32話目
昼下がりの侯爵邸。
ギルクス・オルクナイは、執務に必要な資料を腕に抱えながら、長い廊下を歩いていた。
(……あれ以来、ルーシーを前にしても、不思議と前のように心が揺れることはなかった)
かつては、彼女の笑顔に胸が騒ぎ、主君を裏切るような罪悪感に苛まれていたのに。
それも今では、ただの冷静な思考の中で、彼女の存在を認識しているだけだった。
代わりに――。
(フローレイとは、何度か夜を共にしてしまっている)
それは、あの酒場の夜から始まった。
彼女の誘いに乗り、情を交わし、その後も何度となく…。
だが、最近は侯爵様とルーシー様の結婚式の準備が忙しく、そんな時間は全くなくなってしまった。
おそらく、今後もないのだろう。
(……私はもう――)
考えがまとまらないまま、ギルクスは執務室の扉を開けた。
「失礼しまーー」
彼の声が部屋に響くと同時に、ルーシーの弾んだ声が飛び込んできた。
「ヴァルも一緒に考えてください! フローレイ様のお腹の中の父親を!」
「……」
ギルクスの思考が、そこで一度止まった。
彼の腕から、持っていた資料が滑り落ち、床に散らばる。
(……え?)
「……と、言われてもな」
ヴァルドリヒは眉をひそめながら、腕を組んでいる。
「接点がないからな」
「ギ、ギルクス?」
ヴァルドリヒが、彼の突然の異変に気づいたように、眉をひそめてこちらを見た。
しかし、ギルクスはそれどころではなかった。
「今……なんと?」
ルーシーが不思議そうに首を傾げる。
「え? だから、フローレイ様が身籠ってるんですよ! で、父親が誰かっていう話を――」
「身籠っている?」
ギルクスの耳の奥で、ルーシーの言葉がリフレインする。
(妊娠している?)
(フローレイが……?)
脳裏に、あの夜の光景が鮮明に蘇る。
酒の香り、熱を帯びた肌、シーツの擦れる音――。
ギシ…ギシ…ギシ…。
(まさか……いや、待て……)
ギルクスの視界がぐらりと揺れた。
「ギルクス?」
ヴァルドリヒが怪訝そうに名を呼ぶ。
しかし、ギルクスはすでに顔色を変え、口元を押さえながら、まるで逃げるようにその場を飛び出した。
「え! おい、ギルクス!」
ヴァルトリヒが驚きの声を上げるが、彼は振り返らない。
◇◆◇◆◇
ギルクスは、全速力で屋敷内を駆け抜けた。
(フローレイ……!!)
息が切れるのも構わず、ただひたすらに彼女の部屋へ向かって走る。
冷静でいるつもりだったのに、頭がぐちゃぐちゃだ。
心臓が痛いほどに脈打ち、血が沸騰するように熱くなる。
(もし、もしあれが本当なら……!)
靴音が廊下に響く。
だが、そんなことはどうでもよかった。
何も考えられなかった。
彼女が、自分の知らないところで、自分の子を宿していた。
その事実が、頭を支配していた。
廊下を突き抜け、階段を駆け上がり――勢いよく、彼女の部屋の扉を開け放った。
「バンッ!!」
「……急患か?」
涼しげな声が響く。
ギルクスの荒い息遣いとは対照的に、フローレイはまるで何事もなかったかのように、
ソファに腰掛けていた。
彼女は穏やかに紅茶のカップを手に取り、ゆっくりとした動作で口をつける。
「……何故、言わない!」
震える声が室内に響く。
フローレイは、ふっと目を細め、カップをそっとテーブルに戻した。
「何を……?」
「子供のことだ!!」
その瞬間、フローレイの指がぴたりと止まる。
しかし、彼女は驚きもせず、ほんの数秒沈黙したあと、やれやれといった様子で肩をすくめた。
「あれま。バレちゃったか」
呑気な返事に、ギルクスの奥歯がギリと鳴る。
「私との子だろ?」
声が震える。
フローレイは彼を見つめたまま、僅かに目を細めた。
「まぁ……そうだね」
それが決定打だった。
ギルクスの指先が小さく震える。
思考が追いつかない。
だが、確かに感じる。
彼の中で膨れ上がる、抑えきれない感情を。
「どうして……どうして黙っていた」
「言ったら……結婚でもしてくれるのか?」
フローレイは、唇の端を僅かに持ち上げながら、冗談めかしてそう言った。
だが――その言葉を聞いた途端。
「当たり前だ!!」
ギルクスは、怒鳴るように言い放っていた。
室内の空気が、一瞬で変わった。
フローレイは息を呑み、驚いたように目を見開く。
まるで、少女のように。
彼女は言葉を失ったまま、じっとギルクスを見つめた。
(……そんな顔をするのか、お前が)
ギルクスは、自分の胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。
フローレイは、数秒遅れて、はっとしたように笑った。
「……ったは!」
彼女の声が、小さく震える。
「それは……早く言えばよかったな」
フローレイは、なんともいえない表情で笑った。
「私を……なんだと思っているんだ」
ギルクスは、絞り出すように言った。
「ルーシーにぞっこんなんじゃなかったのか?」
「いつの話だ」
ギルクスは一歩踏み込み、そのままフローレイを抱きしめた。
驚いたように彼女の肩が揺れる。
「最近来ないから、てっきりそうなのかと思ってたよ」
「どう見ても、忙しいだろう」
「そうだね……いつの時も……お前は忙しそうだ……」
「なんだ? その表現は」
ギルクスはじっとフローレイを見つめる。
感情を押し殺したような低い声。
けれど、その奥にあるものは、静かに煮え立つような激情だった。
「……こっちの話」
フローレイは微かに口元を緩め、
くすくすと笑いながら、ギルクスの背中にそっと手を添えた。
彼の腕の中にいると、どこか落ち着く。
妙に、安心してしまう。
それは今まで感じたことのない感覚だった。
けれど――
ふいに、ギルクスの腕が解かれた。
フローレイの体が離れると、突然、
「こんなもの飲んで! 医者だろう!」
怒声とともに、ギルクスはテーブルに置かれていたティーカップを掴み、
そのまま床に叩きつけた。
カシャンッ――!
割れる音はしなかった。
ただ、陶器が床に転がり、紅茶がじんわりと広がる。
フローレイは目を瞬かせ、倒れたティーカップを見下ろした。
そして、呆れたように溜息をつく。
「何も床に叩きつけることないだろう?」
ギルクスは息を荒げたまま、彼女を睨むように見つめていた。
その灰色の瞳は、怒りと焦燥で燃えているようだった。
「それに、それはルイボスティーって言って、カフェインは入っていない」
フローレイは微笑しながら言った。
その何でもない口調に、ギルクスのこめかみがピクリと跳ねる。
「……っ、君はっ……」
「何?」
「……もっと、自分を大事にしろ……!」
フローレイの瞳が、微かに揺れる。
(この男は、どうしていつも……私に必死になるんだ)
彼が、自分のためにここまで取り乱してくれたこと。
こんなにも真っ直ぐに求めてくれたこと。
それが嬉しくて、心の奥が、じんわりと温かくなる。
自分でも信じられないほど、愛しさが込み上げていた。
彼の手の震えが、感情の大きさを物語っている。
本当は、怖かったのだろう。
自分が子供を宿しながら、何も言わずにいたことに。
(この男は、いつも……こんな私を――)
「ねぇ、ギルクス」
フローレイは、そっと彼の背に手を添え、静かに囁く。
「……私は、もう逃げられないかい?」
それはあの、眩しい二人のように――
ヴァルドリヒとルーシーのように。
「当たり前だ」
ギルクスは迷いなく言い放ち、
その瞬間、彼女を再び抱きしめた。
今度は、決して離さないというように。
腕の力が強まる。
「フローレイ……」
ギルクスの唇が彼女の額に触れる。
そっと触れるだけの優しい口づけ。
それだけで、胸の奥が甘く痺れた。
(あぁ……私、本当に……)
ギルクスの手が、頬を撫で、顎を持ち上げる。
そのまま、迷いなく――唇を重ねた。
静かに、けれど深く、彼の熱が溶け込むようなキス。
フローレイは目を閉じ、彼の温もりを受け入れた。
(……そう…今度こそ……壊れずに済むと、いいね)
心地よい重みの中で、彼女はそっと微笑んだ。