良いかと思うて言うておるのだ。ここは癒しの気が降り注いでおるし、心の療養にはもってこいではないか。」
蒼は、ぐっと眉を寄せた。今さっき、凛と唯を頼むと知章に言われたばかりで、そっちのことも気遣わなければならないのに、その上結蘭まで抱えて責任を持てないと思ったからだ。
「居るだけならいいんだ。皇女なのに、放って置くわけにもいかないだろうが。ずっと気遣うなんて、オレだって暇ではないし、あっちこっちからいろんな神を抱えてていっぱいいっぱいなんだ!」
公青は、何とかして蒼に承諾させようと、説得モードに切り替えた。何しろ、ここは自分でさえ癒されて、心地よいのでしょっちゅう蒼に会うと言っては来ているほどの宮なのだ。月の浄化の作用は、神にとっては貴重だった。
「蒼。我とて好きでここへ置いて欲しいと申しておるのではないぞ。」蒼は、怪訝な顔をして、公青を見た。公青は続けた。「我とてあれを手元に置いて守ってやりたい。しかし結蘭はそれは沈み込んでしまっておってな。移動させるのもままらぬほど。宮へ帰れば出戻りの皇女と、臣下達に思われておるのではと、気にしてしもうて自害するのではないかと思われるほどなのだ。」
蒼の、公青を見る視線の圧力が、幾分弱まった。確かに、神世では出戻って来た皇女に対する風当たりはきついと聞く。なので、王は何とか次の嫁ぎ先を探して行かせようと、必死になるのだ…娘が不憫だからだ。
ここ月の宮は、そういった所は神世離れしていて誰も何も言わなかった。確かに、居やすいには違いないのだ。
蒼が少し軟化したように見えた公青は、続けた。
「確かに、主にしても厄介者と思うやもしれぬ。だが、宮でなくとも良いのだ。どこかの房にでも置いてやってもらえれば、こちらに我が宮の侍女をもっと連れて参って世話をさせる。我も、定期的に参って結蘭の面倒を見ようぞ。学校へ入れてくれとも言わぬから。」
蒼は、考えた。確かに、置いておくだけならいい。侍女も連れて来るというのなら、こっちで振り分ける必要もない。だが、本当に公青は来るのか。定期的の定期が、1年とか言うのじゃないだろうな。神の時間感覚はとてつもなく長いのだ。あり得ないことではない。
蒼は、幾分落ち着いたようになって、言った。
「本当に定期的に参るのだな?それは、最低でもひと月に一度でなければ、オレは納得しないが、出来るのか。」
公青は、少し驚いた。ひと月に一度?また頻繁な。
「そこまでは考えておらなんだが…。」
蒼は、更に言った。
「それから、そこらの房と言ったが、皇女をそんな所へやるわけにも行かないから、宮の客間に入れる。オレも、少なからず世話をしなければならないだろう。公青、なので主も、何か我が宮のためにしてくれないか。」
公青は驚いた。我に何をさせようと言うのよ。
「王の我に、いったい何をさせようと申す。」
蒼は、ニッと笑った。
「今さっきオレに言ったじゃないか。教育だよ。奏の。」
公青は、目を丸くした。教育?!我が?!
「それはないぞ、蒼!我に子育てせよと申すか!」
蒼は笑った。
「子育てって言っても、奏はああしてもう自分で何でも出来るんだから、要は神世のいろいろを教えてやってくれたらいいんだ。結蘭があれほど見事に育ったんだから、出来るだろうが。ひと月に一度だけだ。」
公青は、ぶんぶんと首を振った。
「やっと妹の手が放れたと思うておったところであったのに!」
蒼は、ふふんと笑った。
「オレだってやっと自分の娘が育って手が放れて落ち着いたところなのに、他の宮の皇女の癒しを手伝うんだからな。おあいこだ。」
公青は、恨みがましく蒼を見た。
「思っていたより策士よな、主。」
蒼は得意げに言った。
「主ほどではないがな、公青。」
そうして、心ならずも公青は、それから月に一度は月の宮へ、結蘭の様子を見るためと、奏の教育のために来ることになってしまったのだった。