抱≪イダク≫
今日は少し、肌寒い。
気付いてはいたのだ。
上着を一枚羽織り、紅い自転車でバイト先へと向かう。
休日なので、7時から休憩を含み、17時まである。店長が話の分かる人で助かった。
日が沈むのが早い。もう、薄暗くなり初めて、皆戸惑っている。
気付いてはいたのだ。
それを私は、疲れた瞳にひっそりと映した。
そのバイト先で、知り合いに会った。自動ドアが開く。
彼女だ。
私に見せた事のない表情をしていて、その横には男。二人は心地良い風と共に颯爽と登場した。
目が当然のように合う。バチッと彼女の中に何かが巡り、レジと不似合いな私に気付くと、笑顔が驚きに変わる。
「よう。」
「……お久しぶりでございます。」
私が声をかけると、彼女は落ち着きを静かに取り戻し、慣れた敬語を使った。
隣の男が、知り合い?と小声で尋ねる。それに頷き、私に軽く一礼をすると、何事もなかったかのように店内をウロウロとし始めた。
何故、声をかけたのだろう。いつもの私なら、相手から声をかけられても無視をするのに、反射的にかけてしまった。
二人は仲良さそうに商品を選んでいる。なるほど恋人がいたからか。だから、あの時……。
少しあの時の事を思い出しかけていたら、すぐにレジに来た。コーヒーを二缶とアップルティー。どちらもホットだ。そうか、今日は寒かった。
「335円になります。」
彼女に初めて敬語を使う。
レジを終えると、二人は出て行った。が、何故かまだ入口付近で話をしている。表情から、何を話しているかは読み取れない。
すると、男と別れて、彼女だけがさっき買った物を持ったまま、小走りで戻ってきた。今度は真っ直ぐレジに来る。また、一礼。
「今日は、アキラ様。」
髪が、少し伸びた。キャラメルブラウンにショートが清楚だ。ワンピースに軽くカーディガンを羽織っている。
仕事着しか見た事のない私には、彼女の私服は新鮮だ。
「お仕事はいつ頃にキリがつきますでしょうか。」
「さあね。」
「お話しいたしましょう。」
「何を。」
「世間話を。」
「何で。」
「お話ししたいのです。」
「何時に終わるか分からない。」
「終わるまでお待ちしております。」
「帰れ。」
『承りました。』彼女ならこう言う、筈だった。
「お断りいたします。」
さっきの爽やかな風が、ピシ、とした空気に変わる。彼女は前と変わらず年下の私に敬語だが、口調には前と違う、自分の意思を感じる。
「わたくしはもう、アキラ様の使用人ではないのですから、命ぜられた事を守る必要はないですよね。」
そう、彼女は最高の笑顔でハッキリと言った。そして、また一礼し、機嫌の良さそうに店を出る。
どうやら、裏にあるスタッフルームの出口に向かったらしい。態度は変わったくせに、相変わらず考えている事はバレバレだ。
「今の人、誰。」
同じバイト先の元樹の兄が話しかけてきた。(まあ、彼も元樹なわけだが。)
彼は、あのクソ兄貴の友人でもある。容姿は元樹をそのまま男にしたようで、美しい。しかし霊感は全くない。兄貴と関わっているくせに、性格はかなりの大人で、気の利くなんとも完璧な人だ。おかしな所といえば、女口調な事だけ。
「可愛い人ね。」
誤解を生むといけないので言っておくが、ホモではない。ただ、個性的なだけだ。苗字が元樹なのでしようがない。
「あの人は……」
「お姉さん?」
「……。」
「あら、でもいなかったわよね。」
どうやら彼は私達の会話は聞いていなかったらしい。家族に敬語は、おかしいだろう。
「まあ、良いわ。アキラちゃん、もうあがる時間ね。お疲れ様。」
……参ったな。
「お疲れ様です。」
彼女は何故こんなにも機嫌が良いのだ。
「どうぞ、召し上がって下さい。」
さっき買ったアップルティーを差し出してきたので、私は黙って温かい缶コーヒーを彼女の横に置いた。
「……。」
私の意外な行動に、どう受け応えようか困っている。
「どうせ、それはもう冷めているだろう?」
彼女がアップルティーと一緒に買った、開けられていない缶を指差して言った。
もう冬に近い今は、カーディガンだけでは寒いだろう。
「ありがとうございます。」
……成る程。この笑顔にあの恋人はやられたわけか。
さらに、彼女の機嫌は良くなる。
このコーヒーが、元樹の兄が私にくれて、ただ私がアップルティーしか飲まない主義のため、調度良く彼女にやる事になったのは、黙っておく。
「お元気でしたでしょうか。」
「あんたが現れるまでね。」
私が憎まれ口をたたくと、ふふ、と湯気の中でまた笑う。
そして、彼女はコーヒーを、私は微温いアップルティーを飲み、静かな空気が流れる。
これが、彼女か。この雰囲気は嫌いじゃない。
「あんたが辞めて良かったよ。」
でなければ、あの、感情を押し殺すが、抑え切れずに滲み出た物が仕事着に染み込む。そんな世界に埋もれて、彼女はいないままだった。
「……わたくし、」
「苗字、何になる?」
彼女が何か言いかけるのを、遮って質問した。え、と小さく零す。
キャラメルブラウンをかきあげる薬指に、シンプルな銀がチラチラ反射していた。
「……内緒です。」
「何で。」
彼女は黙った。
「言えよ。」
温かいコーヒーを飲んで顔を火照らせたのか、頬が円く紅い。
「うー……みにゃらら……です。」
「馬鹿?」
「海野です。」
うみの……海野奈美。
「へえ、海の波になるわけ。」
「笑うのですかっ?」
「笑うかよ。つまらねえ。」
普段より、1.3倍冷たく当たると、彼女は何も言えずにうなだれた。
「……アキラ様。」
私に聞こえている事は分かりきっているだろうと、返事をせずにアップルティーを飲んだ。
これは、いつものより甘い。香の綿菓子が口の中でふわっと溶けて広がる。
「正直に告白致しますと、これはチャンスだ、と思いました。」
「うん。」
カン、と軽い音を響かせて、アップルティーをコンクリートの上に置く。
「え、何の事だか、分かりますか?」
「私が世話をしなくて良いと言ったときの事。」
「え。」
彼女が正直な告白をしてきたので、私も便乗した。
「あのさ、あんたは見透かしやすすぎるんだ。」
「えー!?」
「気付いていなかった?」
「はい。」
真顔で頷く彼女が、どうしても兎に見えた。しかし、寂しいくらいでは死なない、逞しい兎。
「あんたさ、何故あの仕事に就いたわけ。」
「何故……ですか。」
「何故、あんな相性の悪い仕事に就いたわけ。」
クリクリした目を私に預け、口を馬鹿のように半開き、彼女はキョト、とした。
「相性、悪かったですね。長く数をこなして、大分ましになりましたが、ドジをしますし、先輩方にも迷惑をおかけしましたし……。」
「そういうのじゃねえよ。」
私がイラついて、言葉を遮ると、彼女は瞬きを1秒の間に3回した。
「どういうの、でしょう?」
「あんな、感情押し殺して餓鬼にペコペコする仕事。」
私は静かに呟いた。
「あんたはもっと、優しい仕事に就けば良い。」
「もう、お仕事はしないと思います。寿退社させて頂いたので。」
「私がクビにした。」
クスクスと彼女は笑う。きっと、兎が笑うとこんな感じなのだろう。
「優しいお仕事ですか。それはつまり、わたくしが優しいという事ですか。」
私は無視をした。彼女は生意気になった。生意気な兎。
また、二人同時に沈黙して、彼女の空気が吹き返す。
暫くお互い黄昏れていると、彼女は何か意を決したようにコーヒーの残りをガブガブ飲み干した。その途端、急に兎はせかせかとし始める。
「相性、悪いですよ。
すっごくすごく。
わたくし、臨機応変が何より苦手でして、対応が悪い、なんて、先輩の口癖にさせてしまいましたし、生意気な子供が2人もいましたし、1人は直ぐに家出しましたし、ドジで、洗濯物も一日中浸け置きしていたり、漂泊剤の種類を取り違えてしまって、色の着いたお洋服真っ白にしてしまったり、もう7年間、良くクビにされなかったな、なんて、奇跡です。本当に向いていません。パソコンの打てないOLです。釘の打てない大工です。高所恐怖症の窓拭きです。ええ、そうですよっ。」
それだけ一気に早口で言ったのにもかかわらず、彼女は全く息を切らしていなかった。
それどころか、確かに冷たいものを感じた。それは冬が近いせいなどではない。
「それなのに、何故、就いたのか。理由があるに決まっているではないですか。」
彼女は瞳に下手くそな影をかけた。
「7年前、わたくしは雇われました。本心は、10年前すでに就きたいと考えていたのです。しかし、わたくしはまだ高校生でしたから、卒業をする迄、辛抱をせざるをえませんでした。あそこに就くため、わたくしは必死でした。」
彼女は、今、どこを見つめている。その先に、何がある。
「復讐の、ために。」
「あんたの本名は何だ。」
「本田奈美、本名でしたわ。姉は、母の旧姓を名乗っていたのです。」
そうだったのか。だから、今まで気付かなかった。
10年前、兄貴が殴った使用人。奈美はその女の、妹だ。
「両親は幼い頃に離婚しました。わたくし達姉妹は離れ離れになりましたが、わたくしは姉を慕っておりました。」
しかし。
彼女は精一杯の低い声を出した。
「姉が、仕事先で怪我をした。13の少年に殴り殺されそうになった。」
ぐるんと私の方を向く。
「その報告を受けて、わたくしは復讐しようと誓ったのです。」
冷たい風が容赦なく私の体を劈く。
「で、それはできたの?」
クス。彼女はゆっくりと私の首の近くへと腕を伸ばしてきた。
実際は腕の長さ以上の距離があるのに、顔が目の前にあるような錯覚を起こす。
彼女はそれに気付いたのか、耳元で囁くようにこう言う。
「これから、です。」
視界から彼女の掌が消えた。指が首を掠った。しかし、そのまま首を通り過ぎ、そっと私を抱きしめる。
「ずっと、こうしたかった。」
優しく、彼女らしく、抱きしめられた。
「復讐なんて、しなくても気持ちは解消できていたのです。だってとても、美しかったのですから。」
きっと、穏やかな顔をしている。私のうなじら辺にいる彼女の表情。
「美しく汚された、子供でした。」
彼女は私の両腕を両掌で触れ、真っ直ぐ私を見てそう言った。
何故か、彼女は泣きそうな表情を見せた。なのにハッキリとした口調で、今まで出せなかった感情をもろに吐き出す。
「当初は本当に少年が姉を殴ったのか、疑いました。しかし、徐々に、ああ、彼だ。と、確かに感じたのです。そうしなければ、少年は壊れてしまった。ああ、そうか。姉は少年に危害を加えられたのではなく、少年の心のストッパーになったのだ。と、そう感じました。」
彼女は冷静に髪をかきあげ、一呼吸置いた。
「しかし、それも違った。」
りんごジュースが、欲しい。そうしたら私はうっかり、10年前に戻ってしまっただろう。アップルティーなど飲んでしまえば、気分が悪く、時間の経過を体に染み込ませてしまう。
「少年にも、唯一大切なものがあった。自分ではなく、その大切なものが壊れるのを何より恐れて、殴ったのです。」
そうか。
……抽象的すぎるのだ。クソ兄貴。
「この世の中を腐っている、と言う人が腐る程いる所へ、わたくし達は産まれてきたわけですが、仕様がないですよね。」
彼女は沈む夕日を見つめながら言った。
「腐ったものの中にこそ、純粋なものがこっそりと隠れているのですから。……だから、楽しいですよね。宝探しのようで。」 呑気な彼女の言葉に、私が目をつぶると、彼女が、あ、と叫んだ。
「少し、笑った。」
「だから何だ。別に珍しくもないだろう。」
ピョンピョンと跳ねるように笑われたので、不愉快になった。
「アキラ様。」
「うるさい。」
今度はきちんと返事をしてやった。
「わたくし、実はできちゃった結婚なのです。」
腹を押さえて一児の母になる女が言う。
「アキラ、と名付けても宜しいでしょうか。」 私は、あんたに似た餓鬼なら、こんなに格好良いのは似合わない。とだけ言っておいた。




