樹の月の最初の落ち葉の日
樹の月の最初の落ち葉の日
久々の晴れ間が気持ちいい。
ようやく慣れてきた職場で、新たな研究を始めて十日ほどが経つ。
駐在員である私に、よくこんな好き勝手をさせてくれることと思う。
概して、こちらの人たちは心が広い。この星の駐在員となった人間が、ここに残ろうとする気持ちはよく判る。
今日は、となりに住む青年がやってきた。
青年と呼ぶのには実は年齢が少し高い。が、どこか頼りなく、そこが若く見える。……とはいえ、私よりは年上だ。
彼は、病を得てから働かずに家に居る。もう二年になるという。働かなければいけないけれど、と口癖のように何度も言いながら、彼の代わりに働く奥様のことや、自分のことを語った。数年後にはいなくなる私にだからこそ、話し易いのだろう。
誰にも言わないで欲しい、とも、繰り返し繰り返し言った。
実は、前の職場から、もう一度働かないかと誘われているのだという。
彼の病は、心の病だ。その、前の職場が原因なのだ。だから、奥様が許しはしないだろう、と彼は言うのだ。
そして、彼は戻りたいのだと言う。
奥様に言えば良い、と言ってみた。反対はされるだろう。だが、直接話し合った方が良いと思ったのだ。
彼は苦笑した。私が何も判っていないと思ったのだろう。
もちろん、私には判らない。彼が心を患っていなくても、他者の心が完全に理解できるわけはない。
だが、だからこそ、私は思ったことを口にしてみるのだ。
ひとしきり話したあと、彼は何か満足したのだろう、椅子から立ち上がった。
また来るよと言い置いて、立ち去る姿は、来た時よりも少し足取りが軽いように思えたのは、私がそう思いたいからだろうか。
彼と出会って三月が立つ。家の中にいてばかりではいけないと思って、と散歩をするようにし始めたらしい。ふらりとやってきた彼は、どこか近寄りがたい雰囲気をまとい、ポツリポツリと語って立ち去って行った。そんなことが何度か繰り返され、その度に少しずつ、雰囲気が柔らかくなっていったように思う。
彼は、まだスッキリしない、とも言う。以前のようではない、と。
自分自身が同じような体験をしたことがあるわけでもなく、多くのそういった病のことを知るわけでもないので、なんとも言えないが、病にならずとも人の心は日々変化していくのだから、まったく以前と同じということはないのではないかと、私は思う。物事の感じ方や見え方は、心の在りようで随分と変わるものだ。彼の言う、自信を失った状態が、以前のような自信を取り戻して、同じような心持ちになるのだろうか。
折れた心は、折れた記憶を失うことはない。その折れた記憶が、刺さったトゲのようにいつまでもあって、ちくちくと刺激を続けるのだ。痛みを感じなくなっても、ちくちくとした痛みを感じたという記憶は残る。私たちは、その記憶をかかえたまま、いつかそのことを思い出さなくなるまで、ただ待つしかないのだろう。
近頃になって、彼は以前の趣味を再開しているようだった。
理由を問えば、何かしたほうが良いと思って、と言う。
無理をしなくても良いのにと、私は思う。奥様は、それなりに楽しそうに働いている。彼を養う気満々なのだ。ならば、焦らずに、自ら気持ちが湧きおこるまで待ってみても良いと思う。
――かと言って、やる気を削ぐようなことを言えるわけもなく、そこは頷いて聞くだけにとどめたのだが。
そんなことがあった以外は、特に大きな問題もなく、一日が終わった。
……と思っていたら、南の街で捕れたという大きな貝を貰った。
まだ生きているそれの調理に一時間ほどかかり、夕飯の時間が大幅に遅れた。だが、バターで炒めたそれは、酒によく合い、大変美味であった。満足満足。