38話目
暖かな陽の光が大きな窓から差し込み、豪奢な書棚が整然と並ぶ静寂の空間。侯爵邸の図書室は、知識の宝庫とも呼べるほどの蔵書量を誇っていた。
ルーシーは、その一角に座り、医学入門の本を開いていた。分厚い羊皮紙のページをめくるたびに、薬草の効能や人体の仕組みについての文字が目に飛び込んでくる。
(ふむふむ……これは、前世でちょっと勉強したことがあるな)
隣では、フローレイがソファにゆったりと腰を下ろし、片手で生まれたばかりの赤ん坊を抱きながら、もう片方の手で本をめくっていた。
「これが基礎の基礎だ。人体の構造については、昔の世界でも学んでいたんだろう?」
「はい。でも、細かいところまでは全然……」
「なら、まずは簡単なところから教えようか」
フローレイは微笑みながら、腕の中の赤ん坊を優しくあやす。
彼女の息子――レイギスは、ふわふわの銀髪と桃色の瞳を持つ可愛らしい赤ちゃんだった。
小さな手をむにゃむにゃと動かしながら、母親の腕の中で安心しきったように寝息を立てている。その姿に、ルーシーは思わず微笑ましさを覚えた。
(赤ちゃんって、こんなに小さくて柔らかいんだ……)
新生児の扱いなんてほとんどしたことがなかった彼女にとって、フローレイが自然に赤ん坊を抱きながら医学の講義をしている光景は、何とも不思議なものだった。
それにしても――。
(不思議……)
前世では、医学の勉強をするとき、何度もノートに書いて覚えなければならなかったのに、今は、一度読んだだけで内容が頭に入ってくる気がする。
まるで――。
(これが転生チート能力ってやつ!?)
一瞬、そんな可能性を考えたものの、いやいやとすぐに否定する。
(でも、一度で覚えられるのは医学に関することだけっぽいのよね)
歴史や地理を読んでも、普通に忘れるのに、医学の知識だけは自然と頭に入ってくる。
(覚えられるというより……覚えてる、に近いのかな)
まるで、すでに知っていたことを思い出すような感覚。
(どちらにせよ、ラッキーね)
ふっと肩の力を抜いて、再び本に視線を落とそうとしたそのとき――。
フローレイが、腕の中のレイギスを優しくあやしながら、小さな鼻先をツンとつついた。
「おや、もう眠たくなったかい?」
ルーシーは、無意識に彼の瞳をじっと見つめた。
桃色の瞳――。
「……あの」
「ん?」
「どうして、レイギス君の瞳は桃色なんですか?」
ルーシーの問いに、フローレイは小さく微笑んだ。
「混ざったのかね。紫と灰色が」
「なるほど……紫が薄まったのね」
そう答えながら、ルーシーは少し考え込む。
(……いや、わかんない。異世界だし、遺伝法則とか、前世の知識がそのまま通じるとは限らないわよね)
とはいえ、フローレイが特に気にしていないのだから、問題ないのだろう。
「随分慣れてますね」
「そりゃ、医者だから当たり前だろうさ」
当たり前のように言うフローレイ。
(そういえば、フローレイ様って全医学を網羅してるっぽいのよね……)
産科、内科、外科、薬学、解剖学――どれも専門的な知識が必要な分野のはずなのに、彼女は全てを熟知している。
(もしかして、それがフローレイ様のチート能力だったりするのかな?)
異世界に転生した者同士、それぞれ特殊な能力があってもおかしくはない。
ルーシーがそんなことを考えながら、ぼんやりとフローレイの横顔を見つめていると――。
「……集中できてないようだけど、ここまでにするかい?」
「えっ!? あ、すみません! 続けます!」
慌てて姿勢を正すルーシーに、フローレイはクスリと笑った。
「ふふ、真面目なのはいいことさ」
そう言いながら、フローレイはレイギスをそっと抱き直し、再び医学の説明を始めた。
―――――――――――
―――――――――
薄紅色の夕陽が大きな窓から差し込み、図書室の壁をほんのりと染めていた。
柔らかな光の中で、フローレイはレイギスを抱きながら、ルーシーに医学の基礎について教えていた。
「じゃあ、この薬草は?」
「えっと……消炎作用があって、火傷や傷の治療に使える……ですよね?」
「うん、正解。ちゃんと覚えてるじゃないか」
ルーシーは、コクリと頷く。
(なんだか、本当に学生時代に戻ったみたい)
前世では看護師を目指していた頃、こんな風に医学の知識を学ぶ時間が楽しくて仕方なかった。
フローレイはそんな彼女の様子を見て、微笑を浮かべると、腕の中でスヤスヤと眠るレイギスを優しく揺らした。
「集中力もいいし、このまま本格的に学んでいけそうだね」
「そ、そうでしょうか……?」
「もちろんさ」
フローレイの言葉に、少しずつ自信が湧いてくる。
そんな穏やかな空気の中、コンコンと図書室の扉がノックされた。
「どうぞ」
フローレイが返事をすると、扉がゆっくりと開かれる。
そこに立っていたのは――ヴァルドリヒとギルクスだった。
ルーシーが思わず目を瞬かせる中、フローレイは軽く眉を上げた。
「おや、二人でどうしたんだい?」
ヴァルドリヒは、まるで当然のような顔で答える。
「そろそろ妻を返してもらおうと思ってな」
「……」
ルーシーは、一瞬ぽかんとしてしまった。
(え、迎えに来たの……?)
フローレイは、ふっと口元を綻ばせる。
「ははっ。わざわざ、私の夫まで連れてきたのかい?」
ヴァルドリヒは微かに唇を歪めると、肩をすくめながら答えた。
「その方が解散しやすいだろ?」
「ふぅん、気が利くねぇ」
フローレイはニヤリと笑いながら、ギルクスの方へ近寄ると、軽く顎をしゃくって問いかける。
「で、仕事はいいのかい?」
ギルクスは短く「あぁ。もう済んだ」とだけ答えた。
「なら、ここでお開きだね。ルーシー、また明日だ」
「はい! ありがとうございました!」
ルーシーはペコリと頭を下げる。
今日学んだことは、また明日も続く。
この時間が、自分の新しい未来へと繋がっているような気がしていた。
「さて、帰るぞ」
ヴァルドリヒが手を差し出す。
ルーシーはその手を取ろうとした――次の瞬間。
ふわり、と体が浮く感覚に襲われた。
「わぁっ!?」
気づけば、ヴァルドリヒの腕の中に抱き上げられていた。
「ちょっ、何して――!」
「迎えに来たんだから、当然だろう?」
「いや、迎えって普通に歩いて帰るものじゃ――!」
「今までずっと側にいたからな」
ヴァルドリヒは、ルーシーをしっかりと抱きしめながら、低く囁く。
「離れていると、寂しいんだ」
その言葉に、ルーシーは思わず口を噤んだ。
(……この人、可愛いとも思うけれど、こういうところは相変わらずだわ。)
「……仕方ないですね」
ため息をつきながらも、ルーシーはヴァルドリヒの肩にそっと手を添えた。
結局、この腕の中が一番落ち着くのは、彼女自身も同じだったから。
そんな二人のやり取りを見ながら、フローレイは「はいはい、ごちそうさま」とでも言いたげに笑う。
ギルクスは「またか」と言わんばかりの表情で、ため息をひとつついた。
ヴァルドリヒがルーシーを抱き上げる光景には、もはや何の驚きもない。
(毎度毎度よく飽きないな……)
そんな思いを胸に、軽く肩をすくめたギルクスだったが、その次の瞬間――ヴァルドリヒがふと口を開いた。
「ギルクス、フローレイ。一緒に飯でもどうだ?」
意外な申し出に、ルーシーは驚いたようにヴァルドリヒを見上げる。
彼がこういう誘いをするのは、珍しい。
「えっ、一緒に?」
「たまにはいいだろう」
ヴァルドリヒは、ルーシーを抱えたまま何気なく言う。
「最近、お前らとゆっくり話す機会もなかったしな」
フローレイは、腕の中でレイギスを抱き直しながら、ちらりとギルクスを見た。
「どうする?」
ギルクスは、一瞬だけ考え込むように目を伏せたが――すぐにかぶりを振る。
「遠慮しておきます。どうせ食事中に仕事の話をしてしまいそうですから。」
「あぁ……それはありそうだ」
ヴァルドリヒは、すぐに納得したように頷く。
確かに、ギルクスと一緒に食事をすると、無意識のうちに仕事の話になってしまうことが多い。
フローレイも「まぁ、そういうことだ」と肩をすくめながら、小さく笑った。
「仕事人間だからね、この人は」
ギルクスは「余計なことを言うな」と言いたげな視線を送るが、フローレイはまるで気にしていない様子だった。
ヴァルドリヒは「なら仕方ないな」と呟くと、ルーシーをしっかりと抱き直し、優雅に踵を返した。
「じゃあ、俺たちは食堂へ行く」
「うん、また明日!」
ルーシーはフローレイに手を振り、ヴァルドリヒの腕の中で微笑んだ。
フローレイは「勉強、しっかりな」と軽く片手を振りながら見送り、ギルクスは何も言わず、静かにその様子を見つめていた。
ヴァルドリヒは、ルーシーを抱えたまま悠々と歩いていく。
(なんだか、これじゃあ私が介護されてるみたい…。)
食堂への道すがら、ルーシーはそっと呟いた。
「……歩いて行けるんですけど」
「ダメだ」
即答だった。
「離れると寂しい」
「……本当に甘えん坊ですね」
ルーシーは苦笑しながら、ヴァルドリヒの肩にそっと手を添えた。
そのまま二人は、食堂へと向かっていった――。