【tp37】ミエルテの魔法使いに訪れた「善き春の兆し」と、雨に濡れたいつかの花の名前
「そう言えばね」
二台のデバイスを挟んで、大いに盛り上がりを見せていた、僕らのおしゃべり。
画面のこちら側で瞬きした僕に向かって、リベが次の話題を提供するつもりになったらしい。
画面に額をくっつけそうな勢いで距離を詰めた彼女の表情が、海を越えて僕の耳朶をくすぐってくる。勿体つけるように、更にじゃーん!と前置きした赤毛の女の子が、日本語で言い切ってきた。
「次のイースター休暇、日本の春休みと時期が重なるのよね。統君ちのお招きで、ペギーと二人で甲南湖にも滞在できるんだって! そんな予定だから、会えるの、とっても楽しみにしてる」
翡翠のように柔らかな瞳を、目一杯輝かせながら言ったリベの姿に、僕の心が勝手に浮き足立った。
それから二月。今年のホワイトデーのご機嫌伺いを兼ねたショートメッセージに、リベのタブレットから帰ってきたのは、お花がいいな。会えた時に。そんな趣旨が綴られた、シンプルで短い英文だった。
普段ならビデオチャットなのにちょっと珍しい。それにしても、花かぁ。何がいいかな——。
日の下で見ると、いっそう映えた色合いになる彼女のふわふわの髪。浮き浮きと思い浮かべた僕が走らせた親指と視線が、レベッカの名前を冠した真紅のベゴニア、そのすぐ隣に表示されている淡紅色の花束に縫い止められた。
花びらのフチの方だけ、ほんのちょっと緑掛かった、カラーリング。この花、絶対、リベに似合いそう。
ほとんど直感みたいに僕は思う。
「ありがとうございましたー」
ゆきたちが懇意にしている、若大将に見送られて、バス停前の花問屋をあとにした僕の右腕には、大ぶりではないけれど、けしてささやか過ぎない色とりどりのブーケ。
大切な贈り物だから、ちゃんと左手を添えたカラフルなベゴニアのひと塊を自転車の前カゴに収めた僕は、立ち乗りの前傾姿勢で茜射す坂道を登り始めた。
息せき切りながら、ソワソワした気持ちとともに、ペダルを踏み込む。
——御家のことで統君と大事な話があるの。だからそのあと、笙真君と二人きりで夜桜を見に行けたら、リベは嬉しいんだけど⋯⋯って、思っちゃうの。やっぱりそれって、だめ?
同じ甲南湖にいるのに、中々顔を合わせるタイミングがなかった、僕とリベが午前中に交わした短時間のビデオチャット。僕の部屋の真上にあるであろう二間続きの客間、その背景へ映り込んだマーゴットのやつを気にしているのか、チラチラと後ろを振り返りながら尋ねてきたリベに、僕は一も二も無く頷いてみせる。
「ダメなわけないよ。嫌じゃないし、全然大歓迎。湖のほとりで、夜店も出るから、リベさえよければ、そこまで足伸ばしてもいいしね」
「ん」
「七時半に、森の入り口で待ち合わせしよ? 地図、このあと共有させるから、きちんと見ておいてね?」
「うん、わかった。——ちゃんと、見とく」
前に会った頃より、ほっそりした小首を傾げて、リベが笑顔で返事をした。彼女にしては、少し曖昧な仕草。
元気、なさそうだったな。屋台巡りがてら、リベの話を聞いてあげなきゃ⋯⋯!
思い直して、再びペダルに体重を掛けた僕の後ろ頭を、生温い春の風がざあっと通り抜けた。
◆
夜九時を回っても、リベは現れなかった。彼女が普段使いしてるタブレットはWi−Fiモデルだから、電話の先は、僕より早く彼女と約束していたらしい、親友のスマホ。⋯⋯だったんだけど、もう何度も電話やLINEを掛けているのに、つながる気配なんて完全にゼロ。
リベの端末に向けて、ダメ元で何度か送ったメッセージへの反応もナッシング。本当にナシのつぶて。
ああ見えてリベは、僕と違って、一人で出歩くことが滅多にない、お嬢様なんだ。
だからどうせ、同行者のスマホがあるからって、タブレットは屋敷に置きっぱなしにでもしているんだろうな。
そんな予想通り、送ったメッセージに、ひとつの既読だって、付きやしない。
せっかくの花束が雨で台無しにならないように前カゴに掛けていた僕のデニムジャケットは、すっかりびしょ濡れで、今はカゴの中に押し込まれている。
仕方がないから、森へと続く桜並木を離れて、リベと回るはずだった甲南湖の湖岸まで立ち並んでる露店の軒先で、雨宿り代のつもりで買ったカスタード入りの大判焼を無言で齧りながら、黒い雨空を、僕は見上げた。
バレンタインのお返しとして、リベに渡すはずだった、ベゴニアの花束を抱えたままで。
統が一緒なんだぞ。変なことなんて、起こるわけもないけど——でも、やっぱり心配。
さすがに、遅すぎる。絶対、何かおかしい。
⋯⋯二人を探しに行きたい。出水師匠に連絡して、傘かカッパ、届けてもらおうかな?
口に頬張っていた、甘みのある生地とクリームを、白鼠の時みたいにモグモグごくんと飲み込む。すると、胸騒ぎでジリジリ熱くなっていた身体の奥に、魔法の調子が悪くないことを告げる、少しだけ心地の良い温度が湧き上がってきた。
あのあと、今夜は冷える予報だから子供は帰るべしという、師匠の言葉に素直に応じないで、自転車と花だけを家に戻して、僕が森へ入ってたら、もしかして、リベと統、今頃無事に————
⋯⋯風? ううん、耳鳴りだろう。
真っ暗闇の中で、臥せっているはずの僕の右のほっぺたに、ごうごうと音が突き刺さってくる。
僕の魔法が、行き当たりばったりに拾い集めてくる、自分自身の脈動なんだろうけど、視界が閉ざされてるせいで、余計にはっきりと聞かざるをえない。
僕の一番の強みでもある、宮代家の「明かし」特有の目はこれっぽっちも利かないのに、耳と膚は、異様なほど全開中の全開。つまり、絶好調どころか、超がついちゃうくらい、断然の絶不調だった。
普通なら絶対に意識に上ったりしない、細かな雑音と触覚を一滴も残さず集めて、煮詰めたような、そんな不協和音。
律さえ一定しない、ぞわぞわする感じを、背中側を中心に嫌と言うほど身体中に塗りたくられながら、僕は、飛び飛びにリフレインしている夢と、目覚めのちょうど境い目にいる。
完全には、落ちたくない。そんな一心だけで、ただずっと、堂々回りしていたみたいだった。
師匠が口にしていた、午後に彼女たちが来る。それが本当なら、なにがどうあれ、きちんと起きていなきゃいけない。
リベを再び泣かせるのは、本当に心外だった。
あのマーゴットにまた何か言われるのも、不本意の極みだから、どこかに「とっかかり」を作って、とにかくちょっとでも早く! 目を覚まさないと!
でもさ、どうやって?
下のほうから浮かび上がってきた、自らへの問いかけに、僕の心は少しの間、迷走して——なによりも強い刺激をくれそうな、あの子の——リベの鋏の魔法に斬りつけられた、頬の傷口に、意識と気合を、ひたすらに撚り合わせ始める。
時間をかけて重ねた集中の甲斐あって、みっともなく叫んじゃうのだけは、ギリギリで回避することに成功した僕の主観に向かって、痛みとともに、一気になだれ込んできたのは、マーゴット・アデリーと同系統の、ものすごく読み辛そうな、アイス・ブルーの視線の存在。
壁にもたれて腕組みをした、オールバックのその人の名前を呼ぶ、不自然にこわばった出水師匠の思考も、師匠が掌をついた皺くちゃのシーツと掛布に守られた僕の皮膚を通じて僕の頭に、直接沁み渡ってきた。
「デイビッド様。昨日お返事を致しました通り、その件は、私の一存では決めかねます。(このキザな鳥男)まさかとは思いますが、(白頭鷲のくせにニワトリ風を装って)聞かなかったことにして蒸し返しになさる御積りで(ございま)すか?」
丁寧な口調とは裏腹に、言葉の端々に棘のある慇懃無礼な言い回し。師匠のうんざり具合が聞こえてしまうくらい、バタバタに乱れた僕の「読み」に、意味不明な「マーベラス!」という、突然のがなり声が飛び込んできたのは、まさしく次の瞬間だった。




