噛む
三題噺もどき―ななひゃくじゅうなな。
暗い部屋に、時計の秒針の音が響いている。
紙をめくる音と、その上を走る、えんぴつの削れる音。
ここ数日はいい天気が続いており、多少強風は吹いているようだが、雨の気配は全くしない。きっと、美しい半月が浮かんでいる事だろう。
「……ふぅ」
手を伸ばして、小さなかごに置いてある飴玉を適当に手に取る。
その封を切りながら、上体を机から離していく。
猫背になっていた背中を、椅子の背もたれに預けるようにして、一息をつく。
……姿勢が悪いのは今に始まったことではないが、いい加減治したいものだ。と言いつつ、実際その気はないので治ることはないのだろう。
「……」
机の上に置かれている紙を軽く眺めながら、ざっと確認をする。
もう一度最初から見直すことはもちろんするが、とりあえず。
意識は紙に集中しながら、手は飴玉を口に運ぶ。
カロン―と軽く歯に当たる音が脳内に響く。
その、口に放った飴玉を噛んだ瞬間。
「――った!!」
ガリ―という砕ける音と共に、口内に鉄のような匂いが広がった。
同時に右頬のあたりから唇にかけて、鋭い痛みが走る。
かなり広範囲を噛んだのか、はたまた一部だけを噛んだにも関わらず激痛が走ったのか。
口を開いてみればわかるかもしれないが、こういう時って咄嗟に閉じてしまうのは私だけだろうか。
「――っつ」
痛みには慣れているが、こういうのは慣れていない。
ふいに訪れるものは、必要以上に痛みを感じてしまうものだ。
吸血鬼が口腔内を噛むなんてことが、あっていいわけがない。
「――」
口内に残った飴玉が溶け始めて、甘い香りが広がりだす。
その中に血の匂いと味まで混じりだすから、なんだかよくないものを食べている感覚になる。まずくはないのだ、残念ながら。自分の血液を飲んでいるだけだからな。
食事のおかげで良い味をしている。まぁ、そうでなくても血縁上それなりにいい味なのだ。言いたくも考えたくもないが。
「――」
ようやく、少しだけ痛みが引いたあたりで。
小さく口を開く。
冷房のおかげで冷えた空気が口内を冷やしていく。
犬歯を抜いたような感覚はなかったから、唇のあたりは噛まなかったようだ。やはり頬肉のあたりだけ噛んだかな。
「……何をしてるんですか」
「――、」
口の中に残っていた飴の塊と血を飲み込んだ。
声のした方を見ると、呆れたような表情で部屋の入り口に立っている、小柄な青年がいた。私の従者で、丁度、食事の準備でもしていたのだろう。エプロンをつけている。今日は普通のやつだ。後ろ側をボタンで止めているタイプ。
「……口を噛んだ」
「……見ましょうか」
「ん」
もうだいぶ出血は止まっている感覚だが、念の為。
どこを噛んだかも正直はっきりはしていないからな。
「……」
目の前に立ったコイツは、降りていた私の前髪が邪魔だとでも言うように、のれんでもくぐるような仕草で手の甲で前髪を持ち上げた。余った片方の手で、右頬を引っ張る。……そこまでしなくても見えるだろう。地味に痛い……。
「……」
「血は止まってますね……まぁ、食事は滲みるでしょうが、すぐ治るでしょう」
「……そうか」
現時点でだいぶ治っているはずだが。
今痛いのは、コイツが引っ張った場所だけだ。
「もうすぐで昼食ですよ」
「……分かった」
未だにヒリヒリする頬をさすりながら、仕事に戻る。
アイツ絶対わざとだ……。口角が上がっているのを見逃す私ではないからな。
「……もう治りましたか」
「あぁ、きれいさっぱり」
「……治癒力が高すぎるのも考え物ですね」
「何か言ったか?」
「いいえ、なにも。それ、すっぱくなかったですか」
「あぁ、いつもよりは酸味があるが、食べられるさ」
「それはよかったです」
お題:噛む・ボタン・のれん