37話目
翌日 昼下がり――侯爵邸
柔らかな陽光が廊下の窓から差し込み、磨き上げられた大理石の床に光が反射している。
ルーシーは、広い館内を歩きながら、ふと疑問に思った。
「……フローレイ様、どこへ行かれたのかしら?」
最近出産を終えたばかりのフローレイだったが、すでに無理のない範囲で仕事に復帰していた。
もちろん無茶はしていないはずだけれど、それでもあまり無理をしすぎていないか心配になってくる。
「さっきまで書斎にいらしたはずだけど……」
メイドに聞いても、彼女の行き先はわからず、仕方なく自分で探すことにした。
侯爵邸は広く、探すだけでも一苦労だ。
ふと、館の奥にある一室が目に入った。
――フローレイの研究室。
(もしかして、ここに?)
ルーシーは扉の前に立ち、軽くノックをした。
「フローレイ様、いらっしゃいますか?」
……返事がない。
「……いないのかしら?」
念のため、ドアノブに手をかけた、その瞬間――。
「っ!?」
ガシッ!!
「えっ……!?」
驚きのあまり声が漏れる。
突如としてルーシーの手首がガッチリと掴まれ、ドアが開かれることを阻止されたのだ。
顔を上げると――そこには、尋常ならざる形相のフローレイがいた。
「……!」
紫色の瞳が鋭く光り、普段の柔らかな雰囲気とはまるで違う。
ルーシーは思わず息をのんだ。
(えっ、なに……!? 私、何かまずいことした!?)
けれど、フローレイはすぐにその険しい表情を和らげ、少し苦笑するように言った。
「あぁ、すまない。研究室には危険なものが山ほどあるんだよ」
そしてウインクしながら、軽い調子で続ける。
「大事な侯爵夫人に、何かあったら大変だからね?」
「あ……そっか」
ルーシーは一瞬緊張していた肩を落とし、納得する。
(確かに、ここは研究室だもんね……。危険な薬品とか、いっぱいあるのも当然か)
「それで、どうした?」
フローレイが手を放し、優しく尋ねてくる。
「あ、えっと……懐妊薬的なものってありますか?」
「……なんだ、もう子が欲しいのか?」
フローレイの口元が微かに上がる。
「はい。実は……王室に目をつけられてしまったみたいで……」
「――なんだって!?」
ルーシーが言い終わるや否や、フローレイが彼女の両肩をガシッと掴んだ。
「えっ、ちょ、近いです!」
急に迫られ、ルーシーは思わずのけぞる。
(フローレイ様、顔がめちゃくちゃ真剣すぎる……!)
フローレイの紫色の瞳が鋭く光り、まるで獲物を見定める猛禽類のような目つきになっている。
「それはいけないな……」
呟くように言った後、フローレイは何かを考える素振りを見せると、突然――。
「必要なら人工授精も可能だが?」
「――へ?」
ルーシーの思考が一瞬停止する。
「あ、いや……えっと……」
思わず言葉が詰まる。人工授精――!? もうそんな技術を確立しているの!?
「最終手段だと考えていいさ」
フローレイはあくまで冷静な表情で、彼女の肩から手を離した。
「は、はい……」
ルーシーは思わず姿勢を正す。
(フローレイ様、凄すぎる。同じ転生者なのに、もうそこまでの研究を終わらせていたなんて……!)
この世界に来てから、ルーシーはフローレイが『研究者』として非凡な才能を持っていることを知っていたが、想像以上だった。
彼女が転生者としてどれほどの知識を蓄え、それを形にしているのか――。
(……本当にすごいなぁ)
そう思っていると、フローレイは何かを難しそうに考え込むような表情を浮かべた。
やがて、ゆっくりとルーシーの方を向き、こう問いかける。
「ルーシー、時間がある時に医療を学ばないか?」
「――え!? 私がですか?」
ルーシーは驚きのあまり、思わず声を上げる。
「そうだよ」
フローレイは微笑みながら続けた。
「もちろん、看護師とは違う。でも、この世界ではそれに一番近い存在だからね」
「……」
ルーシーは、驚きつつも心のどこかで何かがふわりと浮かび上がるのを感じた。
(医療を……学ぶ……?)
前世で目指していた看護師。
途中で諦めざる終えなかった夢。
けれど――この世界で、またその道に触れることができるかもしれない。
それはまるで、前世の続きができるような気がして――。
ルーシーは胸の奥が温かくなるのを感じながら、フローレイを見つめ返した。
「……私に、できますか?」
「もちろんさ」
フローレイはにこりと笑い、紫の瞳に確かな光を宿す。
「ルーシー…いいや、侯爵夫人様なら、きっとね」
ルーシーは――未来の扉が、少しだけ開いたような気がした。
―――――――――
―――――――
――深夜、ゲレルハイム侯爵邸・寝室
夜の闇が窓の外に広がり、静かな空気が寝室を満たしていた。
揺れる燭台の灯火が、深紅の天蓋付きベッドに繊細な影を落とす。
ふわりと乱れたシーツの上、温もりに包まれながら、ルーシーはぼんやりと天井を見つめていた。
呼吸はまだ整いきらず、肌には残る熱の余韻。
ヴァルドリヒの腕が、まるで自分の存在を確かめるかのように、しっかりと彼女の腰を抱き寄せている。
(……本当に、効くのかしら)
思わず、ベッドサイドのテーブルに目を向ける。
そこには、淡い青色の液体が入った小瓶がひっそりと佇んでいた。
――懐妊薬。
房事の前に飲んでから、時間がどれほど経っただろうか。
今もなお残る甘美な痺れと、ヴァルドリヒの指先が肌に残した熱の名残が、確かに今夜の激しさを物語っていた。
視線を落としながら、ルーシーは昼間の会話を思い返していた。
――医療を学ばないか?
フローレイのその言葉が、ずっと胸の奥に残っている。
(私は……前世では、人を助けたいという強い気持ちを持っていた)
小さく、心の中で呟く。
学生時代、看護師になりたいと願った。
でも、学費をまかなえず、結局は介護士として働くことを選んだ。
それでも――夢を諦めることはできなかった。
働きながら学び、いつか看護師になろうと努力していた。
けれど、その矢先。
介護していた男性が突然暴れ、抵抗する間もなく階段から落ち――
気がついたときには、異世界にいた。
(あのとき、本当に私は死んでしまったんだろうか)
ふと、ルーシーはヴァルドリヒの腕に視線を向ける。
彼の腕は、まるで彼女を逃がさないかのようにしっかりと絡みついていた。
(……もし、私が医者になれたら)
少しは、過去の自分が報われるかもしれない。
諦めてしまった夢。
叶わなかった願い。
ここなら――続きを歩めるかもしれない。
「……フローレイの弟子になるというのは本当か?」
唐突に、ヴァルドリヒの低い声が響いた。
「……あら、耳が早いですね。」
ルーシーは微笑み、彼の腕の中で身じろぎした。
ヴァルドリヒはルーシーの肩に顔をうずめながら、どこか不機嫌そうに息をつく。
「お前のことなら、すぐに耳に入るさ」
「ふふ……えぇ。無理のない範囲で、ゆっくりやっていこうかと思っています」
彼女がそう言うと、ヴァルドリヒは微かに唇を歪めた。
「そうしてくれ」
その声には、彼女を想う優しさと、どこか寂しげな響きが混ざっている。
「俺は……どれだけ抱いても抱き足りないからな……」
低く甘い囁きが耳元に落とされる。
「……もう、またそんなことを言って」
ルーシーは軽く眉を上げるが、ヴァルドリヒは真剣な顔のままだった。
「そんなこと言っても、妊娠中はできませんよ?」
彼女がクスッと笑いながら言うと、ヴァルドリヒはわずかに眉を寄せた。
「わかっているさ」
その声は、どこか未練がましい。
「それでも……お前の側にいたい」
ぎゅっと、腕の力が強まる。
「こうして毎日抱きしめて寝たい」
(……本当に、甘えん坊ね)
ルーシーは、彼の髪を優しく撫でながら、小さく笑う。
「はいはい、仕方ない方ですね」
彼の背をぽんぽんと優しく叩くと、ヴァルドリヒは目を細める。
「……お前に甘えられるのは、俺だけだからな」
「えぇ、知ってますよ」
囁くように答えながら、ルーシーは彼の温もりに身を預けた。