8話目
陽が高く昇り、窓から差し込む光が穏やかに部屋を照らしていた。
ヴァルドリヒ侯爵のそばで、ルーシーは静かに布団を整える。
(……なんだか布団の乱れが少ない気がする。)
朝、部屋を訪れるたびに気になっていた。どんなに丁寧に寝かせても、多少は寝返りで乱れるはずの布団が、ほぼ乱れていないのだ。
(もしかして、寝返りをほとんど打っていないのかしら? それとも……?)
けれど、ルーシーはその疑問を一旦脇に置き、今日のリハビリに集中することにした。
「侯爵様、今日は少し立ち上がる練習をしましょう。」
ヴァルドリヒは何も言わず、ただルーシーを見つめる。意識があるのか、ないのか。それすらも分からない。
(でも、ここまで回復してきたんだもの。きっと大丈夫。)
ルーシーはそっと彼の手を取り、軽く指をほぐしながら声をかける。
「まずは足の運動からですね。」
リハビリにおいて、いきなり立ち上がるのは危険だ。まずは関節をほぐし、血流を促すことが大切。
ルーシーは彼の足首をそっと回す。最初は硬かった関節も、数日間のマッサージとリハビリの甲斐あって、少しずつ柔らかくなってきた。
「ゆっくり、ゆっくり……。」
そう言いながら、膝の屈伸運動へと移る。
ヴァルドリヒの足は驚くほど細く、筋肉が落ちてしまっている。廃用症候群の症状は明らかだった。
「血流を促すために、指先からマッサージしていきますね。」
ルーシーはゆっくりと足の指を刺激し、足裏のツボを押しながら、筋肉に働きかける。
「足は第二の心臓とも言われているんですよ。だから、こうして刺激を与えることで血の巡りが良くなり、回復を早めることができるんです。」
ヴァルドリヒは何も言わないが、微かにまぶたが震えたように見えた。
(やっぱり、意識はある……?)
ルーシーはそっと彼の背中を支えながら、ゆっくりと上体を起こした。
「侯爵様、少し座る練習をしましょう。」
ヴァルドリヒの肩に手を添え、ゆっくりと上体を起こす。彼の体はまだ不安定で、支えなしではすぐに崩れてしまいそうだった。
「ゆっくり、深呼吸をしてくださいね。」
そう言いながら、ルーシーは彼の背中を支えたまま、安定するのを待つ。
(次は、いよいよ立ち上がる練習ね。)
リハビリで立ち上がるときは、一気に力を入れすぎないことが大事。
「では、いきますよ。私が合図をしたら、ゆっくり足に力を入れてください。」
ルーシーは彼の腰を支えながら、慎重にカウントを取った。
「……せーの。」
ヴァルドリヒの足に、わずかに力が入る。
(いける……!)
そう思った瞬間——
「っ……!」
ヴァルドリヒの膝がわずかに震え、力が抜けた。
そのまま崩れるように倒れそうになる。
「侯爵様!!」
ルーシーは慌てて彼の体を支え、再び寝台へと戻した。
「大丈夫ですか?」
ヴァルドリヒは微かに眉を寄せたものの、何も言わない。
(やっぱり、まだ早かったのか……?)
でも、今の一瞬、確かに足に力は入っていた。
(これは……確実に回復してる。でも、どうして何も言わないの?)
ルーシーは彼を見つめながら、そっと微笑んだ。
「侯爵様、今日はここまでにしておきましょう。でも、立ち上がるところまでは成功しましたね。」
ヴァルドリヒの表情は読めない。
(やっぱり、意識はあるのかも……。)
ルーシーは少し考えた後、思い立ったように言った。
「そうだ……侯爵様、自己紹介が遅れていましたね。」
彼は静かにルーシーを見つめる。
「私はルーシーといいます。……と言っても、最近記憶をなくしてしまったので、自分のことはあまり覚えていませんが。」
軽く笑いながら、彼女は続けた。
「でも、侯爵様のことは、ちゃんとお世話させていただきますので、ご安心ください。」
ヴァルドリヒの瞳が、わずかに揺れた。
(……やっぱり、聞こえてる。)
確信までは持てないけれど、彼の目の奥に何かが宿っている気がした。
――――――――
―――――――
その夜。
ルーシーはいつものように、ヴァルドリヒの食事の準備をしていた。
(食べるペースも少し早くなったし……。)
最近、彼の嚥下能力が向上しているのを感じていた。以前はとろみのついたスープや流動食ばかりだったが、今ならもう少し固形に近いものも食べられるかもしれない。
介護の知識として、嚥下機能が回復しているかどうかを確認する方法のひとつに、「唾液の嚥下テスト」がある。
(喉の動きも以前よりスムーズだし、大丈夫……かな。)
慎重に、小さくカットしたやわらかいパンをスープに浸し、ほんの少しだけ固形物を含んだ食事を作る。
「侯爵様、少しだけ新しい食事を試してみますね。」
ヴァルドリヒの顔を見ながら、スプーンにのせたパンを差し出す。
彼の唇がゆっくりと開き、スプーンを受け入れる。
――ゴクリ。
しっかりと、飲み込めた。
(よかった……!)
慎重にもう一口。ゆっくりと咀嚼し、再び飲み込む。
「とても上手ですよ。」
ルーシーは微笑んだ。
(少しずつだけど、確実に回復してる。)
―――――――――
―――――――
ルーシーはヴァルドリヒの食器を片付けながら、ふと最近の変化を思い返していた。
(嚥下機能も回復しているし、足にわずかに力が入るようになってきた。)
それだけじゃない。彼の表情も、少しずつ変わりつつある気がする。ほんのわずかに眉を寄せたり、喉を動かしたりと、以前よりも明らかに反応が増えている。
(でも……何かが引っかかるのよね。)
それは、排泄のタイミングだった。
彼の夜間の排泄リズムは、これまでほぼ一定だった。それなのに、最近は夜中に誘導する必要がほとんどなくなった。
(これって……どういうこと?)
介護の経験上、完全に寝たきりの人は、基本的に介助が必要なはず。でも最近、ヴァルドリヒは一度も夜間に粗相をしていない。
(まさか……自分でトイレに行ってる?)
いや、それは考えすぎかもしれない。彼の筋力はまだ不十分で、立つだけでもやっとだったはず。それなのに、自力で歩いてトイレまで行くなんて……。
でも、何かが違う。
今までは夜中に何度か様子を見に行くと、彼は必ず寝ていた。それが最近、朝までぐっすり眠っているかのように思えたのだ。
(もしかして、私がいない間に……?)
疑念がふくらんでいく。
(確かめるしかないわね。)
そう決意したルーシーは、深夜、こっそりとヴァルドリヒの部屋に張り込むことにした。
――――――――
―――――
夜が更けると、館の中はひっそりと静まり返り、風の音さえも遠くにかすかに聞こえるほどだった。
ルーシーは薄暗い廊下を歩きながら、ヴァルドリヒの部屋の前で立ち止まった。門番が不審そうにこちらを見てくる。
「……シーッ。」
人差し指を唇に当て、静かにするよう合図する。門番は少し戸惑った様子だったが、何も言わずに頷いた。
(さて……本当に動いてるのかしら?)
ルーシーは扉にそっと耳を当てる。
――しんと静まり返った空間。
やはり何も聞こえない。ただの勘違いだったのだろうか。
(……やっぱり何も……)
そう思いかけた、そのとき――。
ギシッ……
微かに、床の軋む音がした。
(……!)
ルーシーの心臓が跳ねる。
(今、動いた……!?)
息を殺し、じっと耳を澄ませる。
次の瞬間――
キィィ……
静まり返った空間に、小さな音が響く。
(扉……トイレの扉が開いた!?)
今だ!
ルーシーは一気に部屋の中へと飛び込んだ。