再会
月の宮は、そう神が多いわけでもないので、静かで美しかった。公青は、もはや慣れた宮の中を、そういえば先触れを頼もうと侍女を探して歩いていた。
奥宮近くになって、広いホールに出た公青は、いくらなんでも勝手に奥宮へ入るわけにはいかないと、きょろきょろと回りを見回した。月の宮は、呼ばねば侍女が来ないので、面倒がないと思っていたが、こうなって来ると不便だと公青は思った。
「もし。」鈴を振るような声が、話し掛けた。「何かお探しでしょうか?」
公青は、渡りに船とそちらを振り返った。
「そうなのだ。蒼殿に、目通りを…。」
公青は、そこで言葉を失った。そこに立っていたのは、少し褐色掛かった黒髪に、見覚えのある深い青い瞳の、それは美しく愛らしい女神だった。これは、あの時会った、蒼殿の孫の…。
「公青様。」その女神は、微笑んで頭を下げた。「祖父に御用でございまするか?では、我がそのように。」
公青は、慌てて首を振った。
「そのような。主がそんな侍女のようなことをせずとも良いのだ、奏殿。急ぎではないゆえ。」
奏は、不思議そうに公青を見上げた。
「ですが、本日は昨日の宴で皆大変に長い間働きましたので、この時間侍女はとても少ないのですわ。月の宮では、侍女も侍従も軍神も、続けて働く時間が定められておりまして、非常時以外はそれを越えて働くことは禁じられておりますの。我は、気に致しませぬ。」
また奥宮へ行こうとする奏に、公青は急いで言った。それが月の宮の通常でも、龍の王族の子にそんなことをさせられない。
「我は構わぬから。そうよ、」公青は、目に付いた窓から、外を指した。「あの庭は、北か?」
急に話題が変わったので、奏はびっくりしたようにそちらを見た。そして、頷いた。
「はい、北のお庭ですわ。」
公青は、物凄い速さで考えた。
「北には、まだ出たことがない。こちらにも、滝があると聞いておるが。」
奏は、また頷いた。
「はい、ございます。ずっと奥へと行かねばなりませぬが…」公青が、まだじっとそちらの方を見ているので、奏は続けた。「では、私でよろしければ、ご案内いたしましょうか?あいにく、ご案内出来る侍女が居りませぬの。」
公青は、いくらかホッとした。侍女の真似でも、そちらの方がいくらかましだ。散策していたら、奏の侍女が慌てて迎えに出て来るだろう。若い未婚の皇女をほったらかしにするなど、我だったからいいが、他の王だったらそこいらに連れ込んでしまうところよ。
そう思ったので、頷いた。
「そうしてくれるか。」と、手を差し出した。「では、参ろうぞ。」
奏は、その手を見て少し頬を赤くした。父と祖父以外に、手を取られたことなどない。
しかし、奏はその手を恐る恐る取ると、公青と共に、北の庭へと出て行ったのだった。
箔翔が、帰還のために出発口で軍神達が揃うのを待って立っていると、何かが影が近付いて来て、頭を下げた。何だろうと、振り返ると、そこには凛が、一人で立っていた。
「主は、凛か。」
凛は、頷くと顔を上げた。
「箔翔様には、お約束通り私のような者のために龍王様の元へとご足労頂きまして、ありがとうございました。あの、お帰りになると聞いて、お礼だけでもと思って参りましたの。」
箔翔は、自分と同じ境遇でありながら、立場の違う凛を不憫に思いながらも、頷いた。
「すまぬの。力になってやれなんだ。しかし、ああ言われてしまうと、我も何も言えなんだ。仔細は、龍王妃殿から聞いたか?」
凛は、頷いた。
「はい。私達は、鷹王様のように対した血筋でもありませんでした。何ら、大きなことなど出来ない命。父を助けることが叶わないのが分かって、とてもショックではありましたけれど、もしかして他に何か方法があるかもしれませんし、父が病で命を落とすまでは、諦めずにこちらでお世話になろうと思っています。」
箔翔は、凛がとても強いのに少し驚いていた。妹の方は、泣いて臥せってしまっていると、維月から聞いていた。きっとこちらの方が妹を守って生きて来たのだろう。強くあらねばと…。
「そうか。」箔翔は、薄っすらと微笑んだ。「気を強く持っておれば、事態は好転するやもしれぬ。我に何か出来ることがあれば、申すが良いぞ。主からの書状は受けるように臣下に申しておく。」
凛は、顔を赤くした。笑うと、また本当に美しいかた。
「はい。ありがとうございます。ですが、これ以上は。鷹王様も、母君が人であること、あまり神世では申さぬのだと聞いております。なので、これ以上ご迷惑はお掛けできませんから。」
箔翔は、じっと凛を見た。
「我は隠しておるつもりなどないのだがの。ま、良いわ。」と、揃った軍神達を見て、踵を返した。「ではの。」
箔翔は、飛び立った。その後を、臣下や軍神達がついて飛び立って行く。
雲の上のかた…。
凛は、その姿を見えなくなるまで見送りながら、思っていた。
将維は、北の対で、退屈にしていた。今回は、維月も里帰りではないと、維心ががっつりと守っているので、そばに行くことも出来ない。こういった催しの時は、大概が暇だった。蒼が接客であちこち駆けずり回っていて、将維と話す暇もないからだ。
居間に座って、ぼんやりと北の庭を眺めていると、侍女が入って来て告げた。
「炎託様の、お越しでございます。」
将維は、振り返った。
すると、そこには炎託が立っていた。
「何ぞ、退屈そうであるな、将維よ。」
将維は、気だるげにそばの椅子を指した。
「ま、その辺に座るが良い。何の用よ。嫌味を言いに参ったのか?」
炎託は、首を振った。
「違う。我も暇であるから、何か面白いことはないかと聞きに参ったのだ。のう、遠出でもせぬか、将維。」
将維は、手を振った。
「遠出とて、どこへ?ヴァルラムの地へか?別に良いが、特に面白いものはないと聞くぞ。」
炎託は、ふーッと息をつくと、椅子の背へそっくり返った。
「困ったの。早よう運動会でもやってくれぬかの。毎日何もやることが無うて、退屈でしようがないわ。我も主も老いぬし、何か考えねば立ち枯れてしまうわ。」
将維は、くくっと笑った。
「立ち枯れるなど、面白い事を申す。主は老いぬのに、妻の瑞姫は普通の神並に老いておるであろう?そろそろ、別の妻でも持って、今度こそ子をなしたらどうか?蒼も主を気遣っておったわ。蒼に遠慮して、他を迎えられぬのではないかとの。」
炎託の妻は、蒼の最初の娘、瑞姫なのだ。将維には従姉妹に当たり、同じ頃に生まれて育った。当然の事、普通の神並に老いて、今は700歳、人で言うと70歳になっていた。炎託は、それこそため息をついた。
「良い。あれに心労をかけとうないのよ。老いておるとはいえ、心は瑞姫なのだ。最近では、ふとした拍子に倒れたりする。そろそろではないかと思う…なので、見送ってからにしようと思う。」
将維は、微笑んだ。
「やはり、主で正解であったの。瑞姫は幸せ者よ。」
炎託は、ふんと横を向いた。
「己はどうよ。結局独り身で。それで今も、あの前世の母とは仲良うやっておるのか?」
将維は、途端に憮然として肩肘をついた。
「同じく前世の父に阻まれてなかなかに会えぬわ。ま、しかし時に共に過ごせるので、我はこれで満足しておるのだ。此度は会えそうにないがの。」
炎託は、苦笑した。
「相変らずよな。」と、庭へと視線を向けた。「それで遠出の件であるが…」
炎託は、そこで言葉を止めた。将維は気になって、炎託を見た。
「炎託?」
将維は、炎託が固まって庭のほうを見ているので、何事かと自分も炎託の視線の先を見た。すると、そこには、公青と奏が、並んで笑い合いながら、歩いていた。将維は絶句した…奏。二つ下の弟、晃維の娘だった。
「…将維。あれはまずいのではないのか。」炎託は、しばらく黙ってから、言った。「公青であるぞ?この宴で妃の一人の父親と言い争って、帰すことにしたらしい。二人居た妃に、全く通わなかったと聞いている。もしも奏をとかいうことになったら、最初は良くとも直に飽きて放って置かれるのではないか?侍女達は何をしておるのだ。」
将維も、険しい顔をした。
「確かにの。我も姪のことであるし、黙っておるわけにも行かぬか。」
炎託は、何度も頷いた。
「あれは素直な良い娘よ。我もよう懐くので、娘のように思うておった。案じられるの。」
将維は、立ち上がった。
「行った方が良いかの。この様子では誰も気付いておるまい。あちらでは最近来た輝章の娘達のことで取り込んでおるはず。昨日の宴で宮の侍女を総動員して働かせたので、本日は少ないのだ。それにしても、昨日妃を帰したところで、本日もうあのように新しい女を連れておるとは、公青も油断のならぬ男よな。」
将維が庭へ出て行こうと窓へ歩み寄ると、侍女の声がした。
「維月様のお越しでございます。」
将維は、くるりと振り返った。
「維月?!通せ!」
将維は、すぐに戸の方へ足を進めた。すぐに戸が開いた。維月は、将維があまりに目の前に居たので、びっくりした顔をした。
「まあ将維?どうしてこんな端近に居るの?出かけるところだった?」
将維は、首を振った。
「主が来たと侍女が言うたゆえ。」と、将維は維月を抱き寄せた。「おお、此度は会えぬかと思うたのに。どれぐらい居れるのだ、夜は?」
維月は、苦笑した。
「将維ったら…維心様が今、五人の王達との面談を受けていらっしゃるから、そっと出て参ったの。それが終わったら、宮へ戻るとおっしゃっておったから、夜までは無理だわ。」
将維は、維月の頬を摺り寄せた。
「良い。僅かばかりでも共に居れるの。」
すると、ほったらかしにされていた炎託が、呆れたように言った。
「こら将維。我が居る、我が!それに、奏はどうするつもりよ。」
維月は、驚いて炎託を見た。居たのに気付かなかった。
「あら炎託、お久しぶりね。相変らず、あなたも変わらないわね…何だか、ますます炎嘉様に似て来たように見えるわ。それで、奏がなに?」
将維が、面倒そうに炎託を見た。
「そうであった。維月と聞いて、全てが吹っ飛んでしもうて。」と、維月の肩を抱いて、窓際へと連れて行った。「見よ。」
維月は、将維に肩を抱かれたまま、窓の外を見た。遠く、公青が見える。そして、手を取っているのは…。
「か、奏っ?!」
炎託は、後ろで座ったまま頷いた。
「あまり妃に関して良い噂は聞かぬではないか、公青は。我は賛成出来ぬの。」
維月も、眉を寄せた。
「私もよ。公青様は、妃を大切になさらないもの。蒼は炎嘉様に似ておると申すけれど、私は似ておらぬと思うの。だって、炎嘉様はもっと妃を大切になさるかたよ。愛しておらずともね。前世から見て、知っておるわ。」
将維は、顔をしかめた。
「我の前で他の男を褒めるのはやめよ。だがしかし、こうして見ておると、どうも距離を置いておるように見える。」
それを聞いた炎託は、立ち上がって同じように窓際へとやって来た。そして、じっと目を凝らした。
公青は、確かに奏と話しながら笑い合っているが、女を物にしようとしているような動きではなかった。手を取ってはいるが、距離を置いている。人が居ないので、普通なら娶ろうと思っていたら肩を抱いたり、もっと体を近づけて歩くことが多いのだが、公青の様子は公式に皆の前で誰かの妃とか、娘とかの手を取る時と大差ない感じだ。
「…ふむ。話しておることも、公青の宮の近くに居る鹿であるとか、こちらの森で見るウサギであるとか、そんなことよな。奏は動物が好きであるから。そんな話を聞かせておるのだろう。これっぽっちも色気のあることはない。」
将維は、耳をすませている。神は、それに将維なら、他人の結界の中であれぐらい離れていても、難なく会話を聞き取ることが出来るのだ。維月は、意外なことに、目を丸くした。
「そうなの?奏はあんなに美しいのに、公青様って好みに難しいかたなのかしら。」
将維は、困ったように笑った。
「主はいったいどちらよ。奏に興味を持ってもらいたいのか、もらいたくないのか。」
炎託は、ふっと息をついた。
「まあしかし、成り行きで出て参っただけだったということだな。良かった、世間知らずの奏が、うまく口車にでも乗せられて嫁ぐとか言い出すのではないかと思うて。」
将維は、維月の肩を抱いて椅子へと腰掛けながら、笑った。
「何ぞ、主が父親のようぞ。大丈夫であろうよ、あれでしっかりした娘であるし。それに、よう考えたら公青は、龍はダメだと言うておったの。ほれ、龍しか生まぬではないか。跡継ぎのことを考えて、余程想うのでなければ無理だと申しておったと蒼から聞いた。」
維月は、頷いた。
「そうね。箔炎様でさえ、龍には手を出さなかったとおっしゃっていたもの。なので帝羽の母君のことを、覚えてらしたのだと。」
将維は、維月に頷いた。
「そう。龍族は己にとっては良いのだが、別の種族にとっては厄介な種族なのだ。なので、女は嫁ぎ先に困るのであるな。同じ龍であらば、問題はないのだが。」
維月は、楽しそうな奏を、遠くに見ながら言った。
「それにしても、ということは公青様は子守りをしておられるのですわね。そう考えると、意外な面もおありになると、少し見直したこと。」
将維は、顔色を変えた。
「何と申した?ならぬ!この上公青までもと…、」
維月は、呆れたように遮った。
「もう将維、ちょっと見直したと申しただけよ。なぜにそうなるのかしら…本当に親子でよう似ておること。」
炎託が笑った。
「ほんになあ。では、我は遠慮するかの。将維、また夜にでも参るわ。」
将維は、頷いた。
「またの、炎託。」
そうして、炎託が出て行ってすぐ、将維は維月に口付けて、しばらく離さなかった。