40話目
重厚な装飾が施された広い廊下を歩きながら、ルーシーはまだ心臓の高鳴りが収まらないのを感じていた。
(ヴァル……無事に帰ってきてね)
王宮へ向かった彼の背中を思い出しながら、少しでも気を紛らわせようと屋敷内を散歩していたものの、どうにも落ち着かない。
いつもなら執務室で書状の整理を続けているところだが、さっきの熱烈なキスをギルクスに見られたばかりで、気恥ずかしさに耐えきれず、逃げ出すようにしてきたのだ。
(はぁ……我ながら情けないわね)
ため息をつきながら、ゆっくりと歩を進める。
ちょうど階段を曲がったそのとき――。
「……っ!?」
思わず足を止めた。
目の前の廊下をゆっくりと歩く、一人の女性。
銀色の髪が乱れ、肩にかかるほど長い白衣は、至るところに乾いた茶色い染みがついていた。
血――だった。
それは時間が経ち、茶色く変色しているが、それが鮮血だったのは一目でわかる。
さらに、白衣の袖口や裾には小さな破れや、かすかな焦げ跡のようなものまである。
「フローレイ様!?」
思わず、声を張り上げていた。
銀髪の女性――フローレイが足を止め、ゆっくりとルーシーの方を振り返る。
彼女の顔には深い疲れの色が滲んでいたが、それでも彼女特有の余裕のある笑みは崩れていなかった。
「……んっ、あぁ、ただいま」
「あ、あの……お帰りになったのですね!? もしかして、今戻られたばかりですか?」
「そうだね、たった今、到着したところさ」
フローレイは無造作に白衣の裾を払うが、血の痕は落ちるはずもなく、ただ乾いた布が擦れる音だけが響いた。
「っ……その血、大丈夫ですか!? もしかして、どこか怪我を――」
「いやいや、私の血じゃないよ」
フローレイは軽く手を振って、そう答える。
けれど、その言葉とは裏腹に、彼女の白衣はどこか小さな裂け傷だらけだった。
(……本当に?)
確かに、医者ならば手術や治療で患者の血がつくことはあるだろう。
だが、それにしても――白衣の乱れ、小さな焦げ跡、そしてうっすらと見える服の擦り傷。
(いったいどこで何をしていたんだろう……)
彼女は地方の急患を診に行ったはずだ。
しかし、これは単なる診療の帰りとは思えない。
「とにかく、まずは休んでください! すごくお疲れのように見えますし……それに、血が……」
「ははっ、奥様は本当に優しいね」
フローレイは、くったくのない笑みを浮かべながら、ルーシーの肩を軽く叩いた。
「でも、私は大丈夫さ。それよりも、ちょっと着替えてくるよ。血の匂いが染みついてるしね」
「……え、えぇ」
少し呆気に取られながらも、ルーシーは頷いた。
相変わらずフローレイは淡々としているが、ルーシーの心には妙な違和感が残る。
彼女は、本当にただの治療に行っていただけなのだろうか?
その問いを飲み込む前に、フローレイはくるりと踵を返し、歩き出す。
「また後で、奥様」
彼女の背中を見送りながら、ルーシーは無意識に拳を握りしめていた。
(フローレイ様……本当に何もなかったの?)
なんだか、嫌な予感がする。
けれど、それを確かめる術はない。
フローレイの背中が、ゆっくりと廊下の奥へと消えていく。
ルーシーは、血に染まった白衣と、その疲れ切った横顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。
(……フローレイ様、本当に大丈夫なの?)
地方の急患を診に行ったと言っていた。
けれど、ただの治療であんな姿になるものだろうか?
服には血の痕が広がり、焦げたような傷もあった。
それに、疲れているというよりも、まるで何かに追われるような……そんな空気を纏っていたように思える。
――何かあった?
そう問いかけたいのに、フローレイはあっさりと流してしまった。
追求すれば、きっと彼女は「気にするな」とでも言うだろう。
(……でも、なんだか、嫌な予感がする)
ルーシーの胸の奥に、得体の知れない不安がじわりと広がる。
何かが引っかかる――。
けれど、それを確かめる術はない。
「ちょっと待て!!」
突然、鋭い声が響いた。
ルーシーがハッとして顔を上げた瞬間――
疾風のように、一人の男が彼女の横を駆け抜けていった。
「ギルクス……!?」
彼はフローレイの白衣にこびりついた血や、その疲れた様子に気づいたのだろう。
無言でやり過ごすつもりはなかったらしい。
「お前、今すぐ話せ!」
「ギルクス、やめておくれよ。大したことじゃ――」
「大したことじゃないなら、説明してみろ!!」
廊下の奥で二人の声がぶつかり合う。
いつも冷静なギルクスが、珍しく強い口調になっていることに、ルーシーは驚きを隠せなかった。
(……やっぱり、何かある?)
不安が、不気味な影のように心の中で膨らんでいく。
「……大丈夫、よね?」
ぽつりと呟いた声は、誰にも届かなかった。
ルーシーはじっと、ギルクスがフローレイを追っていくのを見つめながら、胸の奥で高鳴る鼓動を必死に押し殺していた。
――――――――――――
――――――――――
数日が過ぎた。
侯爵邸の庭には、初夏の風が吹き抜け、窓から入る陽の光が穏やかにカーテンを揺らしていた。
けれど、その心地よさとは裏腹に、ルーシーの胸には、どこか晴れない違和感が残っていた。
ヴァルドリヒが王宮へ向かってから、すでにしばらく経つ。
そろそろ帰ってくる頃だと思っていた矢先、彼からの手紙が届けられた。
ヴァルドリヒからの手紙
封を切ると、流れるような筆跡が並んでいる。
彼らしい端的な文体ではあったが、どこか歯切れが悪いように感じるのは気のせいだろうか。
◇◆◇◆◇
ルーシーへ
王宮の件で、しばらく帰れなくなった。
意識を取り戻した王の容態が思わしくない。
身体の傷は回復しているが、どうにも精神的に不安定でな……
俺が護衛として側にいなければならない状況になっている。
それに……王が夜になると怯えて眠れないそうだ。
一人になるのを極端に恐れている。
詳細は書けないが、いろいろと厄介な事情が絡んでいる。
一つだけ言えるのは、王は"何かを失った"ということだ。
それは彼の象徴とも言えるものであり、男としての在り方に深く関わるものだ。
俺がどれほど彼を憎んでいようとも、それを奪われるというのは……苦しいものだろう。
いずれ、落ち着いたらまた話す。
ルーシーも、くれぐれも無理をしないように。
しばらく会えないのは、俺も辛い。
ヴァルドリヒ
◇◆◇◆◇
手紙を読み終え、ルーシーはぽかんとしたまま、ペンを持つ指を止めた。
(……え? 結局、何が起こったの?)
要するに、王が精神的に不安定になって、ヴァルドリヒがそばについていなきゃならない。
そして、何かを失ったらしいけど、それが何なのかは濁されている……?
(なんなのよ、このまわりくどさ……)
ヴァルドリヒの筆致には、どこか"書きたくない"という躊躇いが滲んでいるように感じた。
それほどまでに、この件に触れるのが辛いということなのだろう。
(でも、"男としての在り方"に関わるもの……?)
それって、もしかして……いや、さすがに考えすぎよね?
ルーシーは、額に手を当てて小さく溜息をついた。
(とにかく、ヴァルはまだ戻れないってことか……)
彼の帰還を心待ちにしていたのに、その思いはしばらく叶わないらしい。
――――――――――
――――――――
その夜、ルーシーは寝室のベッドに身を沈めた。
深紅の天蓋に囲まれたこの広いベッド。
毎晩、ヴァルドリヒの腕の中で眠っていたせいか、彼のいないベッドはやけに広く感じた。
冷たいシーツの感触が、余計に心細さを煽る。
(あんなにベッドが狭いって思ってたのに……)
ヴァルドリヒと過ごした夜を思い出す。
毎晩、彼に抱きしめられ、その腕の中で息をするたびに、心臓の鼓動が心地よく響いていた。
時には甘く激しく、時には静かに囁きながら――彼は、まるで彼女を確かめるように触れていた。
それが今は、ただの静寂しかない。
(……本当の寂しがりは、私の方だったみたいね)
苦笑しながら、ルーシーは寝返りを打った。
枕元の燭台の灯りが揺らめき、天井に幻想的な影を映し出す。
――寂しい。
そう認めたくはなかった。
ヴァルドリヒの"離れたくない病"をからかっていたのに、いざ彼がいなくなると、こんなにも胸が締め付けられる。
彼がいない寝室は、こんなにも静かだったのか。
そっと枕を抱きしめる。
ヴァルドリヒがいつも寝ていた場所には、まだ微かに彼の残り香が漂っていた。
(……早く帰ってきて、ヴァル)
いつも読んでくださって、ありがとうございます!
たくさんのイイネやブックマーク、本当に感謝しきれません。さらに、評価まで入れてくださるなんて…とても光栄です!
実は、もう一作品コンクールに応募したいと考えていて、しばらく更新頻度が少し落ちてしまうかもしれません。申し訳ありませんが、どうかご了承ください。
これからも楽しんでいただけるよう頑張りますので、引き続き応援よろしくお願いします!