7話目
「リハビリ次第で、動けるようになる可能性が高いわ。」
フローレイがさらりとそう言った瞬間、私は思わず彼女を見つめた。
「えっ、本当ですか……?」
思わず前のめりになってしまう。
ヴァルドリヒ侯爵様は、ずっと寝たきりだった。
衰弱しきった体を見て、私は正直、回復するまでにどれだけ時間がかかるかわからないと思っていた。
でも、動けるようになる「可能性が高い」と断言されたのだ。
フローレイは私の反応を見て、肩をすくめながら言った。
「まぁね。神経毒の影響で長期間麻痺していたのは事実だけど、体の機能自体は完全に失われてはいないわ。」
「ただし——」
彼女の表情が少し引き締まる。
「長期間動かなかったことで、筋肉が極度に衰えている。」
「廃用症候群……ですね。」
私は小さく息をつく。
廃用症候群——長期間、寝たきりになることで筋力が衰え、関節が固まり、最終的には動くことすら困難になる状態のことだ。
つまり、筋力を戻すためのリハビリが必要になる。
「そういうこと! お嬢ちゃん、詳しいね。」
フローレイは嬉しそうに頷いた。
「まぁ、すぐには歩けないし、動かすだけで激痛を伴う可能性も高いけどね。」
私は思わず、寝台で静かに横たわるヴァルドリヒ様を見た。
(すぐには歩けない……でも、リハビリを続ければ、いずれは……?)
胸の奥に、小さな希望が灯る。
これまでの介護も無駄じゃなかった。むしろ、リハビリを意識した介護に切り替えれば、回復のスピードを上げられるかもしれない。
「まずは関節を動かす訓練を取り入れないと……。」
「いいねぇ、そういう前向きな姿勢!」
フローレイはニッと笑って、私の背中をバシッと叩いた。
「私もできる限り手伝うけど、リハビリは毎日が勝負。お嬢ちゃんの頑張りにかかってるわよ!」
「はい!」
はじめてここへ来てからの数日間、私はがむしゃらに介護していた。
ただひたすら、食事を作り、体を拭き、寝かせ、また起こす。
だけど今思えば、「ただの世話」 でしかなかった気がする。
(リハビリを意識して介護していれば、もっと違っていたかもしれない……。)
ヴァルドリヒ様は、長い間この部屋に閉じ込められていた。
それなのに、ひどい床ずれができている様子はない。
それが不思議だったので、フローレイに尋ねると、彼女は肩をすくめながら言った。
「ポーションで外傷を癒していたみたいよ?」
「……えっ?」
「ほら、皮膚が綺麗でしょう? もしずっと寝たきりだったら、床ずれでボロボロになってるはず。でも、定期的にポーションを使って外傷だけは治していたんじゃないかしら。」
「そうだったんですね……。」
つまり、見た目はひどく衰弱しているものの、最低限の治療はされていたということか。
でも、それならなおさら……もっと早く適切なケアができていたら、ここまで弱らずに済んだかもしれない。
(私が来るまで、彼は一体どれだけ放置されていたの?)
思わず胸が締めつけられる。
でも、もう後悔しても仕方がない。
今できることを、少しずつでもやっていくしかない。
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「よし、今日は関節を動かす訓練を始めてみますね。」
ヴァルドリヒ様のそばに座り、そっと彼の手を握る。
骨ばった指は相変わらず冷たく、痩せた腕は軽すぎるほどだった。
「まずは手首をゆっくりと回しますね。」
関節を動かす訓練は、まずは小さな動きから。
無理をすれば痛みを伴うし、リハビリ自体が苦痛になってしまうこともある。
私は慎重に、彼の手首をそっと支える。
まるで壊れそうなほどに細い腕。でも、骨の感触はまだしっかりとしている。
(焦らず、ゆっくり。少しずつ、少しずつ……。)
心の中で自分に言い聞かせながら、ヴァルドリヒ様の手首をやさしく回していく。
……すると。
「……っ。」
かすかに、ヴァルドリヒ様の指がピクリと動いた。
「……!」
思わず息を呑む。
反応があった。
神経が完全に死んでしまっているわけではない。
ちゃんと、少しずつだけど動かせる——!
(やっぱり、リハビリを続ければ、回復の見込みはあるんだ……!)
小さく安堵しながら、次は肩のあたりをゆっくりとほぐす。
「痛かったら、少しでも動かしてくださいね。」
そう声をかけながら、慎重に腕を上げたり下げたりする。
普段なら当たり前にできる動きのはずなのに、ヴァルドリヒ様の腕は重力に逆らえず、私が支えないとすぐに落ちてしまいそうだった。
(やっぱり筋力が落ちすぎてる……。)
でも、それでも。
さっきの指の動きを見てしまった以上、私は諦めるわけにはいかない。
「次は足首を動かしていきますね。」
寝台の端に座り、ヴァルドリヒ様の足にそっと手を添える。
彼の足も、細く、しかし長い。かつて戦場を駆けたであろう脚は、今では信じられないほど力が抜けている。
指を一本ずつさすり、足首をゆっくりと回していく。
(血流を促して、少しでも筋肉が固まらないようにしないと。)
私は慎重に動きを続ける。
すると、ふとヴァルドリヒ様の顔を見上げると、彼は静かに目を閉じていた。
「……痛みますか?」
小さな声で尋ねる。
彼は何も答えない。
でも、かすかに指先が動いた気がした。
(少しは感じている……?)
だとしたら、それは良い兆候なのかもしれない。
「……少しずつ、慣れていきましょうね。」
私はそう呟きながら、ゆっくりと足の筋を伸ばすようにマッサージを続ける。
(まだまだ時間はかかる……でも、必ず——。)
私はそっと、彼の足を布で包みながら、心の中で誓った。
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私はスプーンでやわらかく煮たジャガイモをすくい、丁寧にすりつぶす。
そこに少しだけとろみを加え、なめらかになるまでゆっくりと混ぜていく。
(飲み込みやすいように……これくらいの滑らかさでいいかな?)
慎重にスプーンですくい上げ、粘度を確かめながら、小さく息を吐いた。
「侯爵様、食事の時間ですよ。」
私はそっとヴァルドリヒ様のそばに座り、目線を合わせるようにして声をかける。
彼の表情は変わらない。
それでも、わずかにまつ毛が震えたのが見えた。
(意識はちゃんとある……大丈夫。)
私はスプーンを唇のそばに持っていき、優しく声をかける。
「ゆっくり、口を開けてくださいね。」
一瞬の間のあと、ヴァルドリヒ様の唇がわずかに開く。
私は慎重にスプーンを差し入れ、ゆっくりと口の中へ運んだ。
舌の上にジャガイモが乗ると、彼はゆっくりと口を閉じる。
咀嚼の音はほとんど聞こえないけれど、わずかに喉が動くのを確認できた。
(……飲み込めた!)
安堵しながら、次の一口を準備する。
「すごいですね、侯爵様。その調子で、少しずつ食べていきましょうね。」
そう声をかけながら、今度は飲み物を用意する。
スープにも、とろみを加えておいた。
液体のままだと誤嚥のリスクがあるけれど、これなら喉を通るスピードがゆるやかになる。
スプーンにすくい、再び口元へ運ぶ。
「……ゆっくり、飲んでくださいね。」
侯爵様の唇が開き、スプーンを受け入れる。
一瞬、喉がわずかに動く。
「……ゴクリ。」
小さな嚥下音が聞こえた。
(ちゃんと飲み込めてる……!)
私は思わず、胸をなでおろす。
(こういうとき、お金持ちの家でよかったって思う。)
食材は新鮮で、調理器具もそろっている。
たとえ食事に手間をかけても、必要なものはすぐに用意できるし、質のいい食材を選ぶこともできる。
もし、貧しい家だったら、ここまで丁寧な介護はできなかったかもしれない。
ましてや、ポーションで外傷を治したり、優秀な医者を呼んだりなんて、到底無理な話だ。
(ヴァルドリヒ様がこんな状態になっても、生き延びることができたのは……この家の財力のおかげでもあるのかもしれない。)
もちろん、それだけではなく、ギルクス様や臣下の人たちが侯爵様を守り続けてきたおかげでもあるのだろう。
私は、スプーンをもう一度すくい、そっと微笑む。
「侯爵様、もうひと口いきますよ。」
ゆっくり、ゆっくりと。
一口ずつ確かめながら、慎重に食事を進めていった。




