42話目
強い日差しが庭園の花々を照らし、木々の葉を揺らしている。
屋敷の門が開かれる音とともに、一陣の風が吹き抜けた。
――ヴァルドリヒが帰ってきた。
彼は、夜通し馬を走らせ、休むことなくゲレルハイム侯爵領へと戻ってきたのだ。
長時間の騎乗により、黒い軍服には砂埃がつき、額には汗が滲んでいたが、彼の足取りには一切の迷いがなかった。
「……旦那様、お戻りに!」
門番が慌てて声をあげるが、ヴァルドリヒは何も言わず、ただ真っ直ぐ屋敷の中へと足を踏み入れる。
いつもの冷静沈着な彼の姿とは異なり、その表情には焦りと切迫感が滲んでいた。
(ルーシー……どこだ)
一刻も早く、彼女の顔を見たい。
自らの腕で抱きしめ、その存在を確かめるまで、どうにも落ち着かなかった。
「旦那様! どうぞ、まずはお身体を――」
側仕えの執事が声をかけるも、ヴァルドリヒは手を挙げてそれを遮る。
「後にしろ」
鋭い声音とともに、まるで戦場を駆けるかのような速さで邸内を進んでいく。
屋敷の中を行き交うメイドたちが驚いたように立ち止まり、彼の鋭い気配に息を呑む。
そして――。
「ルーシーは?」
ヴァルドリヒは、一番近くにいた侍女のコリーに声をかけた。
「お、お部屋にいらっしゃいます!」
それを聞いた瞬間、彼は迷いなく寝室へと向かう。
大きな扉の前で一瞬立ち止まり、拳を軽く握りしめた。
(……会いたい)
その想いが、胸の奥から溢れる。
ヴァルドリヒは静かに扉を押し開けた。
――そこにいたのは、ルーシーだった。
彼女は、窓辺の椅子に腰掛け、ゆったりと膝掛けをかけている。
柔らかな陽の光が、彼女の黒髪を照らしていた。
「……ヴァル?」
ふと、扉の方を振り向いたルーシーの瞳が、大きく揺れる。
その瞬間――。
ヴァルドリヒは、躊躇なく彼女の元へと駆け寄った。
「ルーシー……っ!」
何も言わず、彼女の体を力強く抱きしめる。
「きゃっ……!」
驚いたように声を上げるルーシーだったが、そのままヴァルドリヒの腕の中に包み込まれる。
(……温かい)
ヴァルドリヒは、ルーシーの細い背を抱きしめ、彼女の温もりを感じた。
その瞬間、胸の奥に広がっていた焦燥や不安が、一気に溶けていく。
「……帰ったぞ」
低く、かすかに震える声。
それが、彼のどれほどの想いを込めた言葉か、ルーシーにはすぐにわかった。
「……おかえりなさい」
彼女は、そっと彼の背中に手を回し、優しく抱きしめ返す。
「……お前に会いたかった」
ヴァルドリヒは、彼女の髪に顔を埋めるようにして囁く。
喉の奥から絞り出すような、掠れた声だった。
「私も……」
ルーシーは、小さく微笑む。
ヴァルドリヒの腕は、まるで彼女を逃がさぬように強く、しかしどこか震えていた。
どれほど不安だったのか、どれほど彼女を求めていたのかが、その腕の強さから伝わってくる。
「……無理をしたんじゃないですか?」
ルーシーは、彼の髪をそっと撫でる。
額には汗が滲み、瞳には深い疲れが浮かんでいた。
「……どうでもいい」
ヴァルドリヒは、小さく息をつきながら答えた。
「それより……無事でいてくれて、よかった」
「ええ、私は元気です」
ルーシーは優しく微笑みながら、彼の背中をぽんぽんと叩いた。
ヴァルドリヒは、ゆっくりと目を閉じる。
(……あぁ、やっと帰ってこられた)
ルーシーの鼓動が、心地よく耳に響く。
この腕の中に彼女がいることが、ただそれだけが、何よりの安堵だった。
しばらく、二人は何も言わずに抱きしめ合っていた。
◇◆◇◆◇
ヴァルドリヒは湯浴みを終え、清潔な軍服から柔らかな部屋着へと着替えていた。
湯気で湿った金髪をタオルで乱暴に拭きながら、寝室へ戻る。
ベッドの上では、ルーシーが静かに待っていた。
「……ようやく、一息つけますね」
ルーシーが微笑みながらそう言うと、ヴァルドリヒは何も言わず、すぐにベッドへと上がった。
そのまま、彼女の隣に横たわり、すぐに腕を回して抱きしめる。
「……ヴァル?」
「……もう、離したくない」
低く、掠れた声が耳元に落とされる。
ルーシーは、彼の温もりを受け止めながら、小さく笑った。
腕の中に閉じ込めるようにして抱きしめるその強さが、どれだけの寂しさを物語っているのか。
それは痛いほど伝わってくる。
「ヴァル……まだ昼間ですよ?」
彼の胸に顔を寄せながら、少しからかうように囁く。
「……あぁ」
ヴァルドリヒは小さく息を吐いた。
「離れていた時間が……あまりにも長くてな」
ルーシーの背を撫でながら、さらに強く抱きしめる。
「もう少し長ければ――王を殺してしまうところだった」
ルーシーは目を瞬かせた。
「……全く、物騒なことを言ってはいけませんよ」
呆れたように言いながら、彼の胸を軽く叩く。
ヴァルドリヒは、微かに目を伏せたまま何かを考え込んでいるようだった。
その静かな沈黙が、彼がまだ王宮での出来事を整理しきれていないことを物語っていた。
「ヴァル……」
ルーシーは、ふっと小さく笑った。
「もしかして、何かやりたいことがあるのに、私とこうしていたいせいで葛藤しているんじゃないですか?」
「……っ!」
ヴァルドリヒの体が、ほんの少しだけ硬直する。
「……わ、わかるのか?」
まるで図星を突かれたかのような表情で、彼が驚いたようにルーシーを見下ろした。
ルーシーはくすくすと微笑みながら、彼の胸に頬を寄せる。
「ええ。こう見えても、もう約三年ほどはヴァルと一緒にいますからね」
「……そうか」
ヴァルドリヒの表情が、どこか安堵したように和らぐ。
「……俺はお前を抱きしめたまま、仕事をしても構わないか?」
「もちろん、いいですよ」
ルーシーは穏やかに微笑み、彼の腕に包まれるまま、そっと瞳を閉じた。
◇◆◇◆◇
ヴァルドリヒの膝の上に抱え込まれたまま、ルーシーは静かにため息をついた。
(とは言ったものの……)
"抱きしめたまま仕事をしてもいいか" とは言ったけれど、まさか本当に こういう状態 で執務をするつもりだったとは思わなかった。
ヴァルドリヒの腕にすっぽりと包まれ、完全に 捕らわれの身 のようになっている。
「……ヴァル、私、椅子に座らせてもらってもいいですか?」
「ダメだ」
即答だった。
(ですよねー……)
ルーシーは小さく息を吐く。
目の前には、静かに書類を整理するギルクス。
そして――急遽呼び出されたフローレイが、不機嫌そうに腕を組んで立っていた。
ヴァルドリヒの金色の瞳が鋭く光る。
先ほどまでの甘さは微塵も感じられず、鋭利な刃のような視線がフローレイへと向けられた。
「フローレイ……俺が王城へ行く前の数日間、お前は何をしていた?」
低く、圧のこもった声。
それだけで、ルーシーの背筋がゾクリと震える。
(ヴァル……まさか!?)
ルーシーの脳裏に、あの日の光景がよみがえる。
乾いた血がこびりついた白衣、細かな傷だらけの身体、どこか危うげな佇まい――。
「ああ……地方の友人に呼ばれて、急患を診ていたんだ」
フローレイはごく自然な表情で答え、ポケットから折りたたまれた手紙を取り出して机の上に放る。
「ちゃんと証拠もあるさ。手紙がな」
ヴァルドリヒはそれに視線を落とすことなく、ふっと鼻で笑った。
「ふっ……はははっ!」
唐突に、乾いた笑い声が執務室に響く。
「俺が……わからないとでも思うか?」
笑いながらも、ヴァルドリヒの目は決して笑っていなかった。
「王が――患部を見せてくださったよ」
空気が、重くなる。
「……お前の、手術の痕だ」
フローレイの肩が、わずかに震えた。
ルーシーは、心臓が凍りつくような感覚に襲われる。
(手術の痕……? まさか、本当に……!)
フローレイは、ヴァルドリヒの視線を真正面から受け止めながら、小さく息を吐く。
「……だが、これでルーシーを取られる心配はなくなったんじゃないのか? 侯爵」
「フローレイ!」
ギルクスの低い声が響き、ルーシーはさらに混乱した。
「ど、どういうこと!?」
ルーシーの声が震える。
ヴァルドリヒは深く息を吸い込むと、静かに口を開いた。
「その通りだ。フローレイ、お前のおかげで、ルーシーを外に出してやることもできるようになるだろう……」
(外に出せる……?)
ますます訳が分からなくなりながらも、ルーシーは息を呑む。
けれど、ヴァルドリヒはすぐに言葉を継いだ。
「だが――」
「わかってるさ」
フローレイは軽く肩をすくめる。
「一ヶ月も離れ離れになったことに腹を立ててるんだろう?」
「……っ!?」
ルーシーは思わず呆然とする。
(そっち!?)
ヴァルドリヒの金色の瞳が、さらに鋭く光った。
「ああ……一ヶ月……だぞ!!!」
雷鳴のような怒声が部屋中に響き渡る。
(本当にそこ!?)
あまりの迫力に、ルーシーは驚きながらも思わず肩をすくめる。
「悪かったな」
フローレイは苦笑しながら、ヴァルドリヒの剣幕を軽く受け流した。
「まさか、侯爵が私の手術の痕を覚えているとは思わなかった」
「フローレイ! お前はどうしてそんなに無茶をするんだ!!」
ギルクスが激昂し、フローレイの肩をがっしりと掴んで揺らす。
「……」
フローレイは少し驚いたようにギルクスを見つめ、やがて、微かに唇を歪める。
「……ルーシーの、奥様のためさ」
静かに、しかし確かな意志を込めて。
「これから、彼女は正式な医師免許を取るために王城へ出向かなければならなくなる」
ギルクスは、フローレイの言葉に息を呑んだ。
ヴァルドリヒもまた、静かに眉をひそめる。
「そうなってみろ――」
フローレイは、ゆっくりとルーシーに視線を向ける。
「この 束縛侯爵 が行かせると思うか?」
「フローレイ様……!」
ルーシーは思わず息を呑んだ。
――また私のために。
この人はいつも、ルーシーが気づかないところで、彼女の未来のために動いている。
「だから、私は道を作ってやっただけさ」
フローレイはそう言って、にっと笑う。
けれど――その微笑みの奥に滲む疲労と覚悟に、ルーシーはただ、胸が締め付けられるのを感じるばかりだった。