表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/43

40話目

重厚な装飾が施された広い廊下を歩きながら、ルーシーはまだ心臓の高鳴りが収まらないのを感じていた。


(ヴァル……無事に帰ってきてね)


王宮へ向かった彼の背中を思い出しながら、少しでも気を紛らわせようと屋敷内を散歩していたものの、どうにも落ち着かない。

いつもなら執務室で書状の整理を続けているところだが、さっきの熱烈なキスをギルクスに見られたばかりで、気恥ずかしさに耐えきれず、逃げ出すようにしてきたのだ。


(はぁ……我ながら情けないわね)


ため息をつきながら、ゆっくりと歩を進める。

ちょうど階段を曲がったそのとき――。


「……っ!?」


思わず足を止めた。


目の前の廊下をゆっくりと歩く、一人の女性。

銀色の髪が乱れ、肩にかかるほど長い白衣は、至るところに乾いた茶色い染みがついていた。


血――だった。


それは時間が経ち、茶色く変色しているが、それが鮮血だったのは一目でわかる。

さらに、白衣の袖口や裾には小さな破れや、かすかな焦げ跡のようなものまである。


「フローレイ様!?」


思わず、声を張り上げていた。


銀髪の女性――フローレイが足を止め、ゆっくりとルーシーの方を振り返る。

彼女の顔には深い疲れの色が滲んでいたが、それでも彼女特有の余裕のある笑みは崩れていなかった。


「……んっ、あぁ、ただいま」


「あ、あの……お帰りになったのですね!? もしかして、今戻られたばかりですか?」


「そうだね、たった今、到着したところさ」


フローレイは無造作に白衣の裾を払うが、血の痕は落ちるはずもなく、ただ乾いた布が擦れる音だけが響いた。


「っ……その血、大丈夫ですか!? もしかして、どこか怪我を――」


「いやいや、私の血じゃないよ」


フローレイは軽く手を振って、そう答える。

けれど、その言葉とは裏腹に、彼女の白衣はどこか小さな裂け傷だらけだった。


(……本当に?)


確かに、医者ならば手術や治療で患者の血がつくことはあるだろう。

だが、それにしても――白衣の乱れ、小さな焦げ跡、そしてうっすらと見える服の擦り傷。


(いったいどこで何をしていたんだろう……)


彼女は地方の急患を診に行ったはずだ。

しかし、これは単なる診療の帰りとは思えない。


「とにかく、まずは休んでください! すごくお疲れのように見えますし……それに、血が……」


「ははっ、奥様は本当に優しいね」


フローレイは、くったくのない笑みを浮かべながら、ルーシーの肩を軽く叩いた。


「でも、私は大丈夫さ。それよりも、ちょっと着替えてくるよ。血の匂いが染みついてるしね」


「……え、えぇ」


少し呆気に取られながらも、ルーシーは頷いた。

相変わらずフローレイは淡々としているが、ルーシーの心には妙な違和感が残る。


彼女は、本当にただの治療に行っていただけなのだろうか?

その問いを飲み込む前に、フローレイはくるりと踵を返し、歩き出す。


「また後で、奥様」


彼女の背中を見送りながら、ルーシーは無意識に拳を握りしめていた。


(フローレイ様……本当に何もなかったの?)


なんだか、嫌な予感がする。

けれど、それを確かめる術はない。


フローレイの背中が、ゆっくりと廊下の奥へと消えていく。

ルーシーは、血に染まった白衣と、その疲れ切った横顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。


(……フローレイ様、本当に大丈夫なの?)


地方の急患を診に行ったと言っていた。

けれど、ただの治療であんな姿になるものだろうか?

服には血の痕が広がり、焦げたような傷もあった。

それに、疲れているというよりも、まるで何かに追われるような……そんな空気を纏っていたように思える。


――何かあった?

そう問いかけたいのに、フローレイはあっさりと流してしまった。

追求すれば、きっと彼女は「気にするな」とでも言うだろう。


(……でも、なんだか、嫌な予感がする)


ルーシーの胸の奥に、得体の知れない不安がじわりと広がる。

何かが引っかかる――。

けれど、それを確かめる術はない。


「ちょっと待て!!」


突然、鋭い声が響いた。


ルーシーがハッとして顔を上げた瞬間――

疾風のように、一人の男が彼女の横を駆け抜けていった。


「ギルクス……!?」


彼はフローレイの白衣にこびりついた血や、その疲れた様子に気づいたのだろう。

無言でやり過ごすつもりはなかったらしい。


「お前、今すぐ話せ!」

「ギルクス、やめておくれよ。大したことじゃ――」

「大したことじゃないなら、説明してみろ!!」


廊下の奥で二人の声がぶつかり合う。

いつも冷静なギルクスが、珍しく強い口調になっていることに、ルーシーは驚きを隠せなかった。


(……やっぱり、何かある?)


不安が、不気味な影のように心の中で膨らんでいく。


「……大丈夫、よね?」


ぽつりと呟いた声は、誰にも届かなかった。

ルーシーはじっと、ギルクスがフローレイを追っていくのを見つめながら、胸の奥で高鳴る鼓動を必死に押し殺していた。


――――――――――――

――――――――――


数日が過ぎた。


侯爵邸の庭には、初夏の風が吹き抜け、窓から入る陽の光が穏やかにカーテンを揺らしていた。

けれど、その心地よさとは裏腹に、ルーシーの胸には、どこか晴れない違和感が残っていた。


ヴァルドリヒが王宮へ向かってから、すでにしばらく経つ。

そろそろ帰ってくる頃だと思っていた矢先、彼からの手紙が届けられた。


ヴァルドリヒからの手紙

封を切ると、流れるような筆跡が並んでいる。

彼らしい端的な文体ではあったが、どこか歯切れが悪いように感じるのは気のせいだろうか。


◇◆◇◆◇


ルーシーへ


王宮の件で、しばらく帰れなくなった。

意識を取り戻した王の容態が思わしくない。

身体の傷は回復しているが、どうにも精神的に不安定でな……

俺が護衛として側にいなければならない状況になっている。

それに……王が夜になると怯えて眠れないそうだ。

一人になるのを極端に恐れている。


詳細は書けないが、いろいろと厄介な事情が絡んでいる。

一つだけ言えるのは、王は"何かを失った"ということだ。

それは彼の象徴とも言えるものであり、男としての在り方に深く関わるものだ。


俺がどれほど彼を憎んでいようとも、それを奪われるというのは……苦しいものだろう。


いずれ、落ち着いたらまた話す。

ルーシーも、くれぐれも無理をしないように。

しばらく会えないのは、俺も辛い。


ヴァルドリヒ


◇◆◇◆◇


手紙を読み終え、ルーシーはぽかんとしたまま、ペンを持つ指を止めた。


(……え? 結局、何が起こったの?)


要するに、王が精神的に不安定になって、ヴァルドリヒがそばについていなきゃならない。

そして、何かを失ったらしいけど、それが何なのかは濁されている……?


(なんなのよ、このまわりくどさ……)


ヴァルドリヒの筆致には、どこか"書きたくない"という躊躇いが滲んでいるように感じた。

それほどまでに、この件に触れるのが辛いということなのだろう。


(でも、"男としての在り方"に関わるもの……?)


それって、もしかして……いや、さすがに考えすぎよね?

ルーシーは、額に手を当てて小さく溜息をついた。


(とにかく、ヴァルはまだ戻れないってことか……)


彼の帰還を心待ちにしていたのに、その思いはしばらく叶わないらしい。


――――――――――

――――――――


その夜、ルーシーは寝室のベッドに身を沈めた。

深紅の天蓋に囲まれたこの広いベッド。


毎晩、ヴァルドリヒの腕の中で眠っていたせいか、彼のいないベッドはやけに広く感じた。

冷たいシーツの感触が、余計に心細さを煽る。


(あんなにベッドが狭いって思ってたのに……)


ヴァルドリヒと過ごした夜を思い出す。

毎晩、彼に抱きしめられ、その腕の中で息をするたびに、心臓の鼓動が心地よく響いていた。

時には甘く激しく、時には静かに囁きながら――彼は、まるで彼女を確かめるように触れていた。


それが今は、ただの静寂しかない。


(……本当の寂しがりは、私の方だったみたいね)


苦笑しながら、ルーシーは寝返りを打った。

枕元の燭台の灯りが揺らめき、天井に幻想的な影を映し出す。


――寂しい。


そう認めたくはなかった。

ヴァルドリヒの"離れたくない病"をからかっていたのに、いざ彼がいなくなると、こんなにも胸が締め付けられる。


彼がいない寝室は、こんなにも静かだったのか。


そっと枕を抱きしめる。

ヴァルドリヒがいつも寝ていた場所には、まだ微かに彼の残り香が漂っていた。


(……早く帰ってきて、ヴァル)

いつも読んでくださって、ありがとうございます!

たくさんのイイネやブックマーク、本当に感謝しきれません。さらに、評価まで入れてくださるなんて…とても光栄です!


実は、もう一作品コンクールに応募したいと考えていて、しばらく更新頻度が少し落ちてしまうかもしれません。申し訳ありませんが、どうかご了承ください。


これからも楽しんでいただけるよう頑張りますので、引き続き応援よろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ