35話目
煌びやかな灯りが王城の窓から溢れ、夜の街を優雅に照らしていた。王族や貴族たちが集う夜会の夜。
それは、正式にゲレルハイム侯爵夫人となったルーシーにとって、初めての社交の場だった。
王室が主催する格式高い晩餐会――そこへ、夫婦揃って出席する必要があった。
王城の正門をくぐると、荘厳な石造りの建物がそびえ立ち、庭園には無数の灯籠がともされている。
そして、大理石の階段を登った先にある壮麗な大ホールの扉が、ゆっくりと来賓たちを迎えていた。
「……はぁ、き、緊張するわ。」
馬車が静かに停まり、ルーシーはわずかに唇を噛んだ。
足元の裾を整えながら、ヴァルドリヒの手を借りて馬車から降りる。
青と白を基調としたドレスは、侯爵夫人としての気品を纏わせるもので、彼女にとっても慣れないほど豪奢なものだった。
ヴァルドリヒもまた、お揃いの青と白の装いを身にまとい、威厳と美しさを兼ね備えた姿で立っている。
彼がそっと手を差し出す。
「大丈夫だ、俺がいる」
優雅な仕草で彼の腕に手を添えた瞬間――ルーシーの耳元に、甘く低い囁きが落ちた。
「……実は俺もなんだ」
ルーシーは思わず目を瞬かせる。
「えっ?」
思いもよらぬ言葉に、驚いて彼を見上げる。
ヴァルドリヒの瞳は相変わらず鋭く、それでいて、どこか茶目っ気のある微笑を浮かべていた。
「実は、こういう社交の場には数えるほどしか来たことがない」
「……えぇ?」
「元々、戦場にいたからな。俺のような者にとって、こういう場は馴染まないんだ」
ヴァルドリヒは至極淡々と告げたが、ルーシーの緊張は少し和らいだ。
彼女にとっては完全に初めてのことだが、ヴァルドリヒにとっては数回程度の経験がある。
(まぁ、初めて同士よりはマシかしら。)
そう思い直し、彼の腕にしっかりと手を添えた。
そして――。
大ホールの扉が開かれる。
◇◆◇
王城の大ホール――社交の場
大理石の床にシャンデリアの光が反射し、煌びやかな装飾が施された壁には、豪奢な金細工が施されている。
広々としたホールには既に多くの貴族たちが集い、華やかな衣装を身にまといながら談笑していた。
流れるように響くのは、宮廷楽団による優雅な弦楽の調べ。
ルーシーとヴァルドリヒが入場すると、貴族たちの視線が一斉にこちらへ向けられた。
「――おや、あれがゲレルハイム侯爵の花嫁か」
「噂には聞いていたが、本当に異国人なようだな。」
「侯爵閣下も……やはり、噂以上だな」
ひそひそと交わされる言葉が、否応なしに耳へと届く。
(うっ……なんか、めちゃくちゃ見られてる……)
ルーシーは背筋にひやりとしたものを感じたが、その隣にいるヴァルドリヒは全く動じる様子がない。
堂々とした歩調。
しなやかに、しかし威厳を持って歩く彼の姿に、ルーシーもなんとか気持ちを落ち着かせる。
彼女が感じるのは、隣にいる彼の確かな存在。
ヴァルドリヒは周囲の視線などものともせず、彼女の手をしっかりと握り、ゆっくりとホールの中央へと進んでいく。
まるで、彼女を誇示するように。
「緊張するな」
「そ、そんな簡単に言わないで……」
「なら、こうしよう」
ヴァルドリヒはルーシーの指を絡めるようにしっかりと握り、彼女の手の甲に軽く唇を落とした。
「っ!?」
貴族たちの視線が、ざわりと動く。
「俺の隣にいるのは、お前だ。他の誰でもない」
彼の金色の瞳が、強くルーシーを射抜く。
――その視線に、彼女の胸は甘く締め付けられた。
――――――――
――――――
やがて、国王と王妃が登場し、晩餐会が始まる。
豪華な料理が並ぶテーブル、談笑する貴族たち、舞踏の音楽が流れるホール。
華やかな宮廷の社交の場は、まるで夢の中にいるような光景だった。
「さて、ルシメリア。」
ヴァルドリヒが、彼女にそっと手を差し出す。
「初めての社交の場で、俺と踊ってくれるか?」
彼の問いに、ルーシーは息を呑む。
(え、ダンス……!? そういえば、習ったけど……大丈夫、かな……?)
戸惑う彼女に、ヴァルドリヒは微笑みながら囁いた。
「大丈夫だ、俺が導く」
「……っ」
その言葉に、ルーシーはそっと頷く。
夜会が華やかに繰り広げられる中、ヴァルドリヒはルーシーの手を取り、舞踏の輪の中へと足を踏み入れた。
壮麗なシャンデリアの光が、二人の姿を照らし出す。
白と青の衣装に包まれた二人は、誰が見ても映える美しい組み合わせだった。
ホールに響く優雅な旋律。
流れる音楽に合わせて、ヴァルドリヒは彼女の腰に手を添え、自然な動作で引き寄せる。
ルーシーは反射的に息を呑んだ。
「……近い」
ヴァルドリヒは小さく笑う。
「当然だろう?」
彼の手は、しっかりとルーシーの腰を支えていた。
指先が布越しに触れる感触が、妙に意識されてしまう。
(……大丈夫、大丈夫。落ち着いて……!)
そう自分に言い聞かせながら、彼女は彼の手のひらに自分の手を重ねた。
そして――踊りが始まる。
最初の一歩、ヴァルドリヒがゆっくりとリードする。
ルーシーもそれに合わせて、慎重に足を運ぶ。
旋律に乗るにつれ、徐々に動きは流れるように変わっていった。
ヴァルドリヒの腕に導かれ、彼女はくるりと回る。
ドレスの裾がふわりと舞い、周囲の視線をさらう。
(……私、ちゃんと踊れてる?)
不安がよぎる間もなく、ヴァルドリヒが低く囁いた。
「綺麗だ」
彼の金色の瞳が、ルーシーだけを映している。
誰もが見つめる中で、この視線は彼女にだけ向けられていた。
――しかし、周囲には他の女性たちの視線もあった。
「ヴァルドリヒ様は、やはり素敵……」
「まだ独身だったら……」
「本当にあの子が、侯爵夫人なのね……」
囁くような声が、あちこちから漏れ聞こえる。
ヴァルドリヒは今もなお、社交界では羨望の的だった。
その美貌と名声は、数多の貴族令嬢たちの憧れであり、求められる存在。
――それでも。
この男は、すでにルーシーのものだった。
そして、ヴァルドリヒ自身も、それを証明するように彼女を抱き寄せる。
次第に曲のテンポが上がり、ダンスはより情熱的なものへと変わっていった。
ヴァルドリヒはぐっと彼女の腰を引き寄せる。
身体の距離がぐっと縮まり、互いの熱が伝わるほどに近づいた。
ルーシーは思わず息を呑む。
「ヴァル……?」
「……俺はお前のものだ。」
彼は、彼女の耳元で囁くように言う。
次の瞬間、ヴァルドリヒはルーシーの手を引き、ぐるりと回転させた。
裾が舞い、煌めく布が光を弾く。
彼の手が、再び彼女の腰を抱き寄せた。
――そして、ダンスの終わり際。
彼の顔が、ゆっくりと近づく。
「っ……」
ルーシーの頬が熱くなる。
ヴァルドリヒは、迷いもなくルーシーの額にそっと口づけを落とした。
会場が静まり返る。
「……っ!」
甘く、熱く。
まるで、この場にいる全員へ示すような、誓いのキスだった。
彼の金色の瞳が、強くルーシーを見つめている。
ルーシーは、彼の胸に額を寄せるようにしながら、小さく息を吐いた。
その瞬間――。
「ふむ……」
低く響く声が、二人の間に割って入った。
ヴァルドリヒは微かに眉をひそめながら、視線を上げる。
目の前に立っていたのは、この国の頂点に君臨する人物――王だった。
王は品のある笑みを浮かべながら、ゆっくりと近づいてくる。
その周囲には王妃や王子たち、さらに多くの貴族たちが控えていた。
「美しいものを見せてもらったよ、ゲレルハイム侯爵」
静かに言いながら、王の視線がルーシーへと移る。
まるで値踏みするような、どこか探るような目。
「実に魅力的な婦人だな。貴族の中でも、これほどの美貌と聡明さを兼ね備えた者はそうはいない」
「……光栄です」
ヴァルドリヒは、感情の読めない穏やかな声で返す。
王は軽く片眉を上げ、手元のワインを揺らした。
グラスの中の赤い液体が、微かに波を立てる。
「そうだな……お前ほどの忠義を持つ者ならば、王家のために尽力することは厭わないだろう?」
穏やかな声。
けれど、その裏に秘められた意図に、ヴァルドリヒの目が鋭く細められた。
王の唇が、ゆっくりと動く。
「ルシメリア嬢を、王宮へ迎えるのはどうだろう」
場が、ふっと冷えた気がした。
「……何をお望みですか」
ヴァルドリヒは、落ち着いた声音で問い返す。
王はゆったりと微笑みながら、ルーシーを見つめた。
「才ある女を王宮に仕えさせるのは、国として当然のこと。
お前の妻は、ただの貴族夫人に収めるには惜しい才覚を持っている。
それを国のために活かすべきだとは思わんか?」
表向きは最もな理由。
だが、その奥にある真の意図を悟るのは容易かった。
――王は、ルーシーを手元に置こうとしている。
ヴァルドリヒは、一瞬たりとも迷わなかった。
「……確かに、我が妻は才ある女性です」
静かに、王の目を見据えながら言葉を紡ぐ。
「ですが、それはあくまで ゲレルハイム侯爵夫人として 活かされるべき才。
私の家を支え、未来を共にする存在です」
ヴァルドリヒの手が、ルーシーの腰を引き寄せる。
それはまるで、王の言葉ごと彼女を奪い去るような動作だった。
「陛下の仰ることはごもっともですが……妻を差し出せるほど、私は寛大な夫ではありません」
言葉は丁寧でありながら、その声には鋼のような意志が込められていた。
王はしばし沈黙した。
――本気だった。
それがわかるからこそ、ヴァルドリヒの中に確かな怒りが滲む。
しかし、次の瞬間。
「……はは」
王は微かに笑い、肩をすくめる。
「そうか。ならば仕方ないな」
グラスを傾け、ワインを口に含む。
「ただの戯れ言だ。お前の反応を見たかっただけだよ、侯爵」
戯れ――?
ヴァルドリヒの瞳が、一瞬だけ冷たく光る。
ルーシーは、その場の緊張感を感じ取りながら、そっと彼の袖を握る。
「……陛下、お気遣いありがとうございます」
ヴァルドリヒが、礼を取るように頭を下げる。
王はふっと笑い、踵を返した。
「良い夜を」
王が去ると、まわりの貴族たちが一斉に安堵の息を吐いた。
ヴァルドリヒは、無言のままルーシーを腕の中に抱き寄せる。
その仕草に、周囲の者たちは気圧され、誰も近づけなかった。
「帰ろうか」
彼の声は低く、怒りを隠しているような冷ややかさを帯びていた。
ルーシーはそっと彼を見上げる。
――彼は怒っている。
けれど、その怒りは自分に向けられたものではなく、王の言葉に対するもの。
「……はい」
ルーシーが小さく頷くと、ヴァルドリヒはすぐに彼女の手を引き、ホールを後にした。
彼の手のひらから伝わる熱が、いつもよりも強く感じられた。