月の宮を目指して
この山は、深かった。
父が言ったのは、ここを登ったところに月が守る地があるのだということ。そして、自分が死んだら、そこを目指せということだった。本当なら、こうなる前に連れて行きたかったが、もう父にはそこへ、自分を連れて行くだけの力は残っていないと悔やんでいた。
「唯、大丈夫?」
前を行く、双子の姉が振り返って言った。唯は頷いた。
「凛こそ。もう三時間も登りっぱなしなのよ。」
凛は、ふっと息をつくと自分の行く先を遠く見上げ、側に手近な岩がないか見回した。
「じゃあ、そこへ座って休もう。」
凛は言うと、先に座って背負っていたリュックサックを下ろした。唯も、頷いてその前の岩へと腰掛ける。そこに座って初めて、唯は自分の足が棒のようなのを知った。ため息をついてふと見ると、凛がペットボトルを出してお茶を飲んでいた。その姿は、双子でありながら、唯とはあまり似ていなかった。世間の普通の姉妹ぐらいになら、似ているのかもしれないが、ふり二つでは絶対になかった。なぜなら、凛は金髪で、唯は暗い茶色の髪だったからだ。瞳の色も、凛はアイスブルー、唯は濃い青い色だったからだ。
唯は父に似て、凛は母に似たのだと、父から聞いた。しかし、自分達を生んだ母はその時に亡くなって、父は男手一つで自分達を育ててくれた。どこから金を持って来ていたのか、自分達は大学まで何不自由なく行くことが出来た。父は、しかし働きに出ている様子などなかった。
しかし、二人に人生を変える出来事が起こった。
大学も卒業しようかという時、友達と海外へ旅行へ行こうと、役所へ文書を取りに行った時があった。その時に目にしたのは、自分達二人は無くなった母一人の子として登録され、父の名はどこにもない事実だった。苗字も、母のものだった。どうやら親権は母の親、つまり祖父母にあったようだったが、二人は数年前に他界している。つまりは、凛と唯は、戸籍に二人きりだったのだ。
それを知った二人は、父に詰め寄った。
「お父さん、どういうこと?私達、ずっとお父さんの子じゃなかったってこと?」
父は、頷いた。
「いつか言わねばと思っていた。オレは神で、母さんは人だった。オレの名は章ではない。輝章。母さんが死んだのは、神の子を産んだため。お前達はもう、歳を取らないだろう。神の寿命は800年から1000年あるのだ。本当なら、お前達を連れて神世へ戻るべきだった。だが、人の女との婚姻は、龍王によって禁止されている。女を殺してしまうからだ。オレはその禁忌を犯したので、あちらへ戻る事が出来ず、お前達を人として育てたのだ。」
凛と唯は、俄かには信じられなかった。だが、思っていた…父の、この並外れた美しさ。それに、若さ。どうあっても、人ではあり得ないレベルだった。そして、自分達も姿も…街を歩けば、あちらこちらから声を掛けられ、迷惑なぐらいだった。父の子だから、この姿なのだと思っていたが、神の血が混じっているというのなら頷ける。何より、自分達は風邪すら掛かったことがないほど、人の世の病気には掛からなかったのだ。
唯が呆然としていると、凛が言った。
「そんなこと、信じられるとでも思っているの?神様なんて…父さんは確かにとても綺麗な人だけど、それだけよ。特別なところなんて、他にないわ!」
父は、ふっと息を付いた。
「それはそうだろうな。ここで育ったお前達に、それが信じられるわけがない。だが、オレの命はもうそう長くないのだ…気を消耗していく神特有の病でな。もって数年だとオレは見ている。なので、否定されてもお前達に話しておかねばならぬのだ。」
父は、すっと立ち上がると、側の棚へと歩いた。そして、そこの引き出しから何かを取り出すと、テーブルの上に置いた。
それは、小さな根付のようなものだった。綺麗な玉が幾つも付いていて、それを金属が繋いでいる。見る角度に寄って色の変わる、見たこともないような色の玉だった。
「これは、オレが軍神だった時刀の柄につけておったもの。父から譲られたものだった。これが、お前達の血を明らかにするだろう。オレの子だという証明になる。今は、兄の知章が王であるはず。神世は身分が大事になるのだ。オレの子だということで、あちらでは無碍には扱われない。オレが死んだら主らはこれを持って、北東にある月の守る宮、月の宮へ行け。お前達は、人世では生きられない。歳を取らないからだ。父を見て分かるだろう、たった数十年ここに居ただけであるが、もう奇異な目で見られている。人は、己とは違った者には冷たいところがある。理解出来ねば調べようとする。実験動物になりたくなければ、そんなことになる前に、月の宮へ行くのだ。そこは、人世からの帰還者を受け入れてくれる宮なのだと聞いておる。本当ならオレが連れて行きたかったが、もうオレの気は、そこまで残っておらずでな。」
唯は、いろいろなことがショックで、涙を流した。何を信じていいのか分からないけれど、今まで父の言うことは信じて来た。今聞いたどんな事実よりも、父の命が残り少ないということが、耐えられなかったのだ。
ぽろぽろと涙を流す唯の横で、凛はふるふると震えて唇を引き結んでいたが、不意に、言った。
「…何よ!」驚いて、唯も父も凛を見た。「何を諦めているのよ!神様の病気だって言うんなら、神様のところへ行けば治るんじゃないの?!私達のことなんて考えてる間に、さっさと一人で神様の所へ帰ればよかったじゃないの!」
父は、下を向いた。
「父は帰れぬ。言っただろう、禁忌を犯した。だが、お前達なら帰れるのだ。案じずとも、お前達さえ無事にあちらへ戻ってくれたら、オレはお前達の母さんに会いに行くだけなのだ。こんなに早く逝けると思っていなかったので、心は軽いのだ。」父は、同じように、細長く折られた紙と、印のついた地図を出して来て、テーブルに置いた。「さあ、これには事の次第が書いてある。お前達も人の世の友達に別れを告げて、準備せよ。そして、父が死んだら、この印の場所へ参れ。分かったな。」
唯がただ泣きながら下を向いていると、凜がガタンと音を立てて立ち上がった。びっくりして父と唯が凜を見上げると、凜はテーブルの上の根付けや手紙、地図を掴んだ。
「今から行くわ!行って、父さんのことも連れて行けるように、お願いするわ!そんなに簡単に、死なせるものですか!」
凜は、すぐに自分の部屋へと向かった。茫然とそれを見送っていた父は、苦笑した。
「…あれは、ほんにスターシャに似ておるわ。」
スターシャとは、母の名だった。母は、帰化した祖父母の間の子だったので、日本名もあったのだが、父はそう呼んでいた。唯は、美しい父の横顔を見ていて、意を決して立ち上がった。
「私も行くわ!」父が驚いたように唯を見た。唯は続けた。「神様の事は知らないけれど、お父さんはまだ若いんでしょう。神様に戻って、生き直してもらわなきゃ。」
父は、首を振った。
「良いと言っておるのに。確かに我…オレは、250歳ほどよ。神世ではお前達と同じぐらいの歳だろうな。だが、まだまだ会えぬと絶望しておったのに、もうスターシャの所へ行けるのだから。オレは満足なのだ。」
それでも、唯は踵を返して凜を追った。父を死なせたくない。そんなに一瞬の間だけ一緒に居た母の事を思う父を、どうしても幸せに、本来の姿に戻して生き直させてあげたかったのだ。
「さ、そろそろ行かなきゃ。」
目の前の凛が立ち上がるのを見て、唯はハッとした。辺りは、暗くなって来ている…確かに、このままだと日暮れまでに目的の場所まで行き着けない。
唯は頷いて立ち上がると、また先を黙々と歩いて行く凛の背を追って、歩いたのだった。