紅≪アカ≫
通学途中にあるコンビニで、バイトを始めた。
何故コンビニかと言うと、賞味期限が過ぎた商品を貰えたり、商品に手を出しても誤魔化せる。と、元樹の兄が言っていたらしい。
それなら、給料日まで待たなくとも、食事にありつける。
そうして、私はすぐにコンビニに電話をし、するとその日にすぐ面接、採用となり、次の日には食事にありつけた。
月初めに入った私は、少ないながらも給料日の15日に給料を受け取り、そして明日また、受け取る日になる。
もう秋も、半分を過ぎようとしていた。気が付けば気温心地良く、葉の色も紅に変わり始めている。
今日は、土曜日だ。しかし、習慣とは恐ろしいもので、平日と変わらず5時03分に目が覚めた。
「お早うございます。」
「……。」
まだ起ききっていない頭を支えながら部屋を出る。
使用人達は、私が5時03分に起きるようになったと知ると、今まで6時00分に起きていたのを早めた。私が目を覚ます頃には仕事スタイルだ。夏休み明けはこうではなかった。
廊下にモップをかけている手を止め、頭を美しく下げる。それに返事をしないのはいつもの事だ。
台所に向かい、バイト先で貰ってきた弁当を朝飯に食べる。
空になった筈の冷蔵庫は次の日の夕方には元通りになっていた。次こんな事をしたらクビにするぞ。と忠告し、今ではコンビニの廃棄が並んでいる。
それに少ない給料で買った、アップルティーを煎れた。
食事を済ませ、カップを洗い、自室で物憂げにしていると突然、電話が鳴った。数少ない電話も携帯電話を使っていたので珍しい。
この電話は使用人からしか繋かってこない。
外線電話はまず、使用人の寮にある電話に繋がり、使用人がとる。そこで誰に何の用があるのかを聞き、ようやく私達に繋がるのだ。
『田中様からお電話です。』
田中……。聞いた事がないが、夏休み中に顔を合わせたどいつかだろう。
「面倒臭い。」
そう言ってブツリと切った。しかし、数分後、『田中様からお電話です。』
「……繋いで。」
不機嫌にそう言うと、いつも通り単調に使用人は、承りました。と応え、田中に繋いだ。
『もっしもーし。田中さーん。』
聞き覚えのある声。この妙に空元気な声を聞くのは何年振りだろう。まあ、良い。考えるの、面倒臭い。また電話を切る。しかし、『田中様からお電話です。』
『何で切るんだよー。相変わらず、冷たいなあ。』
「お蔭様で。」
『え、俺のせいなの?やった。ていうか、もっと突っ込み所あるだろう。』
馬鹿だ。付き合っていられないよ、全く。
『……ほら、お前、田中じゃないだろう?』男は情けない声で呟く。
「相手の姿を目の当たりにしないでぶん殴る方法、ないだろうか。」
『そんなに俺に会いたくないんだ。でも、殴るんじゃなくって突っ込めよ!』
「ちょっと黙れ。」
『……はい。』
男は素直に従う。情けなさ過ぎて溜息が出る。
なんだってこの男が、
「今まで何処で腐れてた。このクソ兄貴。」
私の兄貴だっていうのだ。
『うわーっお前、髪真っ紅じゃん。恐ー。』
「見てるなら今すぐここに来い。」
『はーい。』
カラッとした太陽みたいな声を発して、カーテンの隙間から豆粒大の手を振る。
「死ね。」
その豆粒を潰すように、カーテンを思いきり引っ張って、私はあのクソ野郎が来るのを待ってやった。
「おじゃましまあす。なあ、外に停めてある自転車、俺のだろう。懐かしいなあ。何、お前使ってんの?」
彼は入って来るなり人より1.5倍は大声で、早口にそう言った。
「だったら、何だ。」
「別に。奈美ちゃん、アップルティー。」
久々に見る彼はダボダボしたジーパンにタンクトップ、その上には紅の半袖で薄生地のブロックチェックシャツを羽織っていた。髪は、私が最後に見た時より短くなっており、ワックスで前髪を上げている。
「奈美なら辞めた。」
「へえ、何でだよ。」
「何で、お前に教える義務があるってんだ。」
「お前が追い出したってか。酷い子っ!」
むかつく事に、彼は鋭い。
「じゃあ、明理さんに会って来よう。」
「……。」
「部屋は変わってないよなあ?」
そう言いながらズカズカと迷いなく一部屋へ向かう。
私は彼が明理に挨拶しているのを、入口で黙って見ていた。
「ふうん。ちゃんと綺麗にしてあるんだな。」
私は久々に部屋の中を見た。どれ程久しぶりかというと、彼が家を出て行ってから、一度も来ていない。
「それじゃあな。またいつか来るよ。」
彼は明理に挨拶を終えて、部屋を後にした。
「お前、レベルあがったなあ。」
こいつはポンポンと話を変える。昔からそうだ。そんなにも人に聞いて欲しい事があるのか。
「何か、昔から格好ハードだったけど、髪には兄ちゃん驚いたよ。」
そう言って、私の髪を撫でる。むかつく。
「うるせえ、触るな。」
「はいはい、すみません。他のメイドもいないの?ああ、調度、昼休みか。まあ良いや、アキラが煎れてよ。」
「は?私かよ。」
「うん。」
「ぶっかけるぞ。」
もちろん、お湯を。
「……仕方がないなあ。俺が煎れてやるよ。お前もアップルティーで良い?」
「アップルティーしか飲まない。」
彼は台所へ向かい、紅茶パックはどこかな……などと独り言を呟いている。
兄貴。
この世に裏切られっぱなしの私、の兄貴。
私を裏切ったそのまた一人の兄貴。
私達の昔を知っている奴等は言う。太陽の兄、月の妹。
しかし、そう言えるのは本当の兄貴を知らない奴等だ。どちらにしても、私達兄妹は使用人内のブラックリストだが。
兄貴も使用人を辞めさせた前科あり。私より質の悪い辞めさせ方。殴ったのだ。
「ということは、あと使用人の寮に何人残っている?」
「4人。」
使用人の寮、と呼びだしたのは彼だ。なんとなく気に入って、私もそう呼んでいる。あと、どうでも良いが、彼は使用人の寮以外、使用人の事をメイドと呼ぶ。
「この世の中、根性ある奴が4人か。上出来。」
彼は棚という棚を開けて紅茶パックを探している。もちろん、教えてやる気はさらさらない。
「何年振りかな、こうやってアキラと話すのは。」
なかなか見付けられない彼が、また呟く。
黙っていても紅茶が出てきていた彼にとって、それを見つけ出すのはかなり困難な事らしい。少なくとも、この台所だからだろうが。
「もう3年かあ。」
「10年だ。」
「何の数字?」
「お前が使用人殴ってから現在まで。」
「ああ。」
彼はまるでそれを、隣に住んでいるおっさんの苗字が、田中だよ。と聞いて、ああ、そう言えば。というように言った。
「アキラ、それ覚えているんだ。」
「まあね、」
当たり前だろう。
太陽の兄と呼ばれていた、いつでも空元気な兄貴。
その兄貴が修羅と化した、あのモノクロ場面、表情。それを見ていない者が、太陽の兄貴、などと呼べるのだ。
悔しいが、こんな死ねなど言っている私が、幼少期のあの日を思い出すだけで、彼に隠れて身震いする。
6歳離れた兄貴。
私の兄貴。
昔、唯一私を裏切らないのは自分ではなく、兄貴だった。なのに、彼は母親以上の裏切りを私に、した。
幼い私は気付かなかったが、10年前には彼も幼かった。
母親が死んで、彼の心中は悲しく、切なく、やるせなかったかもしれない。もしくは、そうではなかったか。
何はともあれ、彼は使用人を殴った。いや、殴ったは正しい表現ではない。あれは、殺人未遂、だった。
モノクロの中で唯一認識出来る色は紅だった。彼の名前の一文字でもある、紅。
彼女は奈美以上に良く出来た使用人だった。
幼かった私達を粗末に扱うような女ではもちろんないし、父親の教えを越えて、母親を失った私達に同情するような奴でもない。(そのような女なら殴られても仕様がないと思う。というか、私が力ないなりに限界を超えた力で殴っただろう。)
だから、だったのか。しかし、だったのか。彼女は殴られた。
いつも通り、私達にりんごジュースを運び、
「お待たせ致しました。」
と言い、彼もいつも通りに
「ありがとう。」
と言った。なのにその直後、彼は彼女に襲いかかった。
その瞬間のあの兄貴は、とても13の少年が作れる表情ではなかった。
苦難な道を何度も通り、しかしその度、先に光など見えず、もがき苦しむと同時にこの世界を憎んでいる。
そんな人生を歩んで憎悪が熟年した56歳の男がようやく出来る。
無表情の奥に深くドロドロとした闇があった。
何度も何度も彼は年上の成人女性を殴りつける。
今思うに、顔を殴って形を変え、母親の顔にしようとしたのかもしれない。
まあ、兄貴でない私は彼の心中を想像するしか手がないし、彼もまた、何故あんな事をしたか分かっていないと思う。彼にとっては、田中さん、なのだ。
彼女の顔から、彼の拳から、鮮血が飛び散る。
幼い私はそれを、りんごジュースの入ったコップを持ち上げた所から、動けず見ていた。見ながらその紅を、綺麗だな、とぼんやり感じていた。
それ以来私の好きな色は紅になった。
その事を6年後、彼に伝えると、さらに1年後、彼はこの家から姿を消した。
その事を考えれば彼にとって田中さんは重大だったかもしれない。
それが、彼のした裏切り。
たった一人、兄貴を信じていたのに、彼は私を置いて行った。修羅の思い出を残して。
「アップルティーだぜ。」
りんごの形をしたコースターにカップを乗せ、私の前のソファーに座った。
彼の遊び心だろう。馬鹿だ。しかし一体、どこにこんな趣味の悪い物があったのだ。
俺、この椅子嫌いだ。
彼は不満気にソファーに体重をかけた。
「何か落ち着かない。椅子だけじゃない。このカップも、ガラスも、床も、全て。」
言葉を続ける彼を見ず、私は熱いアップルティーを口に含んだ。
「当たり前だよな。赤の他人が生活感まで全て拭き取っちまうんだから。俺達が付けた泥の手形を拭き取られた時は、本気でむかついた。その時はそいつの布団、燃やしてやったけど。」
ああ、あの使用人の寮の小火騒ぎ、あんたの仕業だったわけだ。まあ、なんとなく知ってはいたが。
小火に使用人共がギャーギャー言っているのを、私達は手を繋ぎ静かに見ていた。幼い彼が私に向かって無邪気にウィンクする。
「俺達が汚いって言いたいのか。お前等の方が汚いんだよ。そんな手でベタベタ触ってんじゃねえ!」
彼はカップを投げ付けた。それがガラスにぶつかり、二つが割れる。
その音に驚いた、庭の木に泊まっていた鳥達がバサバサと飛び交って行く。私はその羽の音を今度は後ろ耳で聞いていた。
ゆっくりと目を閉じると、美しい彼女の紅が瞼の裏を染める。
「最近、どうだ。」
パッと表情を笑顔に変えて私に尋ねた。
「どうだ、って何が聞きたいんだよ。」
「何でも良いよ」
「何もねえよ。」
何だよ、つっまんねえ。彼は舌に火傷をしたように言った。
「お前は何してた。どこで腐ってやがったんだ。」
「腐ってないよ。」
またあの、ああ、田中さんね。と言う時の顔で応える。
「カメラしていた。」
「ふうん。」
冷てえ。とぶつくさ言いながら、彼は勝手に語り出した。
母親が死んで何日目かの夜、何となく胸が気持ちの悪い感情に包まれたら、兄貴の部屋に行った。
そんな女々しい私に気付くと、彼は見ていた写真集を、そっと閉じ、おいで、と手招きをする。
「カメラしていた。とりあえずインスタントカメラで撮っていた。あと、展示会にも金貯めて行ける限り行った。それで、見つけたんだ。何かこう、ガッとくるもの。運が良い事にそれ撮った奴が来ててさ。気が付いたら、弟子にして下さい。ってその人の胸ぐら掴んでた。」
その時からプライドの高い私は、ベッドではなく床に寝そべる。そんな私に柔らかく微笑み、兄貴は語り出す。
声変わりをしかけていた彼はガラガラの声をしていて、私の気持ちの悪い感情は、またこっそりと水を吸う。
写真集を握りながら語る、あの頃の兄貴。その思い出だけは色鮮やかだった。
「それから、金も貯まってカメラも買った。」
私はただ、アップルティーを飲んだ。
「やっぱりさ、自分よりも上手い写真撮る奴がいるとむかついていた。でも、そんな無意味な感情も全てなくなって、自分の撮りたい写真が撮れるようになったら、まずこれを撮ろうって決めてたものがあるんだ。」
そう言う彼の目線に、私は気付かない振りをする。
「でも、そっちの方はまだ何か見つかってないみたいだから、それから撮る事にする。」
私は、ただ、アップルティーを、飲んだ。
「……あのさ、もしもね。」
また話が変わった。そして、間。彼が言うのを躊躇っている。
鳥のいなくなった庭はしんとしていた。
「あの時、お前も来るか、って言ったら、俺に連いて来た?」
……。
あの時、とはもちろん彼が家を出て行った時の事だろう。
「あの時、お前にも、もちろん親父にも何も言わずに出ていくつもりだった。でも、あの玄関からすぐにある、階段上がった所がお前の部屋っていうのが悪かったんだな。明け方こっそり出て行こうとした時に、お前が部屋から出て来た。それでその時はいつもの無表情で良く分からなかったけどよ、今思えば、何だよ出て行くのかよ、私を置いて。って目で見てたよな、お前。」
「見てねえよ。」
私は嘘を吐いた。
「ふうん、じゃあ、答えはノーか。」
「当たり前だろ。」
私がそう言うと、彼はもう一度、ふうん、と言った。
「じゃあ、そろそろ行くな。」
彼は嫌いなソファーから腰をあげた。
「このコースター、貰って行く。」
趣味悪い。私が呟くと彼は、3年前に二階から見た笑顔を作った。少し悲し気な、でも無限に優しい少年の笑顔。
彼の本当の姿は、殴った修羅か、この笑顔、どっちだ。
今度は同じ高さの床に立って彼を見送る。
「じゃあな、また来るよ。」
「二度と来るな。」
中指立てた私に彼が笑う。
「じゃあ、今度はお前が来い。」
私の指を優しく覆い、兄貴はまた、出て行った。
私の兄貴。
この世に裏切られっぱなしの私、の兄貴。
だが彼も、私と同じに裏切られているのだ。
『あの時、お前も来るか、って言ったら、俺に連いて来た?』
……答えは、イエスだ。
幼かった私は、同じ傷を持った兄貴がこの世の救いだった。しかし、聞くのが遅すぎるんだよ。クソ兄貴。
答えは、ノー、だ。




