3話目
気づけば、窓の外がうっすらと明るくなっていた。
「……朝?」
夢中で片付けていたせいで、すっかり時間を忘れていたらしい。部屋の惨状は、ひとまず人が住める程度には片付いた。
とはいえ、臭いはまだ完全には消えていないし、布団やカーテンには汚れが染み込んでいる。まだやるべきことは山ほどある。
「さて……そろそろ問題の侯爵様がどうなってるか、よね。」
掃除をしている間、ベッドの上の彼は一度も動かなかった。寝息すら感じなかった気がする。
「……生きてるわよね?」
不安になりながら、天蓋付きのベッドに近づくと、そこから強烈な異臭が漂ってきた。
(……うわっ。)
思わず鼻をつまみたくなるほどの強い臭い。糞尿と汗、湿気が混ざり合い、長年放置された布団が染み込んだような独特の不快な空気がまとわりついてくる。
「……体力が落ちすぎて、トイレにも行けてないのね。」
ここまで衰弱していると、最優先すべきは清潔にすること。まずはお風呂だ。
備え付けの浴室に入ると、そこには大きなバスタブがあった。
「お湯って……このタイプね。」
薪を焚いて水を沸かし、そこからお湯をためる仕組み。幸い、前の人生で田舎の老夫婦の介護をした経験があるから、このタイプの風呂の沸かし方は知っている。
「……私だからよかったけど、普通の人ならこれ大変じゃない?」
薪をくべて火をつけ、お湯がしっかり温まるまで待つ。その間に、もう一度侯爵様の状態を確認することにした。
天蓋のカーテンをそっとめくる。
そこに横たわっていたのは、茶色とも泥色ともつかない、くすんだ長い髪をした男性だった。
髪はぼろぼろに絡まり、いろんなものがこびりついている。
そして、その顔には、鍵付きの目隠し——。
「……よく、この状態で病気にならなかったわね。」
どれほど長い間、こうしていたのか想像もつかない。誰かがきちんと世話していれば、こんなことにはならなかったはずなのに。
(もう、いいわ。やるしかない。)
私はハサミを持ち出し、長く絡まった髪を少しずつ切り落としていった。
「これは……ひどい。」
髪はところどころで固まりになり、もはや櫛ではどうにもならない状態だった。ここまで絡まっていると、解くより切った方が衛生的にも良い。
ジョキ、ジョキ、とハサミの音が響く。
「……よし、これで少しはマシになったはず。」
お湯が十分に温まった頃、私は再び侯爵様の体に手を伸ばした。
腕を回して抱え上げる。——その瞬間。
「……軽っ!!」
驚くほど軽かった。まるで中身が空っぽのような体。
「これが……英雄?」
私は衝撃を受けた。
かつて戦場で名を馳せた英雄。数々の武功を上げ、侯爵の位まで授かった男。そんな人が、今やこの有様だなんて——。
「……誰も、ちゃんと世話してないじゃない。」
怒りにも似た感情が湧き上がる。でも、それを押し殺して、私は彼を慎重に抱きかかえた。
浴室に移動し、そっとバスタブへ入れる。
お湯に体が沈んだ瞬間、彼の痩せ細った指がかすかにピクリと動いた気がした。
(……気持ちいい、って思ってる?)
そっと湯をすくい、彼の肌にかけていく。
長年の汚れが少しずつ落ちていくのがわかった。
私は慎重に体を洗い、頭に手を伸ばした。
くすんだ髪を洗い流すと——。
「……え?」
現れたのは、美しい金色の髪だった。
「……うそ、こんな綺麗な髪だったの?」
今までのくすんだ色が嘘みたいに、透き通るような金髪が現れる。
それに、こうしてよく見ると——。
「……イケメン……」
肌は青白いけれど、彫りの深い端正な顔立ち。目隠しさえ取れれば、きっと相当な美男子なのでは——?
「……目隠し、とってあげられないかしら?」
誰もが彼を恐れ、この状態のままにしていた。でも、私は別に彼を怖いと思っていない。ただ、世話をしたいだけなのに。
そう思いながら目隠しに触れた瞬間——。
スルリ。
泡ですべるように、目隠しが外れた。
「えっ——」
視線が合う。
彼の目が、開いていた。
(起きてたの!?)
驚きに息を呑む。
侯爵様は、虚ろな目でじっとこちらを見ていた。
「……侯爵様、わかりますか?」
恐る恐る声をかける。
「新しいメイドです。」
反応はない。でも、少しだけ眉が動いた気がした。
私はそれ以上怖がらせないように、ゆっくりと彼の体を洗っていく。
髪を整え、体を丁寧に洗い終えると、お湯からあげた。
バスタオルでしっかりと体を拭き、清潔なナイトローブを着せる。
痩せているとはいえ、さすがにずっと立たせておくのは無理があるので、ソファへと運んだ。
私は彼をそっと座らせ、一歩引いて彼の様子をうかがった。
「……これで、少しは楽になったはず。」
今も彼は虚ろな目で遠くを見ているだけだったが、さっきよりは顔色がよくなった気がする。
私ができることは、まだたくさんある。
「——さあ、これからが本番よ。」
私は、小さく自分に言い聞かせた。
まずは寝床を整えないと。
天蓋付きベッドのカーテンをめくると、シーツには長年の汚れがこびりつき、汗や埃が染みついていた。鼻を近づけるまでもなく、ひどい悪臭を放っている。
「……こりゃダメね。」
これを使い続けるのは無理だ。私は迷わずシーツをすべて剥ぎ取り、丸めて隅へ放り投げた。
そのまま扉へ向かい、外で待機していた門番に声をかける。
「すみません、新しい布団とシーツを用意していただけますか?」
門番は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「……わかった。手配しよう。」
布団が届くまでの間、私は食事の準備をすることにした。
厨房まで行く時間はないので、室内に備え付けられた簡易的なかまどを使う。
手持ちの食材を探してみると、保存のきく硬めのパンとミルクを見つけた。
「よし、これなら……。」
私はパンを適当な大きさにちぎり、ミルクと一緒に鍋へ入れる。
火を入れ、焦がさないようにじっくり煮込む。少しずつパンがふやけ、トロトロの状態になってきた。
「うん、いい感じ。」
消化の負担が少なく、栄養もとれる。食欲がなくてもこれなら口に運びやすいはず。
ちょうどその頃、新しい布団が運ばれてきた。
私は手早く敷布を広げ、枕や掛け布団を整える。これで、侯爵様も少しは快適に眠れるはず——。
「……驚いた。」
不意に背後から声がした。
振り返ると、そこにはギルクスが立っていた。
彼は部屋をぐるりと見回し、信じられないものを見たように目を見開いている。
「まさか……ここまで……。」
「当然です!」
私は胸を張る。
しかし、ギルクスの表情が一瞬にして険しくなった。
「——なっ!? 目隠しが取れている!!」
彼は狼狽し、急ぎ足で侯爵のそばへ向かう。
「だめだ! 怪我をする!」
私は肩をすくめながら首を振った。
「いつの話をされてるんですか? もうこの人には、そんな気力ありませんよ。」
ギルクスはぎゅっと拳を握りしめ、険しい顔のまま侯爵を見つめる。
「だが……医者は確かに……。」
「確かに?」
「……いや。」
私は黙って鍋をかき混ぜ、パン粥を器によそった。
「まずは、これを食べてもらいましょう。」
私はスプーンを取り、侯爵様の口元へそっと運ぶ。
「侯爵様、食べられますか?」
ゆっくりと、彼の唇へスプーンを触れさせる。
しばらく動かなかった彼の口が、かすかに開いた。
スプーンをそっと差し入れると、彼はゆっくりと咀嚼し——飲み込んだ。
「……良かった。」
思わず安堵の息が漏れる。
その様子を見ていたギルクスが、ぼそりとつぶやいた。
「……侯爵様が、食事を……。」
私はふと疑問に思い、ギルクスに尋ねる。
「ギルクス様、医者に見せていたのですか?」
彼は頷いた。
「あぁ。ポーションを飲ませるために……。」
ポーション!?
とうとう異世界要素が出てきたわね。
(……なんか、想像してたより地味な形で出てきたけど。)
「そうですか。」
ポーションってことは、魔法の回復薬みたいなもの? でも、それを使っても回復しなかったってことよね……。
私は再び侯爵様の様子をうかがう。
(良かった……咀嚼は少しできてるみたいね。)
「お水、飲めますか?」
私は慎重に、スプーンで水をすくい、彼の唇へそっと当てた。
すると——。
「……ゴクリ。」
ゆっくりとではあるが、確かに喉が動き、水を飲み込んだ。
「生きてるようですね。」
私は微笑みながら言う。
「当たり前だ!!」
ギルクスがやや憤ったように声を荒げた。
「大きな声を出さないでください。」
私はきっぱりと彼を制した。
「侯爵様は病人同然なんですから。」
ギルクスは、言葉を詰まらせたように口を閉じた。
私はもう一度、侯爵様を見つめる。
彼の表情に変化はないが、それでも先ほどよりは、少しだけ生気が戻った気がした。
このまま、ゆっくりでもいい。少しずつ、彼を回復させていくしかない。