43話目
夜の静けさが寝室を満たし、外の風がカーテンをわずかに揺らした。
窓から入り込む月明かりが、天蓋の布を柔らかく照らし、燭台の炎が揺れるたびに壁に淡い影を落とす。
ベッドの中、ヴァルドリヒはルーシーをしっかりと抱き寄せていた。
彼の腕の中にすっぽりと収まる彼女の体温は、まるで長い旅の終わりに見つけた安息のように心地よかった。
――あの執務室での尋問のあと……
ルーシーは、彼の腕に包まれたまま小さく息をついた。
「追って、処分を言い渡す」とだけ言って会議を解散し、そのまま寝室に戻って食事をとり、こうして彼の腕の中にいる。
けれど、ヴァルドリヒはずっと黙ったままだった。
「……ヴァル」
そっと彼の頬に手を添える。
「怒ってるんですか?」
その問いに、ヴァルドリヒはルーシーの髪に顔を埋めるようにしながら、深く息を吸い込んだ。
「あぁ……よくも勝手なことをしてくれた……」
吐息が耳元に触れ、ルーシーはくすぐったさに小さく肩をすくめた。
「一ヶ月だぞ……」
その低く抑えられた声には、寂しさと怒りが滲んでいた。
彼はゆっくりと、ルーシーの首筋に鼻先を寄せ、愛おしそうに香りを確かめるように息を吸い込んだ。
「ヴァル……」
「お前が悪いんじゃない、わかってる……だが……」
彼の腕が、ルーシーをさらに引き寄せる。
「ですけど……」
ルーシーは、困ったように微笑んだ。
「私のため……ですし……」
フローレイは、間違いなく彼女のために動いた。
だからこそ、ヴァルドリヒの怒りが向けられているのはフローレイなのだろう。
「……お前は気づいていないかもしれないが、アイツは他にも、色々やらかしてる」
「え!? そうなんですか?」
ルーシーは驚き、ヴァルドリヒの顔を見上げる。
「……腹の底が見えんやつだ……」
ヴァルドリヒの金色の瞳が、どこか鋭く光った。
けれど、どこか遠い記憶を思い出すように、その視線はゆっくりと沈んでいく。
「フローレイ様とは……戦場で出会ったんですよね?」
「……あぁ」
その一言とともに、ヴァルドリヒの脳裏に、かつての戦場がよみがえる――。
―――――――――
―――――――
剥き出しの大地に、血の匂いが漂っていた。
槍と剣が交差し、響き渡る金属音。
瓦礫の間に転がる仲間の亡骸。
ヴァルドリヒは、傭兵として戦場を駆けていた。
己の剣の腕一つで生き抜く、混沌とした時代だった。
そして――そこで出会った。
「……なんだ、女が戦場に?」
戦場に、"軍医" として現れたのは、青髪に珍しい褐色肌の美しい女だった。
フローレイ――。
最初は、彼女の存在に違和感を覚えた。
女が戦場にいること自体、珍しい。
それでも、周囲の兵士たちは口々に言った。
『あの医者に治療を受けたら、絶対に助かる』
だが――。
(俺だけ、明らかに雑な処置しかされていなかった)
傷口は縫われていたが、最小限の処置。
他の兵士には精密な治療が施されているのに、俺だけは適当に包帯を巻かれただけのような状態だった。
(……気を引きたいのか? それとも、俺に何か恨みでもあるのか?)
疑念が募るばかりだった。
ある時、致命傷を負った。
戦場で斬られ、出血が止まらないまま、俺は運ばれた。
「……やれやれ、仕方ないね」
フローレイは、呆れたように俺を見下ろした。
「助けてほしいなら、叫んでもいいよ」
そう言った瞬間――。
「っ――!!!」
何の前触れもなく、アイツは俺の体にメスを入れた。
麻酔なしで。
血が噴き出し、激痛が脳を焼き尽くす。
俺は戦場で傷を負ったことは何度もあるが、この時ばかりは本気で泣き叫びそうになった。
(こいつ……俺を辱めるつもりか!?)
汗が滲み、痛みに震えながら、俺はただ耐えることしかできなかった。
だが――。
(……アイツの治療法は、確実に"最新医療" そのものだった)
学のない俺ですら、それが理解できた。
確かに、処置は酷かったが、結果として俺は助かった。
しばらくして、俺の軍にギルクスが加わった。
最初は気にしていなかったが、ある時ふと気づいた。
――ギルクスには、手厚く治療をしていた。
「……俺への嫌がらせ、確定じゃねぇか!!」
それを見た瞬間、俺は確信した。
アイツは明らかに、俺にだけ冷たい!!
だが、それでも――彼女の医療技術が優れていることは確かだった。
俺が"自軍"を持てるようになった頃、俺は決断した。
「フローレイを雇え」
俺の軍には、彼女の力が必要だった。
それは、ギルクスの提案でもあった。
「……アイツは優秀だ。必要なら、雇うべきだろう」
戦場で生き抜くためには、"本物"が必要だった。
そして、フローレイは間違いなく、本物の医者だった。
それから、俺は彼女を雇い、支援することを決めた。
―――――――――
―――――――
ヴァルドリヒは、静かに目を閉じる。
「……そういうわけだ」
淡々と語られた彼の言葉。
ルーシーは、その内容の重さにじっと耳を傾け、心の中で整理しようとしていた。
「……そんなことが……」
フローレイの過去。
戦場での彼女の行動、ヴァルドリヒへの対応、そしてギルクスへの態度。
それらすべてに、何か彼女なりの理由があったのだろう。
(彼女は……ただの医者ではない。何かを抱えながら、何かのために生きている)
ルーシーは、そう確信しながら、そっとヴァルドリヒの腕を握った。
彼は疲れたように額をこすりながら、低く呟く。
「アイツが何を考えているのか、未だによくわからん……」
「……」
ヴァルドリヒほど長く彼女を見てきた人間がそう言うのなら、フローレイという人間はそれほどに掴みどころのない存在なのだろう。
ルーシーは、深く息を吐きながら口を開いた。
「……どんな処罰を下すつもりですか?」
ヴァルドリヒは、少し間をおいてから、淡々と言った。
「ギルクスを一ヶ月、軟禁だ」
「……え?」
一瞬、ルーシーの頭の中で、処罰の内容がうまく整理できなかった。
「ギルクス様が、軟禁……? それって……罰なんですか?」
「……あぁ、アイツはギルクスにだけは昔から甘々だからな」
ヴァルドリヒは苦笑しながら、天井を見つめる。
「フローレイは戦場にいた頃から、ギルクスには『少し休め』だの『無理をするな』だのと言い続けていた」
「……そうなんですか?」
ルーシーが驚いたように問い返すと、ヴァルドリヒはゆっくりと頷く。
「戦争が終わった後も、俺の代わりに侯爵家を支えていたギルクスのために、フローレイは領地の視察をしたり、屋敷から動けないギルクスの足となって支えていた」
「……」
フローレイが、ただの医者としてではなく、ギルクスのために動いていたことを知り、ルーシーは少し胸が温かくなった。
「そうだったんですね……でも、それなら、もう十分軟禁されていたと言えるんじゃないですか?」
ヴァルドリヒがルーシーの言葉に眉を寄せる。
「……どういう意味だ?」
「ギルクス様に逆にお休みを与えてみてはどうでしょう? それに、お二人は新婚旅行もまだでしょう?」
ヴァルドリヒは少し考えるように視線を落としたが、すぐにルーシーをじっと見つめる。
「……おい、ギルクスに様をつけるな」
「え?」
「フローレイにもだ」
ルーシーは一瞬きょとんとしたが、すぐに苦笑する。
「すみません……」
ヴァルドリヒは、ルーシーの髪を指で弄びながら、ふっと微笑む。
「俺に敬語もいらない……妻だろ?」
「そ、それは……」
ルーシーは一気に顔を赤らめる。
「ん?」
ヴァルドリヒがいたずらっぽく首を傾げると、ルーシーはぐっと唇を引き結び、視線を逸らした。
「ヴァルが……イケメンすぎるので、難しいです」
ヴァルドリヒは、一瞬目を瞬かせたあと――
「ははっ」
と、朗らかに笑った。
「そうなのか?」
「そうです。震えるほど素敵です」
ルーシーは、冗談半分、本音半分で言うと、ヴァルドリヒの瞳がわずかに細められる。
「……ほんとに、いつも煩わしいと思っていたが……」
彼は、ルーシーの頬にそっと手を添えながら、小さく微笑んだ。
「この顔は……ルーシーに気に入られるためにあるんだな」
その囁きに、ルーシーの心臓が一気に跳ね上がる。
「~~っ!!!」
恥ずかしさに耐えきれず、彼の胸に顔を埋めると、ヴァルドリヒは満足そうに彼女の背を抱きしめた。
ルーシーは、彼の鼓動を感じながら、そっと目を閉じる。