人の母
維心と炎嘉が宴の席へと戻ると、志心が一人で上座に座り、他の宮の王達が酒を注ぎに来るのに対応していた。維心が戻ったのを見た王達は、慌てて深く頭を下げた。維心は、軽く会釈してから志心を見て言った。
「なんぞ、主だけか?蒼は?」
志心は答えた。
「おお、やっと戻ったか。蒼は、用があるので少し離れると出て参った。箔翔はその辺りを散策しておる。公青と樹藤は部屋へ戻った。」
炎嘉が、顔をしかめた。
「何ぞ、主だけを残して。蒼も用とはなんだ、このような時に。」
維心は、思い当たることがあった。維月が、少し前に十六夜に聞いたと知章の弟のことを言っていたからだ。おそらく、あれの対応か。
維心は、知章の姿を宴の席にさっと視線をやって探したが、思った通り居なかった。
「炎嘉、宮がいくつか集まると、何某か頼みに参るものではないか。恐らく、それだろう。」
炎嘉は、ふーっと息をついて座りながら、頷いた。
「確かにの。蒼も、そんな頼みごとを受ける立場になったか。」
維心は、苦笑した。
「何を言うておる。今ではそれなりの王ぞ。いつまでも半人前ではない。」と、酒瓶を見た。「飲むか。」
炎嘉は、笑った。
「おお、注げ維心。どちらが強いか試そうぞ。」
維心は、炎嘉の杯に注ぎながら顔をしかめた。
「あのな、酔いつぶれるようなことはせぬ。我は維月に謝罪せねばならぬのに、酔って寝てしもうたら話も出来ぬではないか。」
炎嘉は、ふんと言いながらも維心に酒を注いだ。
「主がしたいのは話ではあるまいが。腹が立つの、酔いつぶれて使い物にならぬようになれば良い。さ、飲め維心。」
維心は、杯を干した。
「ふん、我が酒の影響を受けると思うておるのが片腹痛い。維月相手に、いくら酔っておっても使い物にならぬことなどないわ。」
そうして、お互いに酒を注ぎ合って飲み始めた。志心は巻き込まれてはたまらないと、自分の杯は出さなかった。そして、ため息をついて月を見上げた…ほんにもう、格上の神が集まるとわがまま放題でやってられぬわ。
その頃、凜と唯は、無言で応接間から出て、歩いていた。やはり、甘くはなかった…父は、神世では咎人扱いなのだ。
叔父の反応は、一見すると薄情なようだった。しかし、二人はもう知っていた。王は、一族全てを考えて行動しなければならない。叔父は、一族の事を案じていたのだ…。
「凜…。」
唯が、いつも豪気な凜が黙っているので、気遣わしげに声をかける。凜は、ハッとした。唯を、不安にさせてはいけない。
「大丈夫よ。」凜は、微笑んだ。「十六夜が、言っていたじゃない。きっと、なんとかなるわ。父さんを、助けてもらわないと。最悪、私達は孤児ってことでいいじゃない?蒼様が面倒見てくださるって言ってくださるんだもの、二人居たらここで生きていける。父さんと、会えなくなるのは寂しいけれど…生きていたら、いつか会えるかもしれないわ。」
唯は少し、ホッとしたような顔をした。
「ええ…そうね。二人居るんだものね。」
だが、凜には分かっていた。神の世では、女の立場は物凄く弱い。そこそこ力のある神に嫁がないと、あっちこっちたらい回しに略奪される危険がある。どちらかが結婚して、その神が強い神なら、きっともう片方の面倒も見てくれるはず…。
「私、少し考えるわ。」凜は、唯を離れて歩き出した。「ちょっと一人にして。」
唯は驚いたが、黙って凜を見送った。ここまで気を張ってきて、疲れたのだろう。いつも凜は、私を守ろうとしてくれるから…。
凜は、月明かりが照らす庭を歩いて行く。
唯は、見えなくなるまでそれをそこで見ていた。
凜は、美しい庭を、ひたすらに歩いていた。知章に認めてもらえなければ、自分は孤児になる。そうなると、神の世での地位は低い。余程の運が無ければ、力のある神になど嫁げないだろう。ここに来て知ったが、女神達は皆美しいだけでなく、とても控えめで、言葉も美しく、出過ぎなかった。自分を主張すると、小賢しくなってしまう。ここへ来て、凜も下位の軍神達に声を掛けられたものだが、凜のはっきりとした気の強い様を見て、皆眉をひそめた。唯は、おとなしくゆっくりと話すので、人気があった。ならば、どこかの地位のあるそれなりの神に、唯が愛されたなら…きっと、あの子は幸せになれる。私はそれに守ってもらって、蒼様の宮ででも働かせてもらえたら…。
凜は、ため息をついた。放って来てしまった人の世の事も気にかかる。だが一度出れば、月の宮には二度と入れてもらえないのだという。どうして、自分は神だったのだろう。あのまま、人と同じように暮らして老いて、何も知らずに一生を終えられていたら…。
凜が、そのままそこに立ち止まって考えていると、何かの気配を感じた。大きな気…こんな大きな気は、きっと…。
「十六夜…?」
凜が言って、茂みを回り込むと、そこには見たこともない金髪の、ほんのり赤い目のそれは美しい神が立って、驚いたようにこちらを見ていた。凜は、しばらく呆けたようにその姿を見つめていたが、相手が眉を寄せたのを見て、我に返って慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ありません!」
くるりと踵をかえそうとすると、相手は言った。
「主はなんぞ。宴の席にもおらなんだの。」
凜は、困った。素性を言うことは出来ない。皆に迷惑が掛かってしまう…。
「…私は、最近人の世から戻って来て、こちらで学んでいます。失礼があってはいけないので、宴には出ておりません。」
相手は、じっと凛を見た。凛は、ここへ来てまだこれほどに美しい神を見たことがなかったので、緊張した。
「そうか。人世からの。確かに、主からは人の気もする…半神か。」
凛は、頷いた。
「はい、母が人で…」
言ってしまってから、凛はしまった、と口を押さえた。父が人だと言えば良かったのに。
しかし、意外にもその神は興味をそそられたように言った。
「ほう。ならば我と同じ。我の母も人であったからの。」
凛は、驚いたように相手を見た。この、大きな気の神が?
「え…とてもそうは見えませんわ。」
すると、相手は笑った。
「であろうの。我は鷹。なので龍と同じく誰が生んでも生粋の鷹が生まれるのだ。なので、我は半神ではない。」
笑うと、またとても美しかった。凛はそれに見とれながらも、ふと、思い出した。では、このかたの母も亡くなったのだ…。
「では…お母様はお亡くなりに。」
相手は、特に悲しむ風でもなく頷いた。
「そうよな。父はそう言っておった。だが、我は覚えがないからの。悲しもうにも、顔も知らぬ。」
凛は、まじまじと相手を見た。赤いと思っていた目は、よく見るとグリーンだった。何かの拍子に、赤く見えることもある、不思議な目の色だった。
「でも…お父上は、罰しられたのでしょう?」
相手は、首をかしげた。
「いいや。困ったヤツだと友の王達には言われておったが、特に何も。しかし本来、これは禁じられておることであるから、罰しられるものよな。時効であったやもしれぬの。父が世間に公表したのは、我が成人してからであったから。それまでは黙っておった。」
「だ、黙っておったら、罰しられずに済むのですか?!」凛は、必死にその相手の袖を掴んだ。「私が、成人するまで…あの、まだ180年ほどありますけど、その間?!」
相手は、驚いたように凛を見た。そして、言った。
「…主の父は、罰しられそうなのか。」
凛は、涙が浮かんで来るのを必死に堪えながら、頷いた。
「はい。気を消耗する病に罹っており、このままでは父は死ぬのです。そんなことになってから、私達が本当は神だと話されて…父は、自分が死んでからここへ来るようにと言ったのですが、私達はどうしても父を助けたくて、聞いてすぐにここへ来ましたの。でも、現実は甘くはありませんでした。私と双子の妹が居る限り、父は神世に戻れません。私達が、人の母との間の子だから…。」
その男は、少し考えた。そして、言った。
「…我は、鷹族の王、箔翔。」凛は、驚いた顔をした。では、とても力のある宮の王だわ!凛が驚いているのも構わず、箔翔は続けた。「主、名は?」
凛は、慌てて箔翔から離れると、頭を下げた。
「凛と申します。」凛は、箔翔を必死に見た。「箔翔様、ですがどうか、私のことは誰にも言わないでください。こんなことを、誰かに話してはいけなかったのですわ。でも、とても悩んでいて…父の実家の宮にも、迷惑を掛けたくありません。」
箔翔は、じっと凛を見た。
「確かに、込み入ったことよ。しかし、我には何とか出来るやもしれぬ。」凛がまた驚いていると、箔翔は微笑した。「今言うたであろうが。我は人の母との間の子。なのにこうして、王座に就いておる。父は龍王とも友であったし、それもあって罰しられなかったのやもしれぬ。我が、一度話してみようぞ。思えば、不公平なことよ。我が父は罰しられないのに、主の父が罰しられるとはの。ま、罰しようにも、父はもう死んでおらぬがな。」
凛は、呆然と箔翔を見上げた。箔翔様が…そうしたら、もしかして龍王様は父を許してくださる?
「では…本当にお話しくださるのですか?こんな…私達のために。」
箔翔は、苦笑した。
「別に我にとりどうでも良いことであるが、しかし、我と同じ境遇と聞けばの。それに、我は今気分が良いのだ。こんな時に出会ったのも何かの縁かもしれぬ。ゆえ、特別に口添えをしてやろう。主のこと、話すが良い。」
凛は、一生懸命自分達のことを箔翔に話した。父のことも、母のことも、叔父のことも。
箔翔は、黙ってその、どうでもいいだろう話を聞いていたが、一度も文句を言うこともなく、最後には必ず話をしておこう、しかしあくまで判断は龍王なので、あまり期待はするでない、と言い置いて、箔翔はそこを後にしたのだった。