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9話目

「やっぱり。もうとっくに動けてたんですね。」


部屋は暗闇に包まれていたが、わずかな月明かりが窓から差し込んでいる。


ルーシーはそっとランプを持ち上げ、光を灯す。


「……っ!!」


低く、驚いたような声が聞こえた。


振り向くと、そこには――


ヴァルドリヒがいた。


彼はトイレの前で立ち尽くし、ルーシーの突然の侵入に明らかに動揺していた。


ヴァルドリヒは、まるで罪を犯した子供のように、困惑した表情を浮かべた。


彼の足がふらつく。


「……っ。」


そして、そのまま崩れるように膝をついた。


「侯爵様!!」


ルーシーは慌ててランプを床に置き、彼のそばへ駆け寄る。


「大丈夫ですか!?」


ヴァルドリヒの腕を支えると、彼の体は驚くほど軽かった。


(やっぱり……まだ完全には回復していない……。)


彼は何も言わない。


ルーシーはとりあえず、彼をベッドへと運ぶことにした。


「さあ、ゆっくり休みましょう。」


ルーシーはそっとヴァルドリヒを寝台に横たえ、毛布をかける。


彼は静かに目を伏せたままだった。


ルーシーは一度深く息をつき、それからまっすぐ彼を見た。


「……どうして言ってくれなかったんですか?」


ヴァルドリヒの肩が、わずかに揺れた。


だが、彼は答えない。


ルーシーは彼の顔をじっと見つめる。


(顔を背けて……苦しそうにしてる。)


何かを言いたいのに、言えないのか。


それとも――


(もしかして……英雄としてのプライド?)


この世界に「介護」という概念がほとんどないのだとしたら、ヴァルドリヒにとって「世話をされる」こと自体が、屈辱に近いものだったのかもしれない。


(彼は戦場を駆け抜けた英雄……それが、こんなふうに弱っている姿を誰かに見せるのは……きっと耐えられないことなんだわ。)


そう考えたら、ルーシーはふっと力を抜いた。


「……とりあえず、わかりました。」


彼の気持ちを尊重することにした。


「では、ゆっくり休んでください。」


そう言って、ルーシーは静かに立ち上がり、部屋を出ようとした。


その瞬間――


ガシッ!!


「……!?」


驚いた。


ヴァルドリヒの手が、ルーシーの手首を掴んでいた。


そして、次の瞬間――


「行くなっ!!」


低く、かすれた声。


だが、確かにそれは彼の声だった。


ルーシーの目が大きく見開かれる。


(喋った……!?)


驚きと混乱の中、ルーシーはじっとヴァルドリヒを見つめた。


彼の顔は月明かりに照らされていた。


不安そうに揺れる金色の瞳――


まるで、今にも壊れそうな、そんな儚い表情だった。


「……侯爵様……。」


ルーシーは、掴まれた手をじっと見つめた。


ヴァルドリヒの指は痩せ細り、しかし、その力は弱々しいながらも必死にルーシーを引き止めようとしていた。


彼は何も言わない。


ただ、離そうとしない。


「大丈夫です。」


ルーシーは、優しく微笑みながら彼の手を握り返した。


「私はいなくなりません。」


ほんの少しだけ、ヴァルドリヒの指が震えた気がした。


ルーシーはそのまま、彼のそばにそっと腰を下ろした。


「………い…今更…どう…接すれば…いいんだ…。」


かすれた声が、暗い部屋の中に滲むように響いた。


ルーシーは驚いた。


ヴァルドリヒの声には、かすかな苦悩がにじんでいた。


「……?」


彼はルーシーの手を握ったまま、顔を伏せ、まるで堰を切ったように言葉をこぼし始めた。


「……最初は、ただ寝付けないだけだった。」


低く、途切れ途切れの声だった。


「戦争のあとには……よくあることだ……。自分が斬った相手の叫び声が、耳にこびりついて離れなくなる……。」


(戦争の……。)


ルーシーは息をのんだ。


「……だから、最初は……ただの不眠だったんだ。医者が……睡眠薬をくれた。……それが……始まりだった……。」


ヴァルドリヒの肩が、かすかに震えた。


「最初は、ただ眠れるだけで……ありがたかった……。だけど……。」


彼の拳が、シーツの上でわずかに強張る。


「……気づけば、ペンが持てなくなっていた。」


ヴァルドリヒの声が、かすかに震えた。


「剣も……持てなくなった……。」


「……。」


「そして……最後には……。」


ヴァルドリヒは、目を閉じたまま静かに息を吸い込んだ。


「動けなくなった。」


ルーシーの喉がひりつくような感覚に襲われた。


ヴァルドリヒは、ゆっくりと顔を伏せる。


「……何も……見えなかった。」


彼の声が、さらに小さくなる。


「目隠しを……されていたから。」


「侯爵様……。」


「何も……見えないまま……。」


ヴァルドリヒの唇が、噛み締められた。


「……目の前で、使用人たちが……あの医者に虐げられていた……。」


彼の息が、震える。


「……けれど、俺には……何もできなかった……。」


目隠しの向こうで、何が行われているのかもわからない。


それでも、時折響く悲鳴や、押し殺したすすり泣き――それが何を意味するのかは、痛いほど理解できた。


「日に日に……じわじわと……体が動かなくなった。」


「……。」


「口も……開かなくなって……。」


「……それでも、何も言わず……耐えるしかなかった。」


「……っ。」


ルーシーの胸が、締め付けられる。


ヴァルドリヒは、苦しげに目を伏せたまま、喉を震わせた。


「……悔しかった……。」


彼の声が、ほんのわずかに震える。


「……どれだけ……悔しかったか……。」


「侯爵様……。」


「剣を振るえない俺は……戦うことすらできない……。」


「指一本、動かすこともできないまま……。」


「……そんな俺を……誰が……」


ヴァルドリヒは、声を詰まらせた。


「……誰が……英雄と呼ぶんだ……。」


(英雄……。)


ルーシーは、彼の横顔を見つめた。


戦場で命を懸け、国を守った男。


かつての彼を称えた人々は、彼が動けなくなった瞬間に、彼を恐れ、遠ざけた。


(この世界に……介護なんて概念がないんだ。)


誰も、弱った彼を支えようとはしなかった。


彼はただ、見捨てられ、恐れられ、孤独の中にいた。


「……でも。」


ヴァルドリヒは、ゆっくりと顔を上げた。


「……献身的に世話をしてくれたのは……お前が初めてだった。」


ルーシーの胸が、熱くなる。


「回復していくのが……わかるたびに……。」


ヴァルドリヒは、かすかに息を震わせた。


「どうすればいいのか……わからなくなった……。」


「……。」


「動けるようになればなるほど……。」


「……お前に……どう接すればいいのか……。」


「……怖かった。」


ヴァルドリヒの声が、掠れる。


「情けなくて……惨めで……。」


彼はぎゅっと唇を噛み締めた。


「……こんな姿を……見せたくなかった……!」


ルーシーは、思わずヴァルドリヒの手を強く握った。


「そんなの……関係ありません!」


「……っ。」


「侯爵様が、どんな状態であろうと……関係ありません。」


ルーシーは、真剣な眼差しで彼を見つめた。


「私は、侯爵様を……見捨てたりしません。」


ヴァルドリヒの瞳が、揺れる。


そして――


頬を伝う、ひとすじの涙。


「……っ。」


彼はすぐに目を伏せた。


「俺は……。」


「侯爵様……。」


彼の肩が震えていた。


「俺は……。」


「……生きていて、いいのか……。」


その言葉に――ルーシーの胸が、締め付けられた。


彼は、心のどこかで、ずっと自分を責め続けていたのだ。


戦場にいた頃から、今に至るまで、ずっと。


ルーシーは、そっとヴァルドリヒの手を包み込んだ。


「……生きていてください。」


彼は――泣いていた。


長年、閉ざされた瞳から零れ落ちる涙が、静かにシーツに滲んでいく。


ルーシーは、その涙が止まるまで、ただ静かに彼の手を握り続けた。

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