39話目
柔らかな朝日が窓から差し込み、薄いカーテンを透かして部屋の中を温かく照らしていた。
静寂に包まれた執務室には、紙をめくる音とペンが走る音だけが響いている。
結婚して二ヶ月が過ぎた。
今日も、ルーシーは執務机に向かい、積み上げられた招待状と向き合っていた。
貴族たちから送られてくるパーティーやお茶会の招待状の数々。
それらに、一通ずつ断りの返事を書いていく作業は地味に時間がかかる。
(……はぁ。これ、いつになったら終わるのかしら)
パーティーだの、お茶会だの、ルーシーにはあまり興味がない。
ましてや、ヴァルドリヒの「離れたくない病」が発症するので、余計に出かけづらい。
(早く治らないかしら……)
そんなことを考えながら、さらさらとペンを走らせる。
「この度はお招きいただき、誠にありがとうございます。しかしながら、日程の都合により……」
と、淡々と断りの返事を書き進めていく。
少し視線を上げると、向かい側の机ではヴァルドリヒが真剣な表情で執務をこなしていた。
彼の隣では、補佐役のギルクスが書類を整理しながら、的確に指示を出している。
(こうしていると、ちゃんとした侯爵閣下なのよね)
戦場帰りの英雄でありながら、侯爵家をしっかりと運営している姿は堂々としていて頼もしい。
だが――。
「ルーシー?」
不意にヴァルドリヒが口を開く。
「フローレイ様って、どこに行かれたんですか?」
ルーシーが何気なくそう尋ねると、返事をしたのはギルクスだった。
「臣下に敬語はおやめください。それに、妻もフローレイと呼び捨てで構いませんよ、奥様」
ルーシーは思わず目を瞬かせる。
「え、でも……」
「俺としては、このままいないほうがルーシーが側にいてくれるからいいんだけどな」
ヴァルドリヒがぼそりと呟く。
「……ヴァル」
ルーシーはため息をついた。
(また出た、この人の離れたくない病)
普段は仕事ができる男なのに、ルーシーのことになると急に甘えたがるのだから困ったものだ。
そんな彼を横目で見ながら、ギルクスは淡々と答えを返す。
「妻は、地方の急患を見に行っています」
「へぇ……」
ルーシーは驚きとともに、心の中で感嘆する。
(フローレイ様、すごい……さすが医者だわ)
自分が貴族の社交界から逃げるために必死になって招待状の断りを書いている間に、フローレイは地方へ出向き、医療の現場で動いている。
(私も頑張らないと!)
新たに学び始めた医学の勉強。
まだまだ初歩の段階だが、フローレイのように誰かの命を救える日がくるかもしれない。
ルーシーは、気を引き締めるように背筋を伸ばし、再び手元の書状へとペンを走らせた。
ヴァルドリヒも隣で黙々と執務に向かい、ギルクスも淡々と補佐を続ける――。
いつものように、穏やかな午前の時間が流れる。
だが、その静寂を切り裂くように――。
バンッ!!
執務室の扉が勢いよく開かれた。
「――っ!?」
驚いて顔を上げると、そこには血相を変えた伝令兵が、息を切らせながら立っていた。
額には汗が滲み、顔色は青ざめ、ただならぬ様子が一目でわかる。
「……何事だ」
ヴァルドリヒの低く鋭い声が、部屋の空気を一瞬で張り詰めた。
伝令兵は乱れた呼吸を必死に整えながら、震える声で報告する。
「――王、陛下が……お倒れになりました!!」
一瞬、時間が止まったかのような静寂が執務室を支配する。
ルーシーは思わず息を呑んだ。
「えっ……?」
彼女の脳裏に、つい最近の王宮での出来事がよみがえる。
あの夜、ヴァルドリヒに向かって「ルシメリア嬢を王宮へ迎えるのはどうだろう」などと冗談とも本気ともつかぬ提案をした王――。
その王が、倒れた?
(何かの陰謀……? それとも、本当に病気!?)
ルーシーの胸の奥に、得体の知れない不安が広がる。
「……なんだと」
ヴァルドリヒが低く呟いた。
その声音は冷たく、しかし、奥底に見え隠れするのは、怒りか、あるいは警戒か――。
ギルクスが静かに眉をひそめ、慎重に口を開く。
「――詳しい状況を説明しろ」
伝令兵は、乱れる息のまま、震える声で続ける。
「今朝、王宮内で陛下が突然倒れられ……御医師たちがすでに診ていますが、原因がわからず……」
「……原因不明、か」
ヴァルドリヒの金色の瞳が鋭く光る。
(原因不明……?)
ルーシーの背筋に、ぞくりと冷たい感覚が走った。
王が突然倒れる――それ自体は病気や疲労が原因ならあり得る。
だが、もしもこれは "何者かの策略" だったとしたら?
(まさか……毒? それとも、病に見せかけた暗殺?)
嫌な予感が脳裏をよぎる。
「陛下の容態は?」
ヴァルドリヒの問いに、伝令兵は苦しそうに答えた。
「――意識不明です」
ルーシーの心臓がどくん、と跳ねた。
(意識不明……!? これは本当にただの病気なの? それとも……)
ヴァルドリヒの表情がさらに険しくなった。
「……王宮へ行く」
低く、しかし絶対的な決意を持った声。
緊張感の漂う空気の中、ルーシーは彼の横顔をじっと見つめる。
彼の金色の瞳には、鋭い光が宿っていた。
(ヴァル……)
ヴァルドリヒの立場は決して安全とは言えない。
それはルーシーにもわかっていた。
「他の貴族に遅れをとっている場合ではないしな」
ヴァルドリヒは、すでに次の一手を考えていた。
王の体調不良が本当に偶然なのか、それとも 誰かが意図的に仕組んだもの なのか。
どちらにせよ、今すぐ王宮に向かい、情報を得なければならない。
「ギルクス、留守を任せたぞ」
「承知致しました」
ギルクスはすぐさま深く頭を下げる。
彼の表情はいつも通り冷静だったが、その鋭い瞳の奥には、確かな緊張感が滲んでいた。
「ヴァル……」
ルーシーは、思わず彼の名前を呼ぶ。
ヴァルドリヒは、彼女へとゆっくりと視線を向けた。
「ルーシー」
その声は、低く優しく、それでいてどこか名残惜しげだった。
彼は歩み寄ると、ルーシーの頬にそっと手を添える。
指先が肌に触れた瞬間、彼女の心臓が跳ねた。
「行ってくる」
そう言うや否や、ヴァルドリヒは迷うことなく、ルーシーの唇を奪った。
「……っ!」
熱い、深いキス。
言葉ではなく、彼の感情そのものが伝わってくるような口づけだった。
(こんなときに……)
けれど、抗えない。
ヴァルドリヒの腕がしっかりと彼女の腰を引き寄せ、逃がさないようにする。
「ん……」
彼の熱を感じながら、ルーシーはそっと瞳を閉じた。
胸の奥が甘く締め付けられる。
まるで、離れたくないという彼の想いが、このキスに込められているかのようだった。
やがて、ゆっくりと唇が離れる。
「……帰ったら、また抱きしめさせてくれ」
額をルーシーの額にそっと押し当てながら、ヴァルドリヒが囁いた。
彼女は少し照れながらも、微笑んで小さく頷く。
「……待ってます」
ヴァルドリヒは満足そうに微笑み、名残惜しそうに彼女の頬を撫でたあと――。
すぐに踵を返し、迷うことなく部屋を出ていった。
残されたルーシーは、彼が消えた扉をじっと見つめながら、小さく息を吐く。
(どうか……無事に帰ってきて)
彼の背中を見送ることしかできない自分の無力さが、少しだけ悔しく思えた。
けれど――今は、信じるしかない。
ヴァルドリヒが、必ず帰ってくることを。
ルーシーは、大きく息を吸い込み、自分に言い聞かせるように心を落ち着かせた。
(……って!)
一人でしんみりしている場合じゃない!
じっと待つだけなんて、私らしくないわ!
やれることを 一つずつ 片付けていこう!
ルーシーは気を引き締めるように自分の頬を軽く叩き、席についた。
目の前には、まだ返事を書き終えていない貴族たちからのパーティーやお茶会の招待状が山積みになっている。
(さぁ、まずはこの招待状の返事を……)
そう思い、ペンを取った瞬間――。
(……いや、でも待って?)
頭にふと、ある問題がよぎる。
――さっきの 熱烈なキス を、ギルクスに思いっきり見られたばかりじゃない!?
(あああああ……!!!)
ヴァルドリヒが去った今、執務室には彼女とギルクスしかいない。
微妙に気まずい沈黙が漂っている気がしてならない。
ちらりと横目でギルクスを見ると、彼は相変わらず冷静な表情で書類を整理している。
……けれど、なんとなく ため息を一つついたような気がした。
(いや、もう! こういう時、ギルクスさんって絶対何も言わないけど 全部察してる感 あるのよ!)
ルーシーは 居ても立っても居られなくなった。
視線が定まらず、ペンを持つ手がそわそわと宙をさまよう。
(……ちょっと落ち着こう。いったん、心を落ち着ける時間を……)
「ちょ、ちょっと散歩へ行ってきます!」
ルーシーは 勢いよく席を立ち、まるで 逃げるように 執務室を飛び出そうとした。
だが、その瞬間。
「護衛をつけてください」
ギルクスの 冷静な声 が飛んだ。
「っ……は、はーい……」
(ですよねー……!)
この屋敷の中は安全とはいえ、侯爵夫人の立場として単独行動は アウト。
そんなことくらい分かっているのに、動揺しすぎて すっかり忘れていた。
ルーシーはぎこちなく頷くと、ドアの前で待機していた護衛の一人に「ついてきて」と小声で言い、そのまま屋敷の廊下へと足早に出ていった。