4話目
数日が経った。
昼下がりの部屋は静かで、窓から柔らかな陽光が差し込んでいる。
ベッドに横たわる侯爵様は、目を閉じているが、眠っているのか起きているのかよくわからない。彼は、常にぼんやりとしていた。
時折まばたきをするものの、意識があるのかないのか曖昧な様子だった。
私はふと、彼の顔をじっと見つめる。
「……あら。」
光の加減で、彼の目がわずかに開いたのが見えた。
「侯爵様の瞳の色、金色なんですね。」
言葉に出した瞬間、思わず息を呑む。
透き通るような金色。太陽の光を受けて、まるで宝石のように輝く。
「……やっぱり、外国人って綺麗。」
この世界ではどの国の人なのかはわからないけれど、現実の感覚でいえば西洋系の血が濃いのだろう。儚げで、けれどどこか神秘的な美しさを持っている。
しばらく見とれていたが、すぐにハッと我に返った。
「さぁ、今日は野菜をすりつぶして栄養満点スープを作ってあげなくちゃ。」
侯爵様はまだ流動食しか受け付けられない状態。できるだけ栄養が摂れるように、工夫しないと。
「食事の用意をしてきますね。」
声をかけても、彼の反応はない。でも、いつかは意思疎通ができるようになるはず。そう信じて、私はキッチンへ向かった。
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食事の準備をしていると、背後から足音が近づいてきた。
「順調なようだな。」
振り向くと、ギルクスが立っていた。
「ギルクス様。はい……なんとか。」
鍋の中で野菜がぐつぐつと煮えている。私は木べらでかき混ぜながら、言葉を続けた。
「でも、お医者様を変えられたほうが良いのでは?なんだか、明らかにおかしい気が……。」
侯爵様の様子を見ていると、どうしても違和感が拭えなかった。確かに衰弱はしているけれど、治療らしい治療を受けた形跡がほとんどない。
ギルクスは少し目を伏せ、眼鏡を押し上げた。
「……君の様子を見て、私もそう思っていた。一度、別の医者に変えてみることにしよう。」
彼の言葉に、ほっと安堵の息を漏らす。
「ありがとうございます。」
これで、少しでも侯爵様の回復が早まるといいのだけれど——。
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スープが出来上がると、私はお盆に器を乗せ、慎重に運んでいく。
「侯爵様、お食事の時間ですよ。」
声をかけながら、彼のそばへと歩み寄る。
介護の経験上、食事をとるときには適切な姿勢をとることが大切だ。
私は慎重に侯爵様の肩へ手を回し、ゆっくりと体を起こす。
「……よいしょ。」
骨ばった体が、私の支えでわずかに傾く。
横になったままでは誤嚥の危険があるので、クッションを使い、無理のない角度で座らせる。
「では、いただきましょうか。」
スプーンを手に取り、スープをすくう。
ゆっくりと冷ましてから、彼の唇にそっと運んだ。
侯爵様の唇がわずかに動き——ゆっくりと口を開いた。
スプーンを口に入れ、しばらくすると、彼は小さく嚥下した。
「……ちゃんと飲み込めてる。」
確実に、回復に向かっている。少しずつでも、食事を受け入れられるようになっているのがわかる。
私はもう一口、スプーンをすくい、口元へ運ぼうとした。
——そのときだった。
侯爵様の足が、ほんのわずかに動いたのが見えた。
「……!?」
ぎゅっと布を握るように、かすかに足が動く。これは……!
「侯爵様、もしかして——」
そう言いかけて、私ははっと気づく。
この動きは——トイレのサイン?
食事を続けるべきか、迷う暇はなかった。私はすぐにスプーンを置き、彼の手をそっと取る。
「すみません、食事は中断しますね。」
侯爵様の腕を支えながら、彼の体を優しく引き起こす。
「大丈夫ですよ、ゆっくり……。」
声をかけながら、侯爵様を立たせる準備をする。彼の筋力はほとんど落ちているけれど、トイレまでの短い距離ならなんとか歩けるかもしれない。
「では、行きましょう。」
侯爵様の体を支えながら、一歩ずつ、慎重にトイレへ向かう。
彼が、自分の意思で体を動かした。
これは、確かな前進だ——。
トイレを済ませた後、再び侯爵様を支えながら部屋へと戻る。彼の体は相変わらず軽く、支えていてもほとんど重みを感じない。それでも、先ほどの食事中にわずかに足を動かしたことを思えば、ほんの少しずつではあるが、回復に向かっているのは確かだった。
「さあ、続きを食べましょうね。」
ベッドに座らせ、再びスープの器を手に取る。
スプーンにすくった温かなスープを、侯爵様の口元へと運ぶ。
「ゆっくりですよ。ゆっくり。」
先ほどよりも少しだけ前のめりになった彼の姿勢に、私は小さな変化を感じた。
唇にスプーンをそっと当てると、彼は静かに口を開き、再び食事を受け入れる。
(さっきより……スムーズに飲み込んでる気がする。)
ほんの数日前までは、食べ物を口に運ぶことすら困難だったのに、今は咀嚼の動きが自然になってきている。口を開くタイミングも、わずかに自発的になっているように感じた。
——このまま続けていけば、ちゃんと食事を取れるようになるかもしれない。
「あともう少しですよ。」
スプーンを何度か口に運び、侯爵様が食事をすべて終えるまで見届ける。最後のひと口をゆっくりと飲み込むと、彼はわずかにまぶたを閉じた。
(よく頑張りましたね。)
心の中でそう呟きながら、食器を片付ける。
「では、少し休みましょう。」
侯爵様の体を優しくベッドに横たえ、掛け布団をかける。
彼は何も言わないし、表情もほとんど変わらない。けれど、目を閉じた彼の顔は、どこか少しだけ安らかに見えた。
私はふと、彼の喉元に目をやる。
(……長い間、喋っていないから、喉も開かなくなってるのかしら?)
ずっと声を出していないと、喉の筋肉は衰え、言葉を発するのが難しくなることがある。
介護の経験上、寝たきりの人はしばらく話していないと声帯が固くなり、言葉を発するのが困難になることがあった。侯爵様も、きっとそれに近い状態なのだろう。
(このままじゃダメね。)
寝てばかりでは、体がますます衰えてしまう。動かさなければ、筋肉も弱り続けるだけ。
「よし。」
私は袖をまくり、侯爵様の体にそっと手を添えた。
「マッサージをしましょうね。」
侯爵様が少しでも動けるように、筋肉を刺激して血流を促してあげる。
まずは、手のひらから。
指の一本一本を優しくさすり、固まった関節をほぐしていく。
「指先が冷たいですね……。」
血の巡りが悪くなっているのか、彼の指は驚くほど冷たかった。
次に、腕をゆっくりと持ち上げ、軽く曲げ伸ばしする。
「……少しずつ、動かしていきますよ。」
肩のあたりも慎重に揉みほぐし、少しずつ、彼の体が温まるように意識する。
彼の表情に変化はないが、さっきよりも少し、肩の力が抜けた気がした。
「じゃあ、次は脚ですね。」
私は侯爵様の足元へと移動し、そっと足首を持つ。
膝を軽く曲げ伸ばししながら、固まった筋肉をほぐしていく。
ふくらはぎを揉むと、ほんのわずかに彼の足が反応した。
(少しは、感覚が戻ってきてるのかな?)
長い間動かしていない筋肉を、少しずつ目覚めさせるように。
私は心を込めて、ゆっくりとマッサージを続けた。
次第に侯爵様の体が少し温かくなってきたように感じた。
(うん……いい感じ。血行が良くなってる。)
でも、さすがに——。
「……やばい。」
私のまぶたも、そろそろ限界を迎えていた。
全身にじんわりと疲れが広がり、頭がぼんやりする。
何時間も集中して動き続けたせいで、体が重くなってきた。
「そろそろ、私も寝ないと……。」
私は大きく伸びをして、眠気を振り払う。
侯爵様をちらりと見やる。
彼はすでに眠りについていた。
静かな寝息を立てている姿に、ようやく安堵の息をつく。
「侯爵様、すみません。少しお休みをいただきますね。」
小さくそう呟いて、私は立ち上がる。
扉をそっと開け、廊下へ出ると、門番が警戒するように立っていた。
「少し休みを取りますので、何かあったら教えてください。」
門番は無言で頷く。
(……なんかこの人たち、やっぱり無口よね。)
私は軽く礼をして、自室へと向かった。




